Hello,goodbye
434. 反動出まくってる
(…………さむっ)
ポケットに突っ込んでいた右手を取り出して、浜風で煽られる前髪を掻き分ける。そろそろ切ろう、切ろうと思って、結局このまま年を超えてしまいそうだ。
舞洲は大阪の外れにある人工島。海へ面した広大な敷地は、お世辞にも過ごしやすい環境とは言えない。夜は寒いし、昼間は暑い。真冬の昼時ともなれば、多少はマシな気もするが。
当たり前と言えば当たり前で、俺以外の乗客は数えるほどだった。今日はこれといってイベントが行われているわけでも無いようで、この駅に降り立ったのも自分ただ一人。
敷地内は閑散としていた。カップ戦も早い時期に敗退してしまったらしく、リーグ戦の終わった12月上旬から長いオフが始まっている。知り合いはおろか人っ子一人姿も見当たらない。
柵越しに眺める青緑の芝生は暫くグリーンキーパーが入っていないのか、随分と長く伸びていた。
誰も使わないなら手入れする必要も無いのだろう。無論、俺が美容院へ出向くよりも先に刈り揃えられることは間違いないだろうが。
(で、どうしよっかな)
来てみたは良いが、前述の通り目的らしい目的は存在しない。
誰に逢いたいというわけでもなく、ただなんとなく、かつての古巣へ訪れたという、それだけ。
取りあえず敷地内をグルリと一周してみよう。本当は部外者立ち入り禁止の筈だから、見つかったら見つかったでさっさと帰る。それで十分だ。
「……こんな広かったっけ」
不思議な感覚だった。重ねて四年近く通い続けたとは思えない。芝生のグラウンドを除いて、初めて訪れたような気分にさえなる。
時間が解決するなんて、あの頃の俺には到底信じられなかったけれど。まぁつまりそういうことなんだろう。
こうして舞洲の地を踏み締めるだけでも、俺からすれば大きな進歩なのだ。
あれだけピッチへ舞い戻ることを恐れていた俺が、ただただ懐かしいという感情一点でこの場に立つことが出来るのだから。
傷は今も心の奥底に残っている。
けれど、思っていたよりずっと軽傷だ。
「あぁ、ごめんなさい! 今日は一般の方は入れないんですよ! すみません!」
後方から誰かが俺を呼び止める。
クラブの関係者だろうか。
まぁ、そろそろ頃合いだな。
「すみません。もう帰るんで」
「えぇえぇ、ごめんなさい。もしかして練習とか見に来られた感じですか? すみませんねぇ、今年はカップ戦もすぐ敗退してとっくにオフシーズンだもんですから。えーっと来シーズンの始動日が確か…………あれ?」
俺を呼び止めたワイシャツ姿の男性には、見覚えがあった。たかが一年にも満たない、早すぎる帰省だ。忘れるわけもない。
「お久しぶりです。
「廣瀬くん? 廣瀬くんだよねっ!? うっわビックリしたぁ! どうしたの急にこんなところでっ!」
死人が化けて出たかの如く、絶叫を上げ後ずさる若い男。
セレゾン大阪の広報担当、榎本だ。当時殺到していたマスコミからの取材に、すべて付き添ってくれていた。
特別仲が良かったというわけでも無いが、クラブ関係者のなかでは比較的会話の多かった人物でもある。まだ広報続けてるんだな。たかが一年じゃ、そう立場も変わらないか。
「まぁ里帰りっつうか、そんなとこっす。すみません、勝手に入ってきて。もう帰るんで、見逃してもらえると助かります」
「いっ、いやいやいやっ! なに言ってんの! 実質身内みたいなものでしょ! うわぁ、本当ビックリしたー……ほら、せっかくだしクラブハウス寄って行きなよ」
「いや、別にそこまでは……」
「良いから良いからっ!」
強引に腕を掴んでクラブハウスへと連れ出す榎本さん。どうやらなんとしても俺を引き留めたいらしい。
いやホントに、人と会う予定は無かったんだけど。なんなら普通にそろそろ帰るつもりだったんだけど。力強いな。痛い痛い。
「ていうか、来るなら来るで連絡してよっ! みんな廣瀬くんのこと心配してたんだから……!」
「……心配? 俺を? なんで」
「いやだってさ……いきなり退団しちゃったと思ったら、連絡も無しに東京引っ越したとか言われて、みんなビックリしてたんだよ。そしたら急に帰って来るし……」
「帰省言うとるやろ。年明けには帰るで」
「いいから、ゆっくりしてって! 別に誰も怒っちゃいないからさ、むしろみんな超喜ぶって! ほらこっちこっち!」
* * * *
結局クラブハウスに連れ込まれてしまった。居心地が悪いとまではいかないまでも、どことなく落ち着かないのは気のせいでもなんでもないが、案外平静を保っている自分もいて。
不思議なこともあるものだ。実家へ帰って来たときよりよっぽど馴染んでいる。過ごした時間だけで考えれば、こっちの方がそれに近いのかも。
二階に設けられているラウンジまで案内され、飲み物を取りに行った榎本の帰りを待つ。広報はじめクラブ関係者はこれから仕事納めなのだとか。
