544. ニューヨークへ行きたい


 それぞれ学年にはクラスが四つしか無いので、三人ひと固まりで渡して来たとなればノノの力を借りずとも当該の人物は昼休みまでに見つかった。

 

 他の一年生たちが怪訝な面持ちで見守るなか「彼女に怒られたからやっぱりチョコは受け取れない」という地獄の沙汰も生温いゴミみたいな言い訳を噛まし、確実に急降下した下級生たちからの評判を背に彼女たちのもとへと向かう。


 向かったのだが、これまた運の悪いことに五限が学年揃って体育の授業。男女で参加種目が異なるため、彼女たちとの再会はついぞ叶わなかった。



(こんなときばっか真面目に授業出やがって)


 理由も無く赴いた新館のアリーナを覗き込むと、見慣れないバドミントンのラケット片手にクラスメイトと試合に興じる瑞希の姿があった。サボり癖に付け込んだ一発逆転のチャンスも潰え、いよいよ手駒はゼロに等しい。


 交流センターでのバレンタインイベントは15時から。元々五限が終わってから真っ直ぐ向かう予定だったため、放課後に彼女たちへ時間を割くことは出来ない。


 そもそも火曜はフットサル部の活動自体が無いし、改まって予定のある無しを伝える義務は生じない。バレンタインだろうがなんだろうが、この場から離れない理由など一つもありやしないのだ。


 そう。理由は無い。

 無いけど。無いんだけど。

 そうじゃないだろって。



(…………諦めるか……)


 明日は普通の練習日だ。仮にも全国目指して真っ当に活動している運動部なのだから、痴情の縺れを長々と引き摺るのも彼女たちとて本意ではないだろう。


 どうせ明日になったら逢えるのだから。別に今日じゃなくたって良い。その時ちゃんと謝って、作ったチョコを渡して、それで終わりだ。終わりにしないと。


 たかが年に一度、お菓子会社が売名目的に無理やり引っ提げた中身の無い一日に振り回されるほど、俺たちは軟な関係じゃない。そうでも思わなければこの息苦しさに耐えられなかった。



 でも、来年は。せめて来年は何事もなく平和に過ごしたい。もっとも、来年までこの関係が続いているかどうかさえ、今の俺たちは危うい状況に晒されていると。


 勿論気付いていなかった筈がないけれど。フリでもしなければいよいよ涙の一つも堪え切れなくて、割かしどうにもならなかったのだ。






『はーい、担当のお兄さんお姉さんの指示に従って、それぞれ作業を始めてくださーい! 頑張りましょ~!』


 有希ママが音頭を取り、バレンタインイベントのお菓子作りが始まる。区役所に隣接する地区センターの料理室が今日の舞台だ。


 本来は子ども向けのイベントなのだが、参加者のなかには彼らの母親と思わしき方々や若い女性も多い。数えて20人ほどか。結構集まったな。


 各ブロックは同じ言語を使う者同士で分かれており、俺はスペイン語圏の参加者たちを管轄することとなった。無論、ルビーもファビアンも同じ班である。事前のやり取りで全員揃ってガトーショコラを作ることが決まっていた。



『うし、始めるぞ。手ェ洗った人ー』

『はーい!』

『美味しいお菓子が食べたい人ー』

『はーい!!』

『ニューヨークへ行きたい人ー』

『…………??』

『ごめん、なんでもない。忘れろ』


 会心の小ボケは外国人たちには通用しなかった。ふざけてないでさっさとやろう。


 お菓子作りと言っても工程はそれほど多くなく、チョコを砕いて温めてクリームと生卵と薄力粉を混ぜ合わせて、最後は型に入れてオーブンで焼き上げる。量が量だけに結構な手間暇だが、見積もって二時間も掛からない予定。


 しかし、そう簡単に事は運ばないのが世の常。ルビーを除いて小学生の子どもたちが多い俺の班は、一つ工程を進めるだけでも余計な気苦労が多い。



『こらファビアン! 食べるなっ! あとでたらふく食えるんだから! ハビエルも生クリーム無駄遣いするな! って、おいマリア! ボウルはちゃんと持て! 飛び散ってるから!』


 日頃の鬱憤を晴らさんとばかりに暴れ狂う子どもたち。見慣れない調理器具と甘美な匂いに釣られすっかり調子付いてしまっている。


 年長のルビーも子どもたちの制御に加わり中々進まない。ようやく落ち着いて各々の作業が進み始めると、他の班はもう完成し始めている頃だった。



『ヒロ、まるでみんなのお父さんね』

『悪いな手伝わせて。こんな手に負えないガキンチョを日頃から相手してるってんだから、親って凄いよな』

『あら、貴方にもこんな時期があったのよ?』

『どうだかね』


 よく言うよ。お前がボウル二つ重ね合わせて『これをテープで止めてサッカーした方が早く混ざるんじゃない?』とか言い出して、子どもたちがその気にならなかったらもっと早く作業終わってたんだよ。反省しろ。


