638. never doubt I love


 足が縺れてベッドへ倒れ込むと同時に、激しく咥内へと襲い掛かる比奈。まだお昼にもなっていないというのに、辛抱の足りない奴。


 かく言う俺も抵抗するつもりは無く、素直に侵入を受け入れるに留まる。屁理屈を並べたところで無意味な葛藤だ。


 理性など今や俺たちには邪魔なだけ。シトラスの華やかな香りに釣られ、剥き出しの本能が瞬きも許さず膨らみ始める。



「……愛莉ちゃんの味がする」

「食ったことあるのかよ」

「そうじゃないけど。でも分かるよ。雨上がりの紫陽花みたいで、遠くで嗅ぐとツンとしてるけど、近付くとほんのり甘いの」

「ツンデレのツンか」

「とっくに面影も無いよねえ……って、もうっ。他の子の話は良いの」

「お前が始めたんだろ」


 人差し指でちょこんと額を突っつくと、鼻を尖らせ部屋の匂いを探り始める。


 学校へ向かう前に散々リセッシュをブチ撒いたのだが、やはり今朝の痕跡が色濃く残っているようだ。表情を見るにちょっと不満そう。



「ここからはわたしの時間だから……他の子の匂いはぜんぶ消さないとね。まずは愛莉ちゃんのことを忘れて貰おうかな」

「とっくにそのつもりやけどな」

「んふふ。秘密兵器、持って来ちゃった」

「秘密兵器?」

「誕生日プレゼント。あげる」


 頬にキスを添えぴょこんと起き上がる。


 確かに比奈からはまだ貰っていない。というのも、修学旅行で『プレゼントはわたし』を実行しようとして、結果ノノに邪魔されてしまったからだ。


 特にベッドから離れる様子は無い。ということは、今度こそその続きを成し遂げるのが言うところのプレゼントか。



「こないだと同じパターンか?」

「んー。半分正解で、半分外れ。もっと簡単で、分かりやすくしてみたの」


 ワイシャツのボタンに手を掛け、焦燥を煽るようゆっくりと外し始める。するりと乾いた音を共に真っ白で華奢な両肩が露出され……。


 ……え? 背中、どうした!?

 なにか書いてある……!?



「お前、それッ……!?」

「んふふふっ。どう? ビックリした?」


 俺から見えやすいよう背中を突き出す。


 痣や火傷跡でなかっただけ安心だが、これはこれでショッキングな絵面だ。

 上半身を飛び起こし目を白黒させる俺を、比奈はクスクス笑いながら眺めていた。


 英語のような筆記体が黒字で刻まれている。これって……!?



「彫ってないよ? ヘナタトゥーって言ってね、二週間くらいで消えちゃうの。ボディーアートみたいなものだよ」

「ほっ、本当に消えるんだよな……!?」

「擦ったらすぐ滲んじゃうって言ってた」

「……んだよ、驚かせんなや……ッ!!」

「あはははっ。ごめんねえ」


 本当に彫っているわけではないようだ。び、ビックリした。ついに比奈がグレたのかと思った……。


 身体の力がフッと抜けて、起こした上半身も再びベッドへと投げ出される。

 はじめは悪戯に笑うばかりの比奈だったが、俺のリアクションが相当オーバーだったせいか、ちょっとずつ笑顔が消えていく。

 


「……流石に引いちゃった?」

「いや、別に偏見とかはねえけど……」

「ほんと? じゃあ本物にすれば良かったかな」

「馬鹿言うな。綺麗な肌しとるのに勿体ない。それになにより、献血が出来なくなる。世界を司る裏ボスになりたいなら止めとけ」

「えー。そっちがメインなんだー」

「どっちもだよ、アホ」


 俺個人としては肯定派でも否定派でもないが、前述の通り献血出来ないし、銭湯もプールも入りにくくなるから、今後も縁は無いと思われる。


 ただ、海外だと親や子ども、パートナーの名前を彫っている選手も多いと聞く。そういうのはちょっとだけ憧れるかも。覚悟や愛情が見て取れるというか。誰も不快にならないしな。


