639. 責任取って
ワイシャツに手を伸ばした比奈。ボタンが一つずつ丁寧に外されていく。
あっという間に肌は晒される。うっとりとした瞳を浮かべ胸板をぺたぺた触り、なんだか嬉しそう。
首筋に人差し指を当て、スーッと下半身へ降ろしていく。あまりのこそばゆさに思わず変な声が出て、比奈はそれを見ておかしそうに笑った。
「綺麗な肌。女の子みたい」
「これでも鍛えとるんやけどな……」
「モデルさんのほうが向いてるよ」
「顔で差し引きマイナスや、どうせ」
「ダメ。そんなこと言っちゃ。わたしの趣味を否定しているようなものなんだから。自信持って」
続けて指を立て、胸板になにやら文字を書き込んでいく。背中越しならまだしも彼女にしか読めないのだから、内容を考察することさえままならない。
別に知りたいとも思わない。きっと俺の知らない文学や舞台の台詞が書き込まれているのだろう。
段々と頭がぼんやりして来たのは仕込まれた呪いの魔力による影響だと、薄々気付いてはいた。
「わたし、重い女なんだ」
「知っとるわ。とっくに」
「フットサル始めて体重も増えちゃった」
「それは知らん。気にもならん」
「秋頃かな。なんとなく鏡の前に立ってたら、ふくらはぎがすっごく太くなってるのに気付いて……ショックだったなあ……」
女性という生き物はミリ単位の体重の増減に一喜一憂するものだ。頭からつま先まで女の子気質の比奈なら当然の悩みだろう。
だがそれだけが理由ではないようだ。見れば分かる。どんなことにも意味と理由を見出し、余計な付加価値を付けてしまう、女という生き物には。倉畑比奈という人間なら、やはり。
「こんなにがっちりした身体、全然理想通りじゃないんだよ。もっと華奢でスラッとした、瑞希ちゃんみたいなラインが憧れだったのに」
「あんな病的に細い奴を目標にすんなよ」
「でも、不思議と嫌な気分でもなかったの。この身体はフットサル部のために……陽翔くんのために作られたものなんだって思ったら、ねっ?」
腰を浮かし改めて跨って来る。スカートの中で下半身が擦れて、なんなら確認してやろうと手を伸ばしてみるのだけれど、先んじて制されてしまった。ゆっくりと頭を降ろし、ピッタリ重なる身体。
「気付いちゃったんだ。理想のわたしになるより、陽翔くんにとって都合の良いわたしになるほうが合理的で、幸せへの近道なんだって」
「……その結論は一向に肯定し兼ねるな」
俺の好みに合わせてくれるのは嬉しいけれど、その過程で彼女らしさを失っては元も子もない。
都合の良いお人形なんて求めていないのだ。比奈が比奈らしくあるからこそ、俺は心から彼女を愛することが出来る。
「逆に聞きたいくらいだよ。ねえ陽翔くん、わたしらしさって、なに? どうすれば倉畑比奈らしいの? 教えて?」
「…………それは……っ」
「ほら、答えられない。だって、自分でも分かってないんだよ。みんなよりちょっと落ち着いてて、俯瞰して物を見れるわたしと、陽翔くんを困らせる意地悪で生意気なわたし。どっちが本物?」
「……どっちも、だろ」
「そうだね。でもそれじゃダメなの。だって、もう違うんだもの。理想通りのわたしじゃ、この気持ちは説明出来ない。納得出来ないの」
比奈はずっと悩んでいた。根っこの部分にある気弱で自己肯定感の低い性格を受け入れられないこと。強烈な変身願望でそれを覆い隠してしまう己の弱さ。
だが先ほど言ったように、もう解決されたことなのだ。表裏をちょっとずつ溶かし合って、理想の方向へ進んでいる。
夏までとはすっかり別人だ。自分に自信が持てるようになった。
でもそれはそれで、異なる悩みの種にもなってしまった。超然とした行動理念は俺を前にした場合に限りブレが生じてしまう。ひた隠しにしていた独占欲が周囲を惑わせる要因にもなった。
「ハロウィンのときも。こないだ、談話スペースで押し倒されたときも。機会はいくらでもあった。貴方の初めての女になれるチャンス。理想のわたしのまま、貴方の女になれるチャンスだった」
「なのに出来なかった。逃してしまった。最後の最後で怖くなったの。このまま突き抜けてしまったら、もう理想のわたしにはなれない。普通の女の子には戻れないって、分かってたから」
「でも、やっぱりダメ。そんなことより、貴方に愛されるほうが重要なの。陽翔くんに愛される自分が大事だって、分かった。思い知らされた。修学旅行では失敗しちゃったけどね」