 だいたい、俺にこんな時期があったわけないだろ。俺がアイツらに相手して貰ったことなんてねえよ。おむつの一つすらばあちゃんが換えていたんだから。覚えてないけど。



『みんなが羨ましいわ。パパもママもいつも忙しそうにしているから、一緒にお菓子を作ったことなんて無かったもの』

『予習が活かされなくて残念だったな』

『ドーナツは流石に作れないって、ヒロが言い出したんでしょ? これはこれで悪くないわ……うん、美味しっ!』


 頬に着いた生クリームを掬ってペロリと頬張り、ルビーはクスクスと笑う。


 今日のためにわざわざ買って来たのだというピンクのエプロンがこの上なく似合う。少し大人びているかと思いきや急に子どもっぽくなったり、かと思えば年齢相応な姿に戻ったり。相変わらず掴みどころのない美少女だ。


 

『ところでヒロ。今日はいつもに増して目が淀んでいるけれど、何か変なことでもあったの? 学校でチョコが貰えなかったとか?』

『……いや、別に。なんも』

『ウソ。こないだはもっと綺麗な目をしていたもの。あと、前髪をいい加減切りなさい。世界がぼやけて見えてしまうわ』

『こんな腐った世界は霞んで見えた方がちょうどええわ』


 あら、お洒落なこと言うのね。なんてルビーは楽しそうに笑う。このやり取りいつの日か比奈ともあったなぁ……今や遠い過去のことのようだ……。



『ヒロセ! まだ出来ないの!?』

『オーブン入れたばっかやろ。余ったチョコ食っててええから大人しく待ってろ』

『えっ、良いの!? やった!』


 残りの板チョコを手に取り他の面子にも渡してやるファビアン。すっかり年少組のリーダーだな。まだまだ年相応の幼さではあるが。


 そんな彼とのやり取りを見てルビーは何か思うところがあったのか、遠い記憶を引っ張り出すように天井を見上げ首を捻った。



『ずっと気になってたんだけど、ヒロセ、って貴方の名前なのよね?』

『え。おん。せやけど。名字の方な』

『ふーん……』

『なに。どした』

『パパの知り合いにもヒロセっていう日本人がいるのよ。昔の仕事仲間で、彼のこともヒロって呼んでたから。偶然かしら?』

『偶然やろ。珍しい名字でもねえし』


 佐藤山本田中と比べれば希少な部類だが、探せばいくらでもいるし。フットサル部って凡庸な名字の奴一人もいねえよな。果てしなくどうでもいいけど。


 そう言えばルビーの本名ってまだ聞いてないな。有希ママから「あだ名がルビー」という情報しか貰ってないから、別に気にもして来なかったな。



『私も会ったことがあるの。会ったって言っても、遠くから眺めてたってだけど…………後ろ姿がヒロに似ていないことも無いわね……』


 顎に手を当てジロジロと観察して来る。いやだから、絶対に偶然だって。俺も確かに「あの子」の面影はあるなとは思っていたけど、流石にそれは出来過ぎだ。


 まさか名字がトラショーラスだったりした日には仰天して膝から崩れ落ちるまである。そんな出来た話があるか。いやでも、一応確認してみるか。



『ルビーのフルネームって……』

『ヒロセ! マリアを止めて!』

『えっ? あ、ちょっ、お前っ! 勝手にオーブン開け閉めするな! 時間分からなくなっちゃうだろ!』


 一際お転婆な女の子のマリアがオーブンをガチャガチャ開けて遊んでいたので、慌てて確保に向かう。ファビアンの顔にはチョコが塗りたくられていた。視界を奪われ身動きが取れないようだ。可哀想に。



『ヒロ! ヒロっ! あそぼ!』

『分かった、分かったから……悪いルビー、あとは焼き上がったら冷蔵で寝かせてトッピングするだけだから、そっち頼むよ』

『ええ、任せなさいっ』


 シャツをグイグイ引っ張るマリアに連れられ、一旦料理室から出ることにした。本名聞けなかったな……まぁ後で良いか。



 お菓子作りに限らず、飾りつけだって俺の本業ではない。ルビーのセンスなら理想的な形に仕上げてくれるはずだ。所詮はオレ。気の利いたことは出来ない。


 手作りガトーショコラ。彼女たちも喜んでくれるに違いない。って、心から断言できないのが本当に悔しいし、なんなら最後の仕上げをルビーに任せている時点である種の裏切りのような気がしてならないが。


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