 でも彼女から貰ったラブレターを全文背中に彫るのは意味が分からない。親が親なら子どもも子どもか……やめとこう、どうでも良過ぎる話だ。



「最初は本物入れる気満々だったんだよね」

「マジで言うとんのお前……てかいつの間に?」

「昨日。お店に電話したら、未成年は親の承諾が必要なんだって。そしたらヘナタトゥーなら大丈夫だって、こっちを紹介してくれたの。肌も傷付かないからって」

「……入れるとき脱いだのか?」

「担当は女の人だったよ。嫉妬しちゃった?」

「するに決まってんだろ……ッ」

「素直でよろしいっ♪」


 その話を聞いてやっと落ち着いて内容を窺い見ることが出来た。

 しかし長い文章だ。比奈にラブレターを送った記憶は無いが、どこから引用したのだろう。

 


「読めない? 英語ペラペラなんでしょ?」

「読解は専門じゃないんで……」

「ハムレットの台詞なの。どんな意味か分かる?」

「ホンマ好きやなシェイクスピア」


 人の背中によくもまぁここまで綺麗に書けるものだ。筆記体だが結構読みやすい。単語一つひとつも簡単なものが多い。ふむ。



「Doubt thou the stars are fire, Doubt that the sun doth move his aides, Doubt truth to be a liar, But never doubt I love…………」

「わあ。綺麗な発音」


 星が炎であると疑っても。

 太陽が動くことを疑っても。

 真実が嘘だと疑っても。

 わたしの愛は疑う勿れ。


 どれだけ疑念に満ちた世の中でも、私の貴方に対する愛だけは疑わないで欲しい。大まかな意味はこんなところだろうか。


 ハムレットは確か悲劇だった筈。なるほど、このような脅迫染みた一文があっても不思議ではない。


 前々から思ってたけど、シェイクスピアって結構偏屈というか特殊性癖拗らせてるよな。こんなこと考え出す奴を歴史的作家扱いしていいのかよ。



「敢えて言わせて貰うが」

「うん」

「重すぎる」

「あはは」


 舞台を成り立たせるための回りくどい台詞とは言え、流石にちょっと大袈裟だ。それになんというか、比奈らしくないとも思う。


 別に言葉にしなくたって。それこそ身体に刻む必要も無しに、俺たちは深い絆と愛情で繋がっていると信じている。目に見えない、もっと概念的ななにかで固く結ばれている筈なのだ。


 こんなことを言い出すのは、たいてい自分のことも相手のことも信用出来ないからだ。だから比奈らしくない。俺たちらしくない。



「……分かるよ。陽翔くんの言いたいこと。こういう言い回しが好きじゃないのも、分かってる」

「ならわざわざ、どうして」

「……わたしなりの覚悟、かな?」

「覚悟?」


 眼鏡を外しテーブルに置いた比奈。同時に脱ぎ掛けのワイシャツがすとんと落ち、こちらへ振り向く。ヘナタトゥーのインパクトさえ霞むほどだった。



 なにかと脇の甘い他の連中とは違い、比奈は決して隙を見せない女性だ。今日に至るまで肌着を少しでも晒すような真似は一度も無い。


 そんな彼女の柔肌と下着を初めて目の当たりにしたのだから、冷静さを欠くのも致し方ない。女性らしい華奢ながら含みのある体格と、ワインレッドの艶やかなランジェリーはどこか不釣り合いで。


 大人っぽいのに、子どもが背伸びしたみたい。

 ああ、比奈らしいなって、なんとなく思う。



「そう。残りの人生を、陽翔くんに捧げる覚悟」


 広がる晴れ間のように澄み切った声色で。

 燃え盛る炎のように、強い光を灯した瞳で。

 なのに冗談みたいな顔で、比奈は言った。

 

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