564. もう無理


 眼鏡を外そうと左腕を伸ばしたが途中で止めてしまった。

 秘密裏に仕込まれていた催眠効果から逃れるのも惜しく感じる。奥底に臨む大きな瞳を少しでも間近で見たくて、勝手に身体が動いてしまったのだ。



「…………可愛いな、比奈」

「……陽翔くん?」


 きめ細やかなつるんとした頬を優しく撫で降ろすと、くすぐったそうに口元をゆすぐ彼女。

 随分と嬉しそうな顔をするものだから、止める手立ても必要性も感じられない。ゼロ距離まで近付いた唇と唇。



「め、珍しいね。陽翔くんからなんて」

「比奈、お前さ」

「うん?」

「俺のこと、好きなんだよな?」

「……だったら、どうするの?」

「ええから言え。答えろ」

「…………大好き」


 ありふれた言葉を合図に、心と身体は見る見るうちに吸い込まれ、やがて必然をもたらした。

 寒々しい肌の巡りへ一滴を垂らしたような煮え滾る血流の循環。

 

 学生らしさに満ちた初々しいソレなどとうに通り越していた。常識も世間体も初めからあって無いようなもの。



「……今年に入ってから初めてかな?」

「かもな。バレンタインの前のときは愛莉がいたから……あの、もっかい」

「……い、いいよ。好きなだけ……」


 音を立てることさえ厭わない情熱的な交配。互いの水分を吸い尽くすほどに激しく、隙間から零れる甘い吐息に誘われますます異様さを増していく。



 いよいよ今日までの自分を疑うばかりだ。愛おしい彼女を前に、俺はいったいなにを躊躇って来たのだろう。

 ひとたび求めるだけでこんなにも嬉しそうな顔をする彼女を、なにが楽しくて突っぱねていたのか。



 これから先、二人の関係がどうなるのか。それがフットサル部になにをもたらし、どんな影響を及ぼすのか。どうでもいい。考える暇さえ惜しい。


 俺は比奈が好きで、比奈も俺のことが好きで。愛しきものを求めるにそれ以上の理由が。動機が果たして必要なのか。



「……触っていいか?」

「ふぇっ……?」

「ハロウィンのときお前が言うたろ……まさか忘れてねえよな?」

「そっ、それは勿論覚えてるけどっ……ちょ、ちょっと待って? 陽翔くん、本当にどうしちゃったの? 我慢出来なくなっちゃった?」

「そうだよ……悪いか?」

「わっ、悪いことなんて無いけど……むしろ嬉しいくらいだけど、そのっ……い、いきなり過ぎて緊張しちゃうっていうか、心の準備が……ねっ?」


 予兆無しの豹変に嫌悪の色こそ窺えないが随分と驚いているようだ。冷静沈着な彼女にして珍しく歯切れは悪い。


 些細な問題だ。彼女がどうしようと俺の為すことに変わりは無い。自分で一度言ったことだ、忠実に実行して貰おうじゃないか。



「そ、そっか、わたしが煽っちゃったもんね。ちゃんと応えてあげないと……あ、あははは……いざってなるとやっぱり恥ずかしい、かも……っ」

「んな言い訳が通用と思うな。散々好き放題やりやがって、少しはこっちの身にもなれや……!」

「で、ですよねぇ~……?」


 日頃からセクハラ紛いの接触を噛まして来る彼女とは思えないほど初心な反応だ。こっちから攻め立てる分には弱いのか。意外な新発見。


 クソ、これだから困るんだ。強気な態度も汐らしい姿もこんなに魅力的だなんて。どっちに転がっても結末は同じじゃねえか。


 だが躊躇う必要はまったく無い。一方的な搾取ではなく、すべては同意の上。なんならこのまま家へ連れ帰ってでも……ッ。



「そうはフトンヤがおろさねえってな!」

「な……ッ!?」


 今にもソファーへ押し倒そうというところで、カーテンが勢いよく開かれ瑞希が戻って来てしまう。両手には人数分のおしるこ缶。


 お使いは然るべく遂行されたようだが、様子を窺うや缶をソファーに投げ飛ばし身を放り出す。

 


「ひゃあっ!」

「はいっ、勝手にイチャつくの禁止! あたしの許可とれ! てゆーか混ぜろ!」


 無理やり間に押し入られ、今度は俺が押し倒される側となる。


 どうやら普段と同じようなやり取りだと勘違いしているらしい。いやまぁ、普段からなにしてるんだよって話ではあるんだけど。



 身体を跨いで馬乗りする瑞希。これも決して珍しいじゃれ合いではなかったのだが、俺が上向きになっている手前、非常に都合が悪かった。


 一丁前に短いスカートで馬鹿正直に腰を下ろしてみろ。どこに、なにが、どう当たってしまうか。誰だって分かる筈だ。



「ばかっ、おい瑞希……!」

「えっ……待って。タイム…………え? やば。めっちゃ発情してんじゃん」

「ええから退けッ!」

「ちょ、ハルっ、動いちゃダメだって! 当たって……んん……っ!」


 弦を叩くようなか細い声を漏らし、瑞希は慌てて口元を抑えた。あっという間に蚊帳の外の比奈も唖然とした顔で状況を見守っている。


 こ、これは不味い……瑞希のスカートの中で、擦れて……っ!



