476. ただいま


 暫く二人は黙ったまま馬鹿みたいに立ち尽くしていた。信じられないものを見たという出で立ちで、喜怒哀楽がロクに作用しちゃいない。


 かくいう俺も思いの丈を支離滅裂にブチ撒けて、これ以上なにを伝えようか、或いは俺から動くべきなのかも分からず、ただ息を上げ悪戯に時間を浪費するばかり。


 フットサル部の皆も、文香も、財部たちも。奥で様子を窺う文香の両親も。事の顛末を食い入るような目で見守っている。



「……おばあちゃんが付けてくれたのよ。アンタの名前」

「……は?」

「アンタ、3月生まれでしょ。どうしてもハルっていう言葉を入れたくて仕方なかったらしくて……ならどうして「春」じゃなくて「陽」なんだって、結局答えてくれなかったけど……」


 俺の名前を誰が決めたのかとか、考えたことも無かったな。そうか、名前までばあちゃんが決めてくれたのか。で、やっぱりお前らはノータッチなんだな。


 突然明かされた命名までの経緯。いったいどういうつもりなのかと問い掛ける暇も無く、母の話は続いた。



「名前が決まってから、改めて意味を調べてみたの。「陽」も「翔」も、空に纏わる言葉でしょ。こう書いてあったわ……目標へ向かって高く飛んで行けるような人になってほしいって…………本当に、名前の通りになったわね」

「……は?」

「巣立ちが早過ぎたんだよ……勿論、それを止めようとしなかった自分に責任があることくらい、分かっているわ。でもアンタは私たちのことなんて気にもしないで、一人でドンドン大きくなっていって」


 淡々とした口ぶりに変わりは無いが、僅かに上擦った声色と震える肩。泣き出すことすら許されないと、自ら言い聞かせているようで。



「…………時間が解決してくれるって、本気で信じていたわ。歩み寄る努力すらしなかったのに。その手間暇さえ煩わしいと思ってしまった、血の繋がりにしか頼れなかった……今だってそう変わりは無いんだよ。私はアンタの考えていることの半分も分からない……当然よね。理解しようとして来なかったんだから」


「……言い逃れも釈明も出来ないわ。アンタの考えていた通りだよ。私たちには……親を名乗る資格が無いの」


「こんなに沢山の……心から信頼出来る子たちに出逢えて。サッカーが無くても、胸を張って生きていけるようになって……この期に及んで私たちが、なにをどうすれば良いのって。そう思う」


 匙を投げるよう首を横に振る。


 腹立たしい、口に出さずとも分かっている。今更答え合わせをするつもりは無い。この告白だけで今までの三倍は嫌いになりそうだ。



「…………つまらないプライドだ。子ども染みた言い訳をずっと繰り返して来た。お前にとっての親はばあちゃんとじいちゃんと、サッカーで、俺たちではないからな…………分かった気でいただけだったんだよ」


 煮え繰り返す自嘲を吐き捨て、父は乾いた声で笑う。その通り。アンタがどう思っていようと、俺には伝わらなかった。結果だけが残り、そしてこうなった。



「……どうすればお前に父親だと思ってもらえるか。信頼してくれるか……ずっと考えていた。いや、考えているフリだけで、実際のところ何もしてこなかった」


「これ以上嫌われるなら、距離を置かれるくらいなら……何もしない方が得策だとまで考えていた。それがお前にとって一番辛い、残酷なことだと……気付いていた筈なんだけれどな」


「…………大怪我をしたお前を見て……こんなこと聞きたくも無いと思うがな。正直に言えば……チャンスだとさえ思った。サッカーを失ったお前なら俺たちを頼ってくれると、そんなことまで考えたんだ……」


「…………俺も一緒だ。今更お前の親を名乗る資格は無い。あの日のように……今日だって同じだ。あやふやな気持ちのまま、またお前の心を逆撫でするような真似をしてしまった」


「分かるか? さっきからずっと膝が震えているんだ…………恐ろしい話だろう。実の息子に、心底怯えているんだよ俺は。情けない、不甲斐ない父親だ……ッ」


 白髪交じりの薄い頭を抱え、馬鹿みたいに歯を食い縛る。皺ひとつないスーツからは仄かに煙草の匂いが漂って来た。


 なんだ。分かってるじゃねえか。


 俺とアンタらはどこまで行っても他人で、血の繋がりしかない、そういう関係なんだよ。たかが一度の謝罪や話し合いでどうこうなるものか。



 今日この場だけで終わらせるつもりはねえよ。俺とアンタらの戦いは。探り合いは。余計な気遣いは。


 俺たちの関係は、このクソみたいに薄っぺらい糸で繋がったまま。これからも続いていくんだよ。残念ながら。


 その薄っぺらい糸を何十にも重ねて、ちっとは見えやすくしようって。切れ掛けているのなら、何度だって直してやろうって。そういう話をしているんだよ。



「陽翔。お前はもう、俺たちを諦めたのかもしれない。見切りを付けたのかもしれない。俺たちだって、お前のすべてを受け入れる自信はまだない……でも、ここへ来た。お前に逢いに来たんだ……それだけは、それだけは確かなんだ……ッ!」

