430. Boyhood 3-14


「完全に切れてはいないが、度合いで言えば断裂とほぼ変わらない。手術は必須だろう。更に半月板にもかなり負荷が掛かっている」



 試合後、陽翔はすぐに救急車で市内の大学病院へ搬送された。21時を過ぎ、財部は諸々の雑務を終えようやく病院へと足を運ぶことが出来た。


 主治医の説明を受ける財部。痛々しい傷跡の残るレントゲン写真を前に、高齢の男性主治医は話を続ける。



「術後一週間は車椅子、二、三週間で松葉杖。不自由なく歩けるようになるまで3か月……リハビリを経て競技へ戻るには、6か月以上は必要ですな。まぁ、同じ怪我で離脱したキミもよく知っているだろうが」

「……そう、ですね」

「廣瀬くんの場合、靭帯以外の箇所にも影響が出ている。まだまだ若いだけに回復も早いは早いだろうが…………以前のプレー強度を取り戻すのは極めて難しい。経過が悪ければ日常生活にも影響の出る大怪我だからね」



 前十字靭帯損傷。


 スポーツ外傷とも呼ばれる、サッカーに携わる人間からすれば聞き馴染みのある言葉だ。


 主治医の話した通り、復帰まで相当の時間と労力を要することとなる。前十字は関節内にある靭帯であり血流が乏しく、損傷すると自然治癒は極めて難しい。



 保存治療の方法も確立されてはいるが、多くのプレーヤーが手術を選択することとなる。だがこの怪我を負って元のプレーレベルまで回復した選手は、世界中見渡しても数えるほど。


 一度前十字を損傷してしまうと、プレー中に膝が「ガクッ」と外れてしまうという現象が起こる。半月板や軟骨など、膝のクッションの役割を果たす組織へも影響をもたらすからだ。



「プロデビューが目前だったとか……なんともお気の毒な。それもまだ15歳とは…………当人には及ばずとも、この仕事を続けていると私も心を痛めるばかりだよ。あのときもそうだったね、財部くん」

「……その節は、大変お世話になりました」

「苦しそうな顔で、何度この病院へ運び込まれたか……才能あるプレーヤーに怪我は付き物とはいえ、スポーツの神様という奴はなんとも気紛れで悪趣味だ」



 度重なる負傷で現役引退を余儀なくされた財部も、この主治医の世話になっていた。まだ15歳の陽翔を待ち構える過酷な運命に、二人はため息を溢し言葉を失う。



「……声を掛けてやりなさい。すぐ近くの南病棟だ。親御さんはどうやら今日中に顔を出せないらしいからね……一人にしてやるのも大事だが、今はなにより、ポジティブな言葉が必要だよ」

「……分かりました。ありがとうございます」


 席を立ち、財部は陽翔の滞在している南病棟へと足を運んだ。自身の怪我はとっくに治っている筈なのに、足取りは重い。


 それもそうだ。ポジティブな言葉など、彼には何の慰めにもならない。


 どんな顔をして、なにを話せばいいのか。

 財部は頭を抱えた。




*     *     *     *




 結論から言えば財部はこの日、陽翔との面会を許されなかった。


 彼をはじめチーム関係者、更には両親さえも、自身のもとを訪れないよう陽翔本人が強く要望したのだという。


 面会が許されたのは手術から二日ほど空けた、負傷から一週間近く経ってからのことであった。

 それも主治医の説得でようやく首を縦に振ったというのだから、精神的なダメージも容易に窺い知れる。



 その日のトレーニングを終え財部が病室へ向かうと、一足先に内海と大場、ジュリーの姿があった。


 更には負傷の原因でもある、ガンズ大阪ユースの甲斐まで揃っている。病室に足を踏み入れるや否や、悲鳴にも似た絶叫が病棟へ響き渡った。



「ホンマにすまんッ! それしか言えねえ、ホンマに……ホンマに悪かった!! 怪我させるつもりは無かったんや! これ以上点はやれねえって、周りが見えなくなって……! プロの舞台でやり合えるの、ホンマに楽しみにしとったんや! クッソ……俺の……俺のせいで……ッ!!」

