645. 未来の話をしよう
連日の疲労と程良く涼しい風に眠気を誘われ、琴音が増殖する夢の話は半分しか聞けなかった。30分ほど寝ていただろうか。
目を開けると視界が真っ暗だった。首を捻ると隙間から青空が零れ落ちて、帽子を被せられていたことに気付く。
「……なにしとんの」
「上下関係をたたきこんでる」
「ぐへえ」
腰に跨ってお尻で腹をグイグイ押している。バランスボールに乗っている、というのは極めて保身的な例えだ。騎〇位にしか見えない。俺は汚れてしまった。
深く澄み切った大きな瞳は、生まれ育ったバレンシアの夏空と地中海の美しい緑を想起させる。良し、上手い例えだ。さっきのとプラマイゼロだ。
「デート中に寝るバカがいるかよ。殺すぞ」
「そんな雰囲気でもなかったやろ……ねえ重い」
「軽いだろ」
「軽いけれども」
寝ている間にマッサージでもしてくれたのか。結構な強さで腰骨を圧迫して来るが、不思議と痛みは感じない。或いは痛みを感じる段階を通り越したか。
「これもあんときと一緒だね」
「…………おー。せやな」
「ホントに分かってんの?」
「アレやろ。シーワールドのときの」
芝生に寝転がっていたら、突然甘えて来た彼女に馬乗りされて。ちょっかい掛け合って、何故か追いかけっこが始まって。危うくキスしそうになって。
今では瑞希との距離感もこれくらいが当たり前だけれど、当時は緊張していた。真上から見下ろされるとそのまま吸い込まれてしまいそうで、ゾッとするくらい綺麗だったんだ。
確かに似ている。デジャブと言っても良い。
だがあの頃の俺たちと決定的に違うのは。
「一緒じゃねえんだな。これが」
「そりゃまー、場所も季節もちがうし」
「あのあと俺たち、どうなったんだっけ?」
「……なに? してほしーの?」
「別に。なんも言うてへんで」
「しょーがねえなっ」
力の抜けた撫でるような微笑を垂らし、ゆっくり顔を近付ける。ほんの一瞬軽く触れ合い、すぐに離れていく。瑞希にして珍しくアッサリしたものだ。
時間の経過は恐ろしい。あの時はお互い首まで真っ赤にして一線を渋りに渋っていたのに、今では挨拶も同然。
外国の血が混じっているからこれくらい普通のことなんだと、言い訳を重ねたとて誰も納得はしないのだろう。
「今日、どうしたんだよ」
「なにが?」
「明らかに元気無かったやろ。特にメシ食う前」
「…………そうだったっけ?」
「そうだったよ」
「……んー。まぁ、大したことじゃねえけどな。アレだよアレ。いざってなるとやっぱり緊張するっていうか。これでも華の乙女だしな」
「本物の乙女は自分のこと乙女とか言わねえよ」
「ハッ。確かに過ぎるわ」
派手なゴールドの髪色はあらゆる雑多と苦労を覆い隠してしまうし、空を早足で駆け抜ける入道雲も一役買っている。時折見え隠れする灰色の影は、きっと彼女の内側から意図せず漏れたものなのだろう。
覚えた違和感は勘違いではなかった。瑞希はすぐ脇にグデンと転がり落ちて、空を見上げポツポツと話し出す。
「手紙がさ。修学旅行から帰って来たらちょうど届いてて」
「……お父さんから?」
「ん。一年ぶりくらいかな」
「一年って……ずっとやり取りしてたんじゃねえの?」
文化祭のときだっただろうか。スペインで暮らしている父親とは手紙で頻繁にやり取りしていると、そのようなことを言っていた気がする。となると、あの話には少し嘘が混じっていたのか。
「あたしが送るだけだよ。まっ、こっちも暫く出してなかったんだけどね」
「……で、なんて?」
「再婚すんだってさ。現地の人と」
色味の無い淡々とした声で呟く。怒りに震えているでもなく、かと言ってなにを考えていることもなく。ただジッと雲の動きを見つめていた。
「アレよ。ずっと浮気してた人。やっと身の回りが落ち着いて、ちゃんと籍入れることになったんだって。だからあたしにも、一応さ」
「……そっか」
「タイミング最悪なんだよな。いや、別に良いんよ。今のパパはあたしの知ってるパパじゃないから。昔の楽しい思い出だけ持ってれば、あたしは十分だし」
すべてに折り合いを付けたわけではないだろうが、瑞希にとってスペインでの思い出や、家族三人で過ごした日々はもはや過去のモノ。あくまで彼女を形成する一部分というだけだ。
キチンと整理は出来ているだろうし、引き摺っているわけでもないと、つい数十分前に話したばかりだ。その辺りは彼女を信頼している。
けれど、言うところのタイミングとは。
どういうことなのかもう少し聞いてみよう。
「あの人にも一応読ませたんよ。一昨日。すっげえ久々にどこも行かねえで家に居てさ。その代わり部屋から出られなかったけど」
「……なんて言ってた?」
「なんも。ノーリアクション。アンタにあげるって、突き返されて終わり…………でもさぁ。なんか、分かっちゃうんだよなぁ」