「私たちには親をやっていく自信も、資格も無いよ……今更普通の家族になれるなんて思っていない。でも、でもっ……陽翔、アンタの顔が見たくて……理由なんて分からないわ。でも、どうしても逢いたかったんだよ……ッ!」


 ここまで来て凄まじい言い草だ。

 もっとまともなこと言えねえのかよ。


 まぁ、でも、ええか。

 俺も似たようなモンやし。

 取りあえず、合格点だけやるよ。



 やっぱりよく分からん奴らだけど。

 理解出来るとは思えないけど。

 全部許せるわけじゃないけど。


 でも、親なんだよ。

 他にいねえんだよ。

 お前らにしか、出来ねえんだよ。



「一回しか言わねえぞ。メモでもなんでも取る勢いで、全力で頭に入れろ」



 十分だよ。その程度の繋がりで。


 腐っても親子だろ。

 他に何もいらない。


 端から誰にも期待していなかった、愛しも、愛されもしなかった俺が。気付いたらこんなことになっているんだよ。たかが中年二人と仲良くなるくらい、幾らでも努力してやる。


 もう逃げたりしねえから。だから正面からぶつかって来い。ほんの少しでも望んでいるのなら、俺だって返してやるよ。



 なあ、ばあちゃん。

 優しさって、多分こういうことだろ。


 間違っていたら教えてくれ。

 辞める気も、訂正する気も無いけどな。


 だいぶ遅くなったけど。

 俺なりの解釈で悪いけど。

 口下手で、無愛想なのは変わらないけど。



「ありがとな、観に来てくれて」



 正直になるから。

 もっともっと、優しくなるから。


 ちゃんと伝えるからさ。



「俺にとっての親は、ばあちゃんとじいちゃんと、サッカーだよ。アンタらには裏切られてばっかりや。でも考えりゃ分かることやろ」


「アンタらを親だって、両親だって、胸を張って言いたかったんだよ。自慢の息子だって、言ってほしかったんだよ。期待の裏返しや、ぜんぶ」


「…………試合、ずっと観に来てほしかったよ。すぐ傍で応援してほしかった。誰よりも活躍して、凄いなって、褒めてもらいたかった」


「ええか。アンタらは今日、初めて俺の期待に応えたんだよ。親らしいことをやってみせたんだよ。分かるか? たかがこの程度の施しで、馬鹿みてえに喜んでるんだよ。単純やろ。アホみたいやろ…………そう、アンタらと一緒や」


「…………どういう親になりたいかなんて、んなもん知らん。アンタらの理想像なんどうでもええ。俺がなにを望んでいるかだけ考えろ。ぜんぶ教えてやる。交換条件や。お前らも分からねえなら、ちゃんと聞け。答えてやっから……ッ!」



 あー。涙止まんね。


 ダセえなあ。ガキかよホンマに。

 笑えるよ。なんもかんも馬鹿馬鹿しい。


 子ども扱いされたくなくて。弱みを見せたくなくて。一人で生きていけると信じたくて、ここまで来て、こんな人間になっちまったのに。


 ずっと、子どもになりたかったんだ。

 アンタらの子どもに、なりたかった。



「…………ごめんなさい……陽翔、陽翔……っ! ごめんね、ごめんねっ……!」

「悪かった陽翔……すまなかった、本当に、悪かった……ッ!!」

「馬鹿がッ……台詞がちげえだろ……ッ!!」



 氷のように冷たく、細身で頼りない身体。

 暖炉のように暖かく、大柄で危うい身体。

 一つの体温も宿さず、石のような身体。


 重なった三つのシルエットが少しずつ色味を取り戻し、やがて溶け落ちていく。真っ白なキャンバスに描かれた未来は、まだ見当も付かない。



 構いやしない。それでいい。

 これからもう一度。いや、はじめから。


 険しい道のりだ。無謀な挑戦だ。

 でもきっと、案外悪くないから。

 お互いちょっとずつ期待して。許して。


 ホントそれだけでいいから。

 出来ることしか求めないから。



 一緒に描いてみよう。

 同じ世界を、ともに歩いて行こう。



「愛してる、愛してる陽翔……っ!!」

「ありがとう、俺たちの息子でいてくれて、ありがとう……ッ!!」

「…………どーいたしまして」



 ただいま。

 父さん。母さん。


 ずっと言いたかった一言は、やっぱり恥ずかしくて。せめて家に帰ってからだと、心のうちにこっそりしまい込んだ。


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