「……認めなきゃいけないの。貴方を手に入れるためには、貴方が好きになった倉畑比奈を殺さなくちゃいけない…………ううん。この言い方も違う。もう死んじゃったの。とっくの昔に。気付いていないだけだった」
道連れにでもするつもりだろうか。
首筋を力強く掴んで、少しずつ圧を加える。
「陽翔くんが殺したんだよ。貴方のせいなの。わたしの理想を、夢を、憧れを。貴方が殺したの。一突きじゃない。じわじわと、なぶり殺しにしたの」
本気で締めているわけではない。筋力も出逢った当初からは比較にならないとはいえ、それでも女の子だ。力は弱い。その気になればすぐにでも抵抗出来る。
なのに、不思議だ。
息が苦しい。左胸が軋む。
重くて、重くて。あまりにも重くて。
何故かどうして、恐ろしく心地いい。
「だからこのハムレットの台詞は、わたしの覚悟の表れ。本来の意味とはちょっと違うんだけど……でも、今のわたしにはピッタリ」
「ハロウィンのときに言ったこと、訂正するね。陽翔くん。責任取って。こんなわたしにした、わたしの理想をメチャクチャにした、責任を取ってもらうの。一生掛けて償ってもらうの」
「だって、死んじゃったんだもん。女の子を無碍に扱った罪は重いよ。陽翔くん一人の命くらい、どうってことないでしょう?」
両手を重ね、更に強く喉を締める。一心不乱なその姿はまさに盲目と呼ぶに相応しく、ハムレットの大袈裟な愛慕にも負けぬ悍ましさを想起させた。
想うだけでは足りない。言葉、身体、仕草一つ。持ち合わせるすべてを使って、比奈は伝えようとしている。俺をどれだけ愛しているか。
人生を賭けて、俺を奪い取るつもりなのだ。
「顔、真っ青だね。怖くなっちゃった?」
「苦しいんだよボケが……ッ!」
「あっ、ごめん。力入れ過ぎちゃった」
長々と首を絞められ、結構限界だった。偶に冗談が冗談じゃなくなるからお前という奴は。本当に困る。ニコニコ笑ってんじゃねえ。
「……で、俺は比奈に何をすればいいんだ?」
「別に。なにも。隣にいてくれれば良い。そうしたらきっと、陽翔くん好みのわたしに変わっていくから、もっともっと」
「偶には優しい比奈にも逢いたいけどな」
「それこそ心配無用。これも貴方が言ったこと。『変わったこともあるけど、変わらないものも沢山ある』……そうでしょ?」
「……よう覚えてるモンや、ホンマに」
そうだ。大切なモノは今でも奥底に残っている。彼女が変わってしまった、変わろうとしているからと言って、根底まで揺らぐわけではない。
例えばその、すべてを許してしまうような。
あまりに美しく、淀みの無い笑顔。
要するに、お前が笑っているうちは些細な問題。
そもそも問題すら起こってねえんだよ。
「うん。ロマンチックなお話はこれくらいにしよっか。シリアスパートばっかりだと陽翔くんも飽きちゃうよね」
「急に冷めること言うなや……」
「これ以上お話してても始まらないもの。もう我慢出来ないし。ねえ、こないだはノノちゃんに邪魔されちゃったから……今度こそ、見たい?」
「…………見たい」
「んふふっ。スケベなんだから」
ゆっくりとスカートをたくし上げる。すっかり膨張した哀れな主張を受け止めるかのように、真っ赤な下着がほんのりと湿りを増していた。
ずっと隠されていた彼女の秘めたる場所。最深部。触れたくても届かなかった。
けれど、もう違う。
簡単に手が届く。触れられる。繋がれる。
それは何故か。あの頃の俺でも、比奈でもないから。そして、俺たちが俺たちのまま、今日この日を迎えることが出来たからだ。
「一生掛けて陽翔くんのこと、支配しちゃうから。じわじわ追い詰めて、骨抜きにして、最期はわたしの手で殺してあげる。ずっと呪い続けるの」
「その代わり、わたしをちゃんと殺して。呪い続けて。これがわたしと陽翔くんの関係。理想の未来。然るべき最期。どう? 納得した?」
物騒な台詞だ。だが彼女にはよく似合う。
同じくらい重い俺にも、やはり同様に。
肯定代わりのキスを交え、俺たちは笑い合った。
「可哀そうな陽翔くん。わたしみたいな性悪の魔女に好かれちゃうなんて。お先真っ暗だね」
「毒リンゴも案外甘くて美味いモンでな」
「残念。目覚めのキスもわたしの役目なの」
「なんや、呪い解いちまうのか?」
「一生お人形のままで良いなら、そうするけど?」
「馬鹿言え。悪事に掛けては俺が一歩上や」
「…………じゃあ、確かめてみよっか」
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