545. パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ……
「な、ん、でッッ!! 帰ってるのよォッ!!」
「はいはいはいどーどーどー」
怒り任せに談話スペースのソファーを殴りつける愛莉を瑞希が抑え込む。
苦笑いの比奈、呆れ顔の琴音とノノといういつも通りの見慣れた光景だが、本来ならこの辺りで「ソファーの気持ちにもなれや」と気怠い呟きが返って来るところを誰も声を挙げないのだから、残る四人とて考えも似たようなもの。
先んじて事情を聞かされていたノノから「バイトがあるからもう帰ったんじゃないですか」と告げられると、愛莉を筆頭に怒りを露わにする面々であった。
どこまで信憑性があるかは疑問だが、これではまるで自分たちから逃げ出したと捉えられてもおかしくない。
あの比奈でさえため息を重ねるのだから、この騒動だけに留まらずフットサル部の関係が大きな転換期を迎えていると、誰しも気付かないわけにはいかなかった。
「……マジでフラれちゃったんかな」
「そんなこと無いよっ……だって陽翔くん、今日だってあんなに必死に……」
「ではどうしてここへ顔を出さないのですか……要するに、私たちよりも大切な用事だと。秤に乗せた結果、そちらを優先すべきと判断したのでしょう。あの人は」
フォローもむなしくソファーで項垂れる瑞希と琴音。彼の不在を理由にフットサル部がここまで落ち込むのはサッカー部戦以来だなと、一人思い出したくもない過去を振り返り釣られて気を落とす比奈であった。
「……もう、知らない。あんな奴。バイトでもなんでも勝手にすればいいのよ……っ! アイツだってもう私のことなんか……っ!」
「愛莉センパイ、それ以上はダメです! 口に出したら本当にそう思い込んじゃいますから! 我慢ですっ!」
「だって……だってぇ……っ!」
ここ数日の情緒不安定ぶりに、流石のノノも危機感を覚えざるを得なかった。そもそもの原因が陽翔とはいえ、これほど衰弱されては今後のフットサル部の活動に影響を及ぼすだろう。
下手を打てばこのまま関係に亀裂が入り兼ねない勢いだ。ノノは慌てて話を切り替え、今後の具体的な方針を示そうと早足に口を動かす。
「取りあえず、いくら騒いでも状況は変わらないので……今日はもう解散しましょう。全員明日までに謝罪の台詞を考えて来るってことで、ここは一つ」
「でもノノちゃん、陽翔くんのバイトが終わったら夜には逢えるはずだし……」
「そうしたいのは山々なんですが、ノノもノノで予定があるんですよ。久しぶりに顔合わせる友達がいるんです。流石にノノだけ不在ってのも癪なんで」
「お友達? バレンタインに?」
「なんでもノノのためにチョコを作ってくれたみたいで。そういうわけで、センパイと仲直りしていようといなかろうと夜の予定はギッシリなのです」
「そっか……じゃあ仕方ないね」
いざとなれば陽翔宅へ乗り込む気満々の比奈だったが、ノノ一人だけタイミングがズレるのも今後への影響を考慮すれば悪手と踏んだのか、大人しく引き下がる。
ノノの提案に全員取りあえず賛同し、今日のところは解散という流れになった。もっともすぐさま切り替えたノノを除いて彼女たちの動きは極端に重い。
せめていつも通りの雰囲気だけは取り戻そうと共通意識だけは持っていたのか、瑞希は何の気なしに話を広げてみることにした。
「それってあれ。最近よく連絡してる奴?」
「はい、小学校のときのお友達です。久しぶりにこっちへ帰って来たみたいで、いつ会おうか決め兼ねていたらこんな時期に」
「……そう言えば最近、その方と見慣れない言語でやり取りされていますね。どちらの出身なんですか?」
「スペインですよ。シルヴィアちゃんって言うんです。確か瑞希センパイ、出身がバレンシアでしたよね? もしかしたら知り合いかもですねっ」
瑞希と琴音の質問をサラリと躱し、ノノはカバンを手に取って新館の玄関口へと向かう。すると。
「……シルヴィア?」
「はい? なんですかセンパイ?」
「名前。マジでシルヴィア?」
「そうですけど?」
「…………ほーん」
