568. もっと特別な関係
「で、なにも覚えていないと……?」
「カレーを食べたところまではしっかり覚えてます! デスソースの中身がちょっと減っているので、それだけは確かです!」
「あ、そっすか……」
あんな中身ドロドロの液体が少し減ったくらいで変化に気付くものか。もっとマシな調味料持ち歩け。そして元気になったなら帰れ。
諸々の後処理について少々。
真琴が風呂から上がって数分後、有希はあっさりと目を覚ました。頭も多少クラクラする程度とのことで、痛みも暫くしたら引いた模様。
ところが前述の通り、晩飯を一緒に食べた序盤のやり取りからそれ以降の記憶がスパッと抜けているらしい。
風呂場で目撃した俺たちの情事も覚えていないというわけだ。そんな都合の良いことがあって堪るかと、リスク承知で思い出させようと躍起になったが、ついぞ記憶が戻ってくることは無かった。
覚えているのならこんな風にいつも通りの会話を弾ませることも出来ないか。誰よりも初心で純真な有希のことだ、仮に誤魔化していたとしても態度に出る筈だし。嘘は吐いていないのだろう。
「そんなに言われると逆に気になっちゃいます……私が寝ている間になにがあったんですか?」
「大したことじゃないよ。そうだよね、兄さん」
「……おう。せやな」
なにが馬鹿馬鹿しいって、真琴の方がよっぽど冷静なのだからお笑いもお笑いだ。
多少の気恥ずかしさは残っているようだが、俺なんかよりずっと落ち着いて有希の相手をしている。
中三相手に理性トバして、それでいて俺の方が引き摺っているなんて。立場が無いどころの話じゃない。穴が無くとも掘り尽くしたい。
「ごめんねマコくん、私のせいですっかり遅くなっちゃった……ううっ、ママ怒ってるかも……っ」
「兄さん、有希のお母さんに連絡しといてよ。自分で言わせるの可哀そうだし」
「ん、分かった……っ」
家で晩飯を食べて寝てしまったという趣旨の連絡を送ると、すぐに返事が返って来た。
面倒見てくれてありがとう、車で迎えに行くとのこと。そろそろ11時になるし、中学生二人を電車に乗せるのも怖いからな。それが良い。
「…………いつまで落ち込んでるのさ」
「……まぁ、な」
「気にされても困るんだケド……別に嘘だったってわけじゃないんでしょ?」
「それはそうやけど……こうも冷静でいられると俺が困るっていうか」
「いや、普通にまだドキドキしてる……ちょっとリセット出来たから、兄さんほどでもないってだけ」
「リセット?」
「あっ…………なっ、なんでもないっ! なんでもないから! とにかく、落ち込まれても困るって、それだけ! ホントに気にしなくていいからっ!」
語尾を荒げプイッとそっぽを向く真琴。二人のやり取りを有希はポケっとした顔で眺めている。こうも鈍感となると逆に才能だ。
どうやら今後の関係性にヒビが入るような事態には至らなかったようだが……お前が気にしなくても、俺は気にするんだよ。
「廣瀬さん、ぬいぐるみ好きなんですか?」
「……おう。メッチャ好き」
「ほえ~……シロイルカが好き、と……」
「メモんなそんなこと」
すっかり調子を取り戻しどうでもいい情報をメモ帳へ書き込む有希。誤報も誤報だよ。抱き枕を抱えて眠る癖も収集が趣味なわけでもない。
こうやって抱えていないと余計なモノを悟られてしまうから、仕方なくやってんだよ。
いくら真琴に呆れられようと、有希だけには見せられない。こんな姿。
* * * *
10分足らずで有希ママの運転する車が到着し、真琴も乗せて我が家を後にすることとなった。
別れ際の「姉さんには言わないでおくから」の一言が脳裏から離れない。結局彼女が俺の痴態を前にどう思っていたのか、答えは最後まで出ないままだった。
「…………死にた……」
二人を見送り部屋まで戻ると、全身の力がフッと抜けてしまった。ベッドへ倒れ込み暫しの総括、自己反省。共産主義者への道は近い。
(なーにやっとんねんホンマ……)
自分がしっかりしていれば、なにもおかしなことは起こらない? 少し挑発されただけであの始末、猿にも劣る知性とはこのこと。
真琴に留まらず比奈と瑞希にもほぼほぼ手を出して、琴音にも遠慮なく邪な視線をぶつけて。まるで性欲をコントロール出来ていない。