ここに来るまでの間も、結構な人数に声を掛けられて色々と大変だった。よくもまぁ規律違反で一年前に退団した人間をこうも手放しで歓迎出来るものだ。嫌な気分でも無いが。
「お待たせ。ほら、座って飲みなって」
「ああ、どうも…………なんこれ、お湯?」
「あれ? 白湯しか飲まないんじゃないの?」
テーブルへ置かれた紙コップの中身は、備え付けのウォーターサーバーから汲まれた色味の薄い白湯。榎本は不思議そうに首を傾げる。
「覚えてない? ここのラウンジでインタビューやってたでしょ。で、コーヒーとか持ってくると「そういうの飲まないんで」って突き返してさ」
「……はてさて。なんのことかしら」
「あっ、いま絶対思い出したでしょっ! ホントにあの頃は苦労させられたよ……キミが練習に戻ったあと「さっきの発言はこれこれこういう意味で」ってわざわざ訂正してさ。大変だったんだからね?」
「そりゃ悪かった」
本気で忘れていた。こっちに居たときは飲み物もそこまで気を遣っていたんだよな。実際のところ大して影響があるわけでもないのに、無駄に神経擦り減らして。
そうだそうだ。そのウォーターサーバーも、すぐ隣のお菓子が並んでいたケージも「選手も使うのに余計なモノ置くな」って文句付けて、中身入れ替えて貰ったんだっけ。
「つうわけで、もう栄養には一切気ィ遣っとらんから。コーヒーでよろしく。砂糖は三つ」
「反動出まくってるなぁ……で、人使いの荒さだけは変わっていないってわけね」
「まるで俺が暴君だったかのような言い草やな」
「え? 違うの?」
「はいはい。自分で入れますよ」
流石に当時の有り様をそのまま踏襲するわけにはいかない。
今やなんの力もない子ども、相手は立派な社会人。敬うべき相手。
いや、あの時だってそれは同じだったんだけどな。本当に世間知らずで嫌味なクソガキだったと我ながら思う。今でもそう大差無い気も、しないでもないけれど。
「でも元気そうで良かったよ。そっちに引っ越してから廣瀬くんの情報全然入ってこないからさ、みんなもビックリしてたでしょ?」
「よう覚えとるよな。俺みたいな奴を」
「当たり前でしょ、みんな心配してたんだから……一年も経ってないし、スタッフもほとんど入れ替わり無いからさ。ずーっと気にしてたんだよ」
コーヒーを入れ直し対面に座ると、榎本も心底嬉しそうに笑い掛ける。ここまで歓迎されると妙にこそばゆい。
有希の家庭教師終わりに早坂母から鬼のように晩飯を食わされるあの感覚と似ている。分からんが。
「どう? そっちでの生活は。サッカーは?」
「いや。やっとらん」
「あぁ、やっぱそうなんだ……山嵜高校だっけ、今年の選手権惜しかったよね。高校の名前は覚えてたから、試合出てないかなぁーって情報だけチェックしてたんだけど……」
どうやら俺がフットサルを始めたという情報までは出回っていないらしい。実績はおろか対外試合もなにもない状態だから、当然と言えば当然か。
「……ホントに表情が柔らかくなったね。失礼なこと言うけど、廣瀬くんの笑った顔、ほとんどっていうか、一回も見たこと無かったからさ。あの頃とは別人みたいだよ」
「あぁ、南雲にも言われたわそれ」
「向こうで連絡取ってるの?」
「選手権の会場で偶然顔合わせてな」
「へぇー。南雲くんも凄いよねえ、二年で桐栄のレギュラーなんだからさ。それも来年からブランコスの強化指定らしいよ。財部から聞いた」
「ほーん……」
「廣瀬くんの代はみんな凄いよ、内海くんなんてA代表だもんねえ……流石にトップとユースぐるぐる回って調子落としちゃったけど、来季は正式に昇格だしさ」
練習に参加したとかなんとか言っていたけれど、もうプロ入りも秒読みの段階なんだな。奴に限らず内海も大場も黒川も、この一年で随分と出世したものだ。
俺一人置き去り、なんてことも、もう思わなくなってしまった。悔しいとも感じない。これは成長なのか、それとも退化なのか。なんとも言えないところ。
「そうだ。せっかくなんだから財部にも会っていきなよ。今日普通に仕事で顔出してるから」
「…………いや、遠慮しとくわ。顔も見たくねえだろ、アイツに限っては」
「馬鹿言うなって。一番心配してたの財部なんだから。廣瀬くんが居るって聞いたらすぐにでもすっ飛んで……」
「まぁ、その通りなんだよ。陽翔」
懐かしい声が聞こえた。
凄いタイミングで来るよな、アンタも。
ちょっとくらい心の準備させろって。
「…………どーも」
「……髪、伸び過ぎじゃない?」
「ハッ。久々の再会で早々指摘することかよ」
「背も伸びたね。まだまだ成長期ってわけだ」
少し息を切らし階段の方から歩み寄る、背の高い細身な男。
三十路を超えてもまだまだ若い。あの頃と変わらぬ、チームカラーのけばけばしいジャージを身に纏い、彼は現れた。
「久しぶり、陽翔。9か月ぶりだね」
「たったのな」
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