「…………ごめん。ハル、ガチだった?」

「いや、あのっ……」

「へぇー……ついにその時が来たわけな」

「そ、その時?」

「前も言ったじゃん、あたしは出来るもんならシたいし。むしろ待ってた。誕生日もクリスマスもチャンス逃しちゃったからさ……」


 ほんのり頬を染め消え入る声で呟く彼女。


 待ってたって、俺が手を出すのを?

 こういう状況になるのをか?


 そりゃ確かに、瑞希とこういう展開になったのは初めてでもないし、彼女がずっと望んでいたのも知っているけれど……。



(こんなときに言うなよ……ッ!)


 一度冷静になり掛けたというのに、これじゃ余計に煽るようなもの。


 いや、違う。そんなことはない。一度だって冷静なときがあったか? 無かっただろ。このまま流れに身を任せるのが本望で、当初の予定通りだ。



「へへんっ……散々カッコつけといて、やっぱエロいこと考えてんじゃん。まっ、仕方ねえな。あたしのミリョクに気付いちまったからにはな~っ」

「…………わ、悪いかよ」

「ぜーんぜん。じゃ、誕生日プレゼントってことで。今度こそな?」


 健康的な白い歯を光らせ悪戯心たっぷりに笑う。じゅぶじゅぶと鳴る水気混じりの咀嚼音が鼓膜からこびりついて離れない。


 その間にも下腹部の主張は激しさを増していき、合わせるように瑞希も甘い吐息を溢し始める。

 スカートの奥でどのような光景が繰り広げられているか、今すぐにでも手を伸ばしてその目で確かめたかった。



「だっ、だめっ!!」

「んむゥっ!?」


 と、沈黙を保っていた比奈が柄でもなく声を荒げ、無理やりに瑞希を俺の上から退かしてしまう。いきなりどうしたと問い詰める間もなく彼女は叫んだ。



「わたしが最初! 横取りしちゃイヤ!」

「むえぇ~? どーせやること一緒なんだから順番くらい良いじゃーん!」

「だめったらだめ! これじゃわたし、引き立て役みたいだもん!」

「むー。まぁ確かにそーかもな……あ、じゃあ一緒にする?」

「……一緒に?」

「そっ。あたしとひーにゃんでコンビネーション。ハルも限界だしさ、余裕で堕とせると思うんよね。もう堕ちてるかも分からんけど」

「うぅっ…………わ、分かった。わたしも二人きりだとトチっちゃいそうだから……」

「うむ。利害の一致ってやつだな」

「はぁーっ……ほんと、肝心なところでは瑞希ちゃんに勝てないんだよねえ……」

「勝ち負けじゃねえのさ。ひーにゃんがいっつも言ってることですぜ?」

「…………うん。そうだね」


 この短時間でなにを納得したのかと問い質したいのも山々だが、効果的な一手になり得るとは到底思えない。


 両隣に腰を下ろし俺を挟み込むと、両手を二人の膝元に持っていかれガッチリとホールド。身動きが取れなくなる。


 両サイドからグングン二人の顔が近付いてきて、どっちを見れば良いのかもう分かりやしない。ど、どういう状況……!?



「なんて言うのかな? ダブルキス?」

「それ採用」

「瑞希ちゃんにもチューしちゃいそう」

「あたし全然いいよ。カモンカモン」

「……じゃあ、事故ってことにしよっか」

「ハル。ちゃんとどっちも相手しろよな」

「余所見は厳禁だよ……?」


 火照った体温が掴まれた腕から浸透して来る。サイズに優れる三人と比べれば慎ましやかな部類とはいえ、メチャクチャにこんがらがった右脳を蕩けさせるにはあまりに十分な代物だった。



 いや、もう無理。普通に限界。


 というか、そんな段階はとっくに通り過ぎた。ペースを握られようとやることは変わらない。欲しいものは欲しいのだ。


 この場が落ち着いたら、すぐにでも家まで連れて帰ろう。ムードもへったくれもない。なんなら二人同時にでも……ッ!


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