こんなこと今まで無かった。確かにアイツらはチームメイト、友達、可愛い後輩である以前にれっきとした女の子で。
似たような劣情を抱いたことも、それが現実に現れたのも初めてじゃない。ただ何度も言うように、ここまでじゃなかった。ちゃんと寸前のところで踏み止まれていたのだ。なのに、今日一日であれだけの不始末。
彼女たちと過ごして来た時間、築き上げて来た信頼を本気で疑っている自分がいる。俺たちの作り上げたモノは、所詮は一線を越えるための前振りに過ぎなかったのだろうか。
家族だなんだと偉そうなことを抜かしておいて、結局ヤリたいだけかよ。
浅ましい。浅過ぎて笑える。なにが鋼の理性じゃ、一匹狼じゃ。もう死んじまえ。
(市川ノノめェ……ッ)
責任転嫁でもしなければやってられない。いや、実際のところ原因はなにもかもアイツだったりするんだけど。一人に押し付けるつもりも無いけど。
でも、言わせてほしい。
アイツのせいで全部狂っちまった。
「…………なんやねんホンマ……」
まさにそのタイミングで電話が掛かって来た。なんて返してやろう。どうでもいい要件だったら明日出会い頭に殴ってやる。本気だぞ俺は。
「……んだよ。こんな時間に」
『やぽぽぽーい。あなたの忠実なるペット、市川ノノでございますよー』
「だったら今すぐ来い。まだ電車残ってんだろ。ご主人様の言うことが聞けねえのか? アア?」
『いやあ、そうしたいのは山々ですが上り線は終電が早いのですよ。流石のノノのて久里浜から学校まで走って向かうのは骨の折れる所業でして』
「…………なんの用だよ」
反省もクソも無い軽口を華麗に躱し、踊るような声色でノノはこう続ける。
『今日、どうでした? 一日中ムラムラしちゃってました? んふふっ』
「……うるせえな」
『ソファーでお二人と乳繰り合ってたの見てましたよ。惜しかったですね。学校ではなるべく控えなきゃあとあと大変ですよ?』
「……は? 見てたのか?」
『はい。図書室で琴音センパイを視姦していたのもバッチリ確認しました。その感じだと家には連れ込まなかったみたいですね?』
「貴様……ッ」
挑発的な言葉の数々に身体も震える。コイツ、俺が一日中悶々としているのを影で見守ってやがったのか。ふざけやがって。
なにがペットと主人の関係だ、掌で踊っているのは俺の方じゃねえか……許せん。許し難い。
我慢ならん、出会い頭に殴るのはやめだ。明日会ったらすぐにでも人気の無いところへ連れ込んでやる。絶対だ。絶対に実現させる……ッ。
『おやおや。もしかして明日にでもノノのことブチ犯そうとか考えてません?』
「ハッ、よう分かったな。ええか、隅々まで綺麗にしておけ。感動的な初体験が叶うと思うなよ」
『いえいえ、試験が終わるまではってこないだ決めたじゃないですか。ペットたるノノが「待て」を忠実に守っているのに、センパイは我慢できないんですかあ?』
「んなもん知ったことかッ!」
『駄目ですよ。ノノも口でこそ軽く言っていますが、100パーセント溺れるのは分かってるんで。ちゃんと待ってください。逃げたりしませんから』
「グっ……ッ!!」
この期に及んでお預けだと。
あり得ん。無茶苦茶言いやがって。
そんな俺の気持ちを見透かしたかのように、ノノは軽薄な態度を取りやめ、続けてこのように話を始める。
『ぶっちゃけセンパイだって、今のメンタルで初体験済ませちゃうのは嫌ですよね? 今日だって、その気になれば家に連れてってゴールイン出来たわけじゃないですか。でもしなかったんですよね?』
「…………それはっ……」
『無理やり搾り取っちゃったノノが言えた口じゃないですけど。でもノノには分かります。今のままのセンパイじゃ絶対に後悔することになるって』
「……急に真面目な話すんなや」
『そーいうノノもお好きでしょ?』
「……嫌いじゃねえとだけ言っておこう」
『むふふっ。さっすがセンパイです♪』
……そう。ノノに限らず今日のうちに事を済ませようと思えば、決して難しい相談では無かった筈だ。確かに比奈と瑞希のときはハンチョウに邪魔されて、真琴のときは有希の存在が足枷にはなった。
けれど、やろうと思えは出来たのだ。あのとき一人だけバスに乗り込まなければ。真琴を一人残して有希だけ帰らせていれば。
