565. 空気の読めない奴
「おいッ、誰だ隠れているのは!」
神聖な学び舎にそぐわぬ情事がまかり通ろうとしたその瞬間、それ以上にこの場では不適切な野太い声が周囲に木霊する。
聞き覚えがあった。生活指導を兼ねているサッカー部顧問、体育教諭のハンチョウだ。瑞希のクラス担任でもある。評判は実に宜しくない。
「ゲッ、よりによってハンチョウとか最悪……!」
「二人とも、こっちや……!」
慌てて大きなカーテンへ包まり息を潜める。
三人分の身体はどうにか隠せそうだが、手を伸ばせば簡単に解けてしまう脆い障壁。バレるのも時間の問題だ。
先日も放課後に校内を彷徨いている生徒を叱責している場面を見掛けた。この時間帯は見回りに力を入れているのだろう。見つかったら面倒だな……。
「大人しく出て来い! ったく、試験前に誰だこんなところでコソコソしやがって!」
こちとら普段から授業はサボりがちだってのに、試験が近いときばっか張り切りやがって。空気の読めない奴だ。
正直に名乗り出て説教喰らうのも納得いかないな……ピンチを切り抜ける妙案は無いものか。
「ひ、比奈……?」
「…………ごめん、陽翔くん。こんなことしてる場合じゃないのは分かってるんだけど……!」
「なら大人しくしてろよ……ッ!?」
どうやら我慢が効かないのは俺だけではなかったようで、左腕をガッチリ掴んだまま息を荒げる比奈。胸をグイグイ押し付けられて、鼓動のテンポを合わせようと躍起になっているようだ。
危険を顧みない無鉄砲ぶりや、時折ゾッとするような破滅衝動を垣間見せるのも彼女の悪い癖。教師に発見されたところで比奈は止まらないだろう。
クソ、状況が複雑すぎて頭が回らん。
なにをどうすれば正解なんだよこれッ!
「あっ、閃いちゃった~♪ っと、あちちち……」
「瑞希……?」
と、こんなところで望外にも頼りになる瑞希である。クシシと悪戯に前歯を光らせ、いつの間にか懐に拵えていた熱々のおしるこ缶片手にカーテンのなかを踊るよう進んでいく。
上手いことハンチョウの背後へと回ると、ゆっくりと奴の背中へ近付いて……。
「差し入れだよーー!!」
「アッつァ゛ァァ゛ァッ゛ッ!!゛!!」
シャツのネックを引っ張って背中におしるこ缶を投入。あまりの熱さに身悶えるハンチョウの隙を狙いソファーの影から飛び出した。
「クソッ!? おいっ、待ちやがれこのやっ、アッツ゛ゥゥ゛!!」
「あっはははははは!! 走れはしれっ!」
「ナイス瑞希っ、超最高! 行くぞ比奈ッ!」
「まっ、待ってええええ!?」
比奈の手を取って新館から一目散に飛び出す。背中のおしるこ缶を取り出すのに夢中のハンチョウは、俺たちの正体についぞ気付かないまま。
大ピンチから一転、笑い話で済んだのは幸い。が、モノの見事に邪魔されてしまったな。本当にタイミングが悪すぎる。
……あとちょっとだったのに。
追手の姿が見えなくまで走り抜けると、正門すら飛び出してバスの停留所までやって来ていた。
疲れで肩を揺らしながらも、ハンチョウの哀れな惨状を思い返し沸々と笑いを溢れ出させる二人。
「いよっし、大成功っ!」
「もうっ、やり過ぎだよ瑞希ちゃん!」
朝から降り続く雪が堅い肌をなぞり、我先に冷静さを取り戻す。
深いため息が真っ白な息と混ざり合って、燃え滾る劣情もろとも溶けて消えてゆく過程を目にするようだった。
「…………鞄、置きっぱなしやな」
「くすみんに回収してもらおーよ。あたしも忘れちゃったし。まだ残ってるんでしょ」
「……せやな。拘らんでもええか」
「てゆーか、良いじゃんべつに。手ぶらで学校来る方が多いっしょハル。それよりさ……っ」
瑞希は熱っぽい瞳を引っ提げ、空いた右手を強く握り締める。このあとの流れは当然分かっているな。そんな風に訴えているようで。
なにをするにも一本調子で判別が付きにくい。これは瑞希の悪いところだ。一度邪魔されたからと言って決意は揺るがないだろう。しかし……。
「…………悪い、ちょっと頭冷やすわ。忘れろとは言わんが一旦引き取れ」
「えー!? せっかくヤル気なったのに!?」
「比奈もごめん。急にあんなことして、怖かったよな」
「ううん。全然。まだドキドキしてる……走ったからかな? 違うよね?」
「いや、そういうことにしとけ」
「でも陽翔くんだって……っ」
「ちょっと電話するわ」
膨れ上がる情動を断腸の思いで断ち切り、名残惜しさ諸共振り切って繋がれた両手を離す。
