637. 愛する人
「わっ、すごい匂い。お鼻曲がっちゃいそう……換気しなきゃ換気!」
今日はもう用事が無いのでそのまま帰宅したのだが、当然のように一緒に着いて来てしまった比奈さんである。
鞄をご丁寧にリビング床へ陳列。窓を開けて換気扇のスイッチを入れる。
ついでに出しっぱなしだった本を元の位置に戻す。俺よりこの家のこと把握してる。
ベランダには昨日愛莉が着ていたデートコーデが干されたまま。それを興味深そうに一瞥し、ふんふんと満足げに頷く。
「証拠はっけーん♪」
「いやもう外から見えてたし、証拠もなんも」
「そっかあ。数時間前に二人がここで……っ」
何故かカーテンに包まり踊るようにステップを踏む。これ以上無いネタを見つけましたと悪戯に笑うその様は、いつの日かノノが言っていた『根がイジメっ子』という感想を的確に表したようで。
ただ茶化しに来ただけはない。どうやら修学旅行二日目の続きをする気満々のようだ。
別に良いんだけど。それ自体文句は無いけど。
ムードもへったくれも無いなって。ひたすらに。
「最後でも全然良かったんだけどね。昨日は愛莉ちゃんで、明日は瑞希ちゃん……何日も連続で頑張らせるのは可哀そうだし」
「なら一旦お引き取り願いたいのですが」
「いーやーだ♪」
なにその瑞希みたいなテンションは。どうした。
「だって愛莉ちゃんすっごく幸せそうな顔してて、羨ましくなっちゃったんだもん。なんて言うのかな。有り余る母性っていうか、聖性っていうか?」
「ムラムラしとっただけやろ」
「あっ。今の減点」
「最近しょっちゅう減点するな」
聖性もなんも、バスから教室までずーっと俺の傍を離れないでニヤニヤしてて、誰かが通りかかったらキュッと顔を引き締めて、またすぐに蕩けて。割といつも通りの愛莉ではあったと思うのだが。
ともかく比奈にしか分からない何かがあったらしい。間近で熱を当てられたのが原因か、すっかりその気になってしまったようだ。
「それにね陽翔くん。冷静に考えて欲しいの」
「なにを」
「一番最初は愛莉ちゃん。これはオッケー。満場一致。じゃあ次は誰なのか……そうだ! 次に陽翔くんと仲良くなったのはわたしだった!」
「だからなんやねんそのテンション」
「でもそうでしょ?」
「かもしれんが」
厳密に言えばフットサル部という枠組みの中では、だな。愛莉と出逢うより前に、比奈とは同じ教科係としてある程度交流があったから。
もっとも当時は彼女のことをまったく意識していなかったし、ノーカンみたいなものか。
「つまりわたしには、二番目の女を名乗る明確な理由と根拠があるのです。どう? 納得した?」
「……部分的には」
「部分的?」
フットサル部は俺と愛莉が始めて、最初に加わったのが比奈。そして瑞希、琴音、時間を空けてノノ、有希と真琴の中学生組と続くわけである。
出会った流れを根拠にするのであれば、瑞希にゴリ押しされるのが不服というのも、二番目に拘りたい比奈の気持ちも分からないでもない。が。
「なんで二番目で満足しとんねん」
「だってわたし、愛人だもん」
まだその設定引っ張ってるのかよ。
女子高生が好んで居座る立場じゃないぞ絶対に。
「良い言葉だよね。愛する人って書いて愛人」
「すぐにでも訂正したいが言ったら言ったで俺が汚れてるみたいな気になるから言わんでおくな」
「わー。ツッコまないツッコミだー」
「拍手すな拍手」
あまりふざけている余裕は無い。大真面目な話をしても生産性が無いことくらいとっくに知っているが、こればかりはちゃんと説明して貰わないと。
彼女の超然とした立ち振る舞いや、底なし沼も顔負けの慈悲深さに、俺は何度も救われて来た。
決して自分本位に動かず、常にフットサル部みんなのことを考えて行動してくれる、チームにとっても欠かせないバランサー。
一方、倉畑比奈という人間を象る、今も奥底で息衝いている強烈なエゴと独占欲。これまでだって何度も目の当たりにして来た。
「正直に言え。愛莉に妬いてんだろ」
「え? 全然?」
「…………あれ?」
てっきり幸せオーラ全快の愛莉を前に焦りが出て来たから、演技混じりのハイテンションで押し切りに来たのかと思っていたのに。
なに? 違うの?
真面目に考察してた時間返して?