何やら思い当たる節があるのか、瑞希は怪訝な顔付きで眉を吊り上げる。自慢の金髪を指で挟んでグリグリと弄り回し、彼女はこのように続けた。
「ご存じのとーり、あたしってラテンの血が流れてるクォーターじゃないっすか」
「誰も気にしてないし言われなきゃ分かんないレベルだけど、まぁそうね」
「子どもの頃は向こうにいたから、勿論そっちの事情には詳しいじゃないすか」
「なんで敬語?」
「んなもん気にすんな」
不思議に首を傾げた愛莉。
瑞希はついぞ違和感の正体を口にする。
「いや、さ。めちゃくちゃ王道のあだ名なんだよな。シルヴィアにルビーって」
「あだ名?」
ノノを含め全員が反応を見せる。ルビー。有希の情報が確かなら、陽翔が交流センターでケアを担当している女性と同じ名前、あだ名だ。
「スペイン人ってみんな名前長いんだよ。別にスペインに限らずだけど。たまにいるじゃん。親とかジジババの名前が入っててフルネームクソ長い奴」
「言われてみれば、確かにそうですね。画家のピカソの本名もパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソと非常に長いことで知られています」
「よう息継ぎ無しで言い切ったなくすみん」
「ちなみにそれは洗礼後の名前で、出生時の名前はパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ……」
「くすみん。ストップ」
博識タイムに待ったを掛け、瑞希は噂の出処であるノノへ両手の人差し指を向ける。全員がその「まさか」の可能性に気付いた瞬間だった。
「い、いやいやいやっ。ノノも奇跡的に同一人物じゃないかって、そりゃちょっとは思いましたけど。流石に出来過ぎですよ! だってセンパイ、こないだちょっとお話したときもそんな素振りは……」
「ちゃんと別人だって裏は取ったん?」
「……取ってないですけどぉ」
仮に陽翔がシルヴィア=ルビーであると気付いていたのであれば、バレンタインにアルバイトがあることを長々と言い淀んでいた理由に説明が付かない。
あの態度は単純に「バレンタインに用事が入ってしまったのが気まずくて言い出せなかった」というだけのものであり。
もし仮にシルヴィアとの関係を既に把握していてサプライズ的な何かを計画しているのなら、彼はもっと堂々と構えていた筈だ。ノノはそう読んでいた。
加えてノノはシルヴィアの直近の様子をまったく確認していない。自分だって日本人にしては珍しい金髪なのだから、シルヴィアでない他の金髪の女性とデートしていようが、その人物がかつての友人だと後ろ姿だけで断言するには根拠が無さすぎる。
どちらにせよ、彼がルビーなる少女との関係において自分たちに後ろめたい状況へ陥っているのだけは確かなのだ。
ノノに言わせれば、それはバレンタインやルビーの存在の有無にかかわらず、彼自身の在り方の問題でしかない。
「ノノちゃん。わたし、ノノちゃんの考えてること、ちょっと分かるよ」
「はい?」
「仮にノノちゃんのお友達が陽翔くんと繋がっていたとしても……それをわたしたちに隠していた事実は変わらない。だから、真実を確かめても意味が無い。違う?」
「……比奈センパイ、偶にビックリするほど鋭くてマジで怖いっす」
「あははっ。当たっちゃった~」
お手上げだと言わんばかりに深いため息を重ねるノノ。そんな彼女を見兼ね比奈は。
「はあぁぁー……そっか……そうだよねえ。わたしもダメダメだなあ……」
「……比奈ちゃん?」
「愛莉ちゃんも、みんなも聞いてくれる?」
全員に向けこのように話し始める。
「確かに今回の件は、陽翔くんが一方的に悪い。経緯がどうであれ、わたしたちに悪いと思ってるのに他の女の子と仲良くしているのを隠してた。それも本当のこと」
「でもね、みんな。真実は一つとは限らないんだよ。みんなだって分かってるでしょ? 陽翔くんがどれだけわたしたちのことが大好きで、大切に想ってくれているか」
「それと、もう一つ思い出して。陽翔くんがどういう子なのか。元々人付き合いの苦手で、夏休みまでクラスで誰もお友達が居なかった、あの陽翔くんなんだよ?」