スマートフォンを操作し琴音へ電話を掛けるが、着信に気付いていないのか繋がらなかった。代わりににメッセージを残してポケットへしまう。
この程度のことで、談話スペースへ戻らない言い訳が成立したつもりだった。揃って忘れ物を回収すれば良いのだから、ここで別れを告げる理由も必要性も無い。無かったのに。
「荷物、まだ教室やろ。取って来いよ」
「え。あー、まぁそうだけど……なに? 一人で帰ろうとしてない? この流れで? 許されんよ?」
「ええから、はよ行けって。ハンチョウに見つかったら俺らが犯人やってバレちまうやろ。ほらっ」
「それが終わったら……行っても良いよね?」
期待を乗せた軽やかな囁き。その主である比奈だけに留まらない。瑞希も同様、先ほどの続きを果たそうとしているのは明白。
だが不思議なことに。欲に溺れ自ら手を出したというのに、二人の提案を素直に受け入れられない自分がいた。
焚きつけておいて手放すなんて、こんなに勿体ないことはない。ある種の裏切りでもあるし、誰も望んじゃいないと勿論ながら理解はしていた。
「……悪い、また今度ッ!」
「えぇッ!? ちょ、マジでっ!?」
「陽翔く~~ん!」
ちょうど有料のバスが来たので、彼女たちを置いて先に乗り込んでしまった。
すぐにドアが閉まり学校を背に発進。戸惑いの色を隠さずこちらを眺める二人を残し俺を最寄り駅へと運んでいく。
何故逃げ出したのだ、理由はなんだと問われても答えたくはない。このこんがらがった感情をリセットしたいのは確かだが、それだけではあまりにも不十分だと自分でも思う。
けれど、足が動いてしまったのだから仕方ない。兎にも角にも、いつも通りに彼女たちと接するに事足りない自分を戒めるために必要な工程ではあったのだ。そうでも思わなきゃやってられない。
「…………マジでどうしよ……っ」
落ち着こう。ちゃんと考えよう。このやり場の無い情動を最も効率的に収める方法は何か、一度腰を据えて見つめ直すのだ。
駄目だ。時間を掛ければ掛けるほど逆効果になっている。収まらない。ナニがどう収まらないって、言えるかそんなこと。こんな気分にさせられるくらいなら冷静になるんじゃなかった。
ちっとも伝わって来ないって?
仕方ない。なら分かりやすく教えてやる。
ギリギリのギリギリで、手を出すのが怖くなったんだよ。ビビってるんだよ。童貞拗らせてお馬鹿になってんだよ。どうだ満足か、笑えや畜生め。
「…………だっせー……」
俺を除いて乗客は一人もいない。唯一この情けない姿を見られるとしたら運転手に他ならないだろうが、鏡越しに目線が逢うだけでも恥ずかしくなってしまって。伸び過ぎた前髪で視界を覆い隠した。
勝手に発情して、無駄に取り繕って、結局逃げ出して。一人の世界で完結させようとしている。バレンタインの反省が一つも生きちゃいない。
彼女たちは受け入れてくれる。とっくに分かっているというのなら、拒んだり躊躇ったりする必要なんてどこにもねえだろ。
なのに、俺という奴は。
ダサい。情けない。この意気地なしめ。
こんなことならノノと最後まで致してしまえば良かった。中途半端にBまで済ませてしまったからスッキリしないのだ。
今すぐにでも呼びつけてやろうか。
俺のペットなんだろ、アイツ。
しかし、そんな自分本位の理由でノノを引っ張り回して良い筈が無い。ペットである以前に人間で、女の子だ。最低限の節度は保たなきゃ……いやでも、そうは言っても…………うぐぐぐ……。
「……どうすりゃ良いんだよぉぉ……っ」
分かってくれとか、大層なことは言わない。言える筈もない。ただ、大切なモノをどう扱うべきか。そのヒントだけ欲しい。
数少ない俺の宝物。
値段の付けられない宝石だ。
好き好んで所有しているのだから、そりゃ身に着けておきたいさ。でも、余計な真似を仕出かして壊してしまう方が怖い。
かといって大事にしまっておいてもその価値を、大切さを損ねてしまうだけだ。存在すら忘れてしまっては元も子もない。
理由が必要なのだ。ノノだけではない。一人ひとりのことを本気で考え、愛し、向き合うために。
でも、だからってこんなときにとは。人のせいにするくらいの甘えは許してほしい。マジで恨むぜ、ノノ…………あとハンチョウ。
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