「すまん。分からんからちゃんと説明して」
「愛莉ちゃんに勝てないから、諦めて二番目とか愛人とか言い出したって、そう思ってるでしょ?」
「違うのか?」
「ぶーっ、残念! そんなどうでもいい悩みはとっくに解決しているのでした! 陽翔くんが教えてくれたのに、忘れちゃったの?」
窓を閉めると少し不満げに頬を膨らませ、カーテンから飛び出て来る。短いスカートがふわりと揺れ動いて、細い太ももが一瞬だけ露わになった。
相変わらず小柄で痩せ味な身体だが、夏頃より少しガッチリして来たような気もする。日頃の練習の成果が出ているのか。いやまぁそれはともかく。
「俺がなにを教えたってんだよ」
「いつも言ってくれること、だよ。陽翔くんはわたしのことが好き。わたしは陽翔くんのことが好き。なら、他になにもいらないもの」
「言うて嫉妬しないってのは嘘やろ」
「そうだね、ちょっとだけ。でもどうでもいい。気にならなくなった。だって、好きなんだもん。大好きなんだもん……っ」
両手をギュッと握り満足げに微笑む。どれだけ分厚いレンズもこの笑顔を隠せやしない。
「昔はね? 他のみんなを見て、わたしだけ全然ダメだなって、遅れてるなって思ってた。一番にならなきゃ陽翔くんは振り向いてくれない。陽翔くんの優しさに甘えちゃダメだ、わたしが頑張らなきゃいけないんだって……」
確かにハロウィンの頃、そのようなことを言っていた気がする。というよりも、秋までの彼女はそういう子だった。
自分に自信が無い。コスプレやセンセーショナルな言動で飾らないと、弱い己を肯定出来なかった。
「……でも、そんなことなかった。陽翔くんはいつだって、わたしのことを見ててくれる。大切にしてくれる。大好きだって、言ってくれる」
「無理して頑張るのはもう辞めたの。必要無いことだって気付いたの。だってわたし、もうとっくに幸せなんだから。こんなダメダメなわたしを好きでいれくれる人が、隣にいるんだから」
だから、ね。
一呼吸置いて、比奈は更にこう語る。
「ちょうど良い落し処を考えたんだ。意地悪で、欲張りで、みんなよりちょっと大人な自分を好んで演じちゃうような、性格の悪いわたしと。ずっと憧れている、わたしのなりたい自分。どっちも納得出来るような答え」
これこそまさに、修学旅行で投げ掛けた『立ち位置』に帰結する問題なのだろう。それが言うところの二番目で、愛人ということか?
「修学旅行から帰って、すぐに考えてみたの。明日の今頃は二人ともえっちなことしてるんだろうなあって思いながら」
「余計なこと考えんなよ」
「だってホントのことだもーん」
いや、そんなに単純な話でもない気がする。
含みのある笑顔を前に、野暮な考察だ。
「愛莉ちゃんに嫉妬したのも嘘じゃない。心の奥では、自分が一番にって、やっぱり思ってる」
「なら二番目じゃアカンわな」
「そう。だから、事実上の一番になろうかなって」
「…………どういう意味?」
まぁまぁ重い話だった筈なのに、またよく分からない方向に拗れて来た。言っている意味がまったく分からない。事実上? なに?
「言葉で括っても意味が無いんだよね。逆に聞きたいんだけど、陽翔くんみんなのこと『お前は恋人、お前は嫁候補! お前はペットだ!』って、ハッキリ区別出来る自信がある?」
「……さっきからなんの話してんの?」
「裏ボスだよ、裏ボス。摂政さん。影から世界を操るんだよ。そういうアニメとか小説とか最近良くあるでしょ?」
「んな極端な例を挙げられても……」
ふざけているわけでもなく、真面目に話しているらしい。それ故にますます理解不能なのだが。
だが、思い返せば前にも言っていた。修学旅行二日目の朝だ。便宜上の立ち位置より、理想より実を取りたいと。でも裏ボスって。おっかないな。
「だから愛人。だって、本当に彼女やお嫁さんで満足してるなら、愛人なんて作らないでしょ?」
「それはそうかもしれんけど……」
「最初は遊びのつもりだったのに、気付いたら誰よりも優先しちゃう。そしていつの間にか、一番大切な人になってしまった……んふふっ。昼ドラみたいでカッコいいよねえ~」
ピンと立てた人差し指に唇をなぞられる。それこそドラマでもちょっとやり過ぎな演出だ。だが比奈には、こんなあざとい仕草がどこまでも似合う。
「……綺麗な恋愛なんて、わたしには出来ないの。憧れてるけど、やっぱり無理。それが建前の気持ちだって、やせ我慢だって気付いちゃったから」
「愛してるの。愛されたいの。愛されている実感が欲しいの。でも、全部は手に入らない。だから一つだけ、絶対にわたしのものにする。一番大事なところは、わたしのものにしちゃうの。良いでしょ?」
物言わさぬ怒涛の告白に、首を縦に振る以外の選択肢は与えられなかった。
結局は曖昧な言葉で括っていると、お互い分かっていない筈が無いだろうに。
手を取り合った俺たちは、さながら出来損ないの社交ダンスを踊るかのように歩幅を合わせ、ゆっくりとベッドへ向かう。
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