「分かる?」
「もう全然興味無いですーみたいな顔してさ。やっぱあの人もあの人で、ちょっと引っ掛かってるんだよ。思うところ、あります! みたいなカンジ。その顔がマジでアホっぽくてさあ」
やり取りを思い出しヘラヘラ笑う瑞希。分かりやすい作り笑顔だ。だが一概に悪いものと言い切るのも勇気がいる。
瑞希の母親にすれば、離婚した男がこれからどうするかなんて欠片も興味も無い話の筈だ。
自分だって夜な夜な男の家を渡り歩いているような人間なのだから。まさか後悔しているわけでもあるまい。
でも、気持ちは分かる。分かってやれないこともない。どれだけ心が、距離が離れてしまっても、かつて想い合った相手なのだから。
俺もこっちで暮らしている間、両親のことを一度も考えなかったと言えばそれは嘘になる。憎しみ余りに余って違うものへ変わっていたと、気が付くまでだいぶ時間は掛かってしまったが。
「なんかさ。上手く言えないんだけど」
「ん」
「…………あー。ホントに終わっちゃったなーって。そんな気がした。仲良し家族に戻りたいとか、別にそーゆーのじゃないけど。期待もしてなかったし。でも、本当にもうダメなんだなって。思った」
生みの親とはいえ他の女性と籍を入れてしまったら、それはもう他人だ。父親であることに違いはないが、家族ではなくなってしまう。
なんとなく光景が見えて来るようだ。きっと母親は、ほんの一瞬だけ当時の幸せな記憶に想いを馳せ、それでも過去は過去と一切の未練を断ち切り、瑞希に手紙を突き返したのだろう。もう必要の無いこと、不要なモノだと割り切って。
そして瑞希も理解したのだ。解れた糸が結ばれることは永遠に無い。三人が家族からただの他人になる瞬間を、目撃してしまったのだ。
「……まー、よーするにな」
「おう」
「ビビってる。色々と」
「んなヘラヘラした顔で言われても」
「これはな。強がりってやつよ」
「説明せんでも分かるわ」
「なら言うな。察しろ」
「敢えて読まないんだよ。空気」
「……ハルが空気を読むだと……ッ?」
「深刻な顔されてもですね」
誕生日パーティーの夜を思い出す。
関係を持ったからと言って、二人の将来が確実になるわけではない。あるのかどうかも分からない命綱に頼っても、心から信頼し合う仲にはなれない。だからあの日、俺たちは一線を越えなかった。越えられなかった。
それからまた時間が経って、俺たちの関係はもっと深く、より強固なモノになったと思う。些細な喧嘩もあったけど、それも含めて良い方向に転がった。
心から愛し、想い合っている。唯一無二のパートナーであると信じてやまない。今ならあの日超えられなかった壁も、越えられる。
それでも、未来は未来。不確定。彼女が経験して来た辛い過去、現在進行形で苛まれている不安や焦燥すべてを打ち消すことは出来ない。
故にタイミングが悪かったのだろう。とっくに覚悟は決まっているのに、余計なところで足を引っ張られている。
不幸な身の上だ。まったくもって。
お互い苦労が嵩むな。
「……あの人もさ。なんか、再婚するっぽい。なんも話されてないけど。洗面所に知らん歯ブラシ置いてあってさ。一昨日帰ってきたらやっぱ知らん男物のシャツ干してあったし。超怖くない?」
「怖いな。それは。普通に」
「あたし、どーなんのかな。着いて行かないといけないカンジなの? やっぱ」
「……分からねえけど、高校卒業したら独り立ちみたいなモンやろ。適当に理由付けて一人暮らし始めればええやん」
「じゃあハルと一緒に住むわ」
「ええよ。家探そか。もっと広い場所」
「…………えっ、マジで?」
「なんで驚いてんだよ。お前が言い出したんやろ」
身体を引き起こし目を丸めている。
瑞希にしては珍しい顔だ。良いものを見た。
理由はだいたい分かった。原因がハッキリしているのなら、あとは対処するだけだ。
柄でもないが、偶には背中を押してやろう。いっつも押されてばっかりだし、こんなときくらい構わない筈だ。
「こっから海ってどんくらい?」
「海? 歩けんことも無いけど、結構遠いよ」
「じゃ、歩いていくか。ゆっくりな」
「……お、おー」
立ち上がりボールを掬い上げると、ボレーで反対サイドのゴールへ叩き込む。長いこと寝っ転がって筋肉痛も和らいだか。
いや、そんなことはない。痛むものは痛む。簡単に取れるほど温い後遺症では無いのだ。俺だって全部消化し切ったわけじゃない。
ところが、忘れようと思えば出来ないことも無い。勿論すべて忘れてしまうわけにはいかないのだが、他にもっと大切なモノもあるのだ。
つまり、未来の話をしようぜ。瑞希。
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