今この瞬間、ベッドに横たわっているのは俺一人ではなかった。
(結局、覚悟出来てねえんだよな……)
ノノとの一件を境にブレーキが外れてしまっているだけで、俺自身、彼女たちと一線を越えること。関係を持つことに根本的には納得していないのだ。
嫌とかそういう話でもない。ただ俺のなかで、彼女たちとの関係と、自身の持ち合わせる欲求がイコールで重なり切らないことに不満があるという。
そりゃ興味あるよ。非常に。物凄く。
今日一日の言動に嘘は一つもない。
願わくば全員と。
もっと特別な関係になりたい。
でも、なんか違う。何かが違うのだ。
その答えはまだ出せないけれど。少なくとも、一度冷静になったあとにこれほど気持ちが沈んでいるのだから。きっと明確な理由がある。
『その揺らぎが今のセンパイには必要なんです。センパイなりに出した答えと、自分のなかにある大義がちょっとでも一致しなければならないんですよ』
「……お前のせいで悩んどるんやぞ」
『分かってますよそんなこと。逆に言えば、ノノの心配はまったくもって不要というわけです。時期が来ればセンパイの悶々とした思いは多少なりとも解決されます。それだけは確実で、ノノはひたすらに幸せです。ただ……』
…………ただ?
『ノノ以外の方々との関係については先延ばしのままです。ノノとセンパイの関係は、どうしたってフットサル部のなかにあるんですから。それってつまり、センパイは幸せじゃないですよね?』
「だから、お前のせいで……ッ!」
『ほー! ノノがぜんぶ悪いと! 断ろうと思えば出来た筈ですよ! 戸惑うノノの顔を掴んで無理やり飲ませたのはどこの誰ですかねえ!』
「…………ごめん、嫌だったか」
『いや、むしろ興奮しました。モノ扱いされるのがこう、逆に。意外と不味くなかったです。美味しいまであります。センパイのだからですかね?』
「聞いてねえよアホっ……」
『んははっ。まぁ、それはそれで良いとして』
ノノの言う通りだ。自分のなかに渦巻く衝動をちゃんと認めてやらなければ。彼女とこのような関係に至ったのは、ノノ一人が出しゃばったからではない。自らも望んだが故の結果なのだ。
……来るべき時が来た。そういうことなのだろう。どれだけ無視し続けたって、いつかは直面する問題だ。想定より少し早かったというだけで。
なんか、いっつも同じようなことで悩んでいる気がする。でもほんのちょっとだけ違って、実は前進しているのかも。そう思わなきゃやってられん。
『簡単ですよ。ノノのときと同じです。双方が納得する、最も理想とする関係をしっかり定めるのです。そうすればきっと、ぜんぶ上手く行きますよ』
「……言ったな? 嘘じゃねえな?」
『おかげでノノは幸せの絶頂です。ついでに言うと今さっきアレな意味で絶頂を迎え……』
次の展開が容易に予想出来てしまったので、ツッコミ代わりに通話を切ってそのままベッドへ放り投げた。スマホがまた震えているが、今日はもう良いだろう。
「簡単に言うなよな……」
今までとはまるでタイプの異なる問題だ。思春期の男子学生、時間は有限。我慢が効かなくなるのは目に見えている。
決して特別な人間でもなんでもなかったことは、今日一日で痛いほど身に染みて分かった。
(機会があるとすれば……)
仮に試験期間を乗り切ったとして、次に待っているのは修学旅行。
俺はそこで、どんな結論を見出すのだろう。そして、どんな未来が待っているのだろう。
それよりもまず、あと一週間ちょっと我慢する方法を考えるのが先か。比奈と瑞希には特に説明しないと。いつどんなときも課題は山積みだ。
(…………アイツもなぁ……)
正直に言えば、今日アイツとほとんど絡みが無くて本当に良かった。彼女を前にしてはどんな障壁もまるで意味を為さないと、本能で理解していた。
これまで一度たりとも自分から動こうとしなかった俺が。ただの一回だけ。自ら手を伸ばし、好意を自覚した初めての相手。
こんな俺を、受け入れてくれるのかな。
同じように想ってくれているのかな。
お前相手ではいよいよ歯止めが効かなくなりそうだ。頼む、愛莉。暫く大人しくしていてくれ。
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