「こんな風に誰かと喧嘩みたいになったりするのだって、きっと今回が初めてなんだと思う。理由も無しにわたしたちを傷付けるようなことはしないよ。絶対に。勿論それはそれとして、反省して貰うことは沢山あるけどね?」
比奈にしても思い当たる節はある。思い返せば彼が「バイトを始めたい」などと言い出したのも、金銭的な苦労が必ずしも原因では無かった筈だ。
それを汲み取ってやれずに「アルバイトなんて辞めて……」と軽薄にも口にしてしまった。直近の子ども染みた態度も含め、自身にも大いに反省すべき点が多々ある。
「……センパイ、冬休みに言ってました。本当の意味で自立したいって」
「自立? ハルトが?」
「たぶん……サッカーやフットサル以外の、ちゃんと自分で納得出来るレベルのモノっていうか、存在価値っていうか……そういうのが欲しかったのかなって」
ノノの告白に全員が黙り込む。
そして誰しも、彼に取り続けて来た不遜な態度を後悔し始めていた。陽翔が自分たちのためにという一心でアルバイトを始めたのだとしたら。
陽翔の決意や心意気を丸々無視してしまったということだ。見知らぬ少女の存在や、バレンタインへ一向に関心を示さなかった彼への不平不満がごちゃ混ぜになって、一番大事なモノを見落としていたことに気付くのである。
「……そっか。そうだよね……アイツもアイツなりに、色々考えてるのよね……」
「そうだよなー……あたしらに黙って浮気とかデートとか、ハルのすることじゃないよな……」
「思い違いというほどでもないでしょうが、彼の気持ちを汲み取る努力を怠っていたのは……否定できませんね」
三人も口々に反省の意を示す。彼がルビーの存在を決して「隠していた」わけではないくらい、これまでの言動や人となりを見れば明らかなことだ。
同時に彼女たちは、陽翔の行動理念が一度だってブレていないことにようやく気が付くのである。
彼はいつだって自分たちを。フットサル部全体のこと一番に考えている。とはいえ、元を辿ればクセの強い不器用な男。選択を間違えることだってある。
「気付かない間に依存しちゃってたのかも。自分のことならなんでも分かってくれる、理解してくれる、いつでも気に掛けてくれる……陽翔くんも一緒なんだね。そう思い込んで、ちゃんと言葉にしないまま、今日まで来ちゃったんだと思う」
「彼の基準は、家族ですから」
「……琴音ちゃん?」
「今まで機能していなかったものにすべて預けるような真似をするから、このような事態を招いたのです……私たちも今一度、彼との関係性を見直すべき時期がやって来たのでしょう」
荷物を纏め琴音は颯爽と立ち上がる。やりきれない表情のまま立ち尽くすノノの手を取り、彼女はこう続けた。
「いづれにしても、確認を取る必要があります。市川さん、諸々の考察は一先ず棚に上げて、率直な意見をいただきたいです。貴方が今日の夜にお逢いするというご友人は、土曜日に彼と一緒にいた女性と同一人物だと考えられますか?」
「…………あり得ない話でもないかなって、ちょっと思い始めました。早坂コウハイの話だと、そのルビーちゃんも最近こっちに来たばかりみたいなので……まったくの偶然と切り捨てるのも心残りがあります」
「では決まりですね。彼のもとへと向かいましょう。なんにせよ、この問題を明日以降に持ち越すのはあまりに下策ですから…………愛莉さん、そうですよね」
琴音に促され、愛莉も握っていたスマホをしまい込み立ち上がる。今回の騒動で最も激しい憤りを見せていた彼女のことだ、そう簡単に割り切れたわけでもないが。
「分かってる……私も陽翔も、ちゃんと話さなきゃいけないこと、謝らないといけないこと、沢山あるし……」
「じゃ、さっさと向かいますか!」
瑞希も荷物を纏めソファーから飛び上がる。全員の気持ちが固まったところで、瑞希は最後に確認とノノへこう質問を投げ掛けた。
「ちなみにその子の本名ってどんなん?」
「えーっと……実は割と曖昧でしてね……」
片隅に残された記憶を引っ張り出し、ノノは覚束ない口振りで答えた。
「名字は確か、トラショーラス。シルヴィア・なんとか・なんとか・トラショーラスだった気がします」
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