「だから落ち着いてって! 声大きいよ!」


 ベッドの前で地面に頭を擦り付ける甲斐を大場が必死に宥めている。面会許可の知らせを聞き、チームメイトよりも早く病室を訪れていた。


 左脚を固定されたままベッドへ横たわる陽翔。彼らへ背を向けたまま、幾ら声を掛けてもリアクションに乏しい。財部は四人のもとへ歩み寄る。



「コーチ……陽翔、さっきからなに言っても全然反応してくれなくて……起きてはいるんですけど」

「そっか……分かった。少し席を外してくれないかな。甲斐くんも、わざわざ来てくれてありがとう」


 心配そうに首を振る内海の肩に手を置き、財部はすぐ脇のパイプ椅子へ腰を下ろした。四人が病室から離れたのを確認し、財部は語り掛ける。



「…………手術、成功したんだってね。取りあえず、おめでとう。まぁ、無用の長物ではあるけれどね。リハビリをしっかりやれば、プレーは出来るようになる。あまり心配しなくていい」



 反応は無かった。

 死んだような瞳で財部を見つめる陽翔。



「……辛いは辛いだろうけど、心配掛けるなよ。甲斐くんもわざとやったわけじゃないのは、あの反応を見れば……ね。芝生の状態も悪かったし…………起きてしまったことは仕方ない。またピッチに戻るために、前を向かないと。気持ちの整理を付けるために、わざわざ面会も拒絶してたんだろ?」


 ゆっくりと視線を逸らし、白い壁とも、虚像とも判断し難い空間を見つめ。陽翔はようやく重い口を開いた。



「もう、終わりや。全部終わった」

「……陽翔?」

「復帰しただけじゃ、意味ねえんだよ。あのレベルに戻れないなら……あれより上に行けないなら…………無駄な悪足搔きや、なんも」


 絶望に染まる無機質な声色に、財部は息を呑んだ。


 本来なら。コーチとしての立場を真っ当に果たすのであれば。彼に掛ける言葉は、少し強気なくらいでも「甘ったれるな」「諦めるな」「限界を自分で決め付けるな」の三つで事足りたはずだ。



 だが、言えなかった。



 財部も気付いていた。彼は一介のサッカー選手になりたかったのではない。圧倒的な実力で他者を凌駕する、唯一無二の存在になりたかったのだ。


 自分の価値を証明するため。存在意義を認めさせるために、すべてを犠牲にして走り続けて来たのだ。



 サッカーを続けることに。ただただ活躍することに、彼は理由を見出すことは出来ない。高すぎる理想像と、そこへ近付く過程。それだけが彼を繋ぎ止めていた。



「陽翔…………まさか……サッカー辞めるなんて……い、言わない、よな……? リハビリ頑張って、ちゃんと戻って来てくれるよな……っ?」


 想像したくもない恐ろしい未来に、財部の声は震えた。


 縋るような酷く淀んだ顔色に、陽翔は大きなため息を吐いて、今にも消えて飛んで行くほどの小さな声で呟く。



「……やるだけやるわ。一応、な」

「陽翔……っ」

「期待はすんな。他にやること無くてヒマやから、リハビリするだけや。アンタも、気負う必要はねえ。たかが選手とコーチの関係やろ。我が儘な自己中野郎が抜けて、清々するやろ」

「……馬鹿言うな。陽翔が居なくて、どうするんだよ」


 溢れ出る涙をグッと堪え、財部は無理くりに笑顔を作り、陽翔の頭を強引に撫で上げた。


 慰めには到底及ばない。

 あまりにも痛々しい光景だった。



「……俺は待ってるよ。コーチとしてじゃない……一サッカー人として、どうしても陽翔のプレーをもう一度みたいんだ。俺だけじゃない。みんな、みんな待ってるんだ……!」


 すると病室の扉が開き、二人の中年夫婦が現れる。一人には見覚えがあった。陽翔の母親だ。隣に居るのは、父親だろうか。



「…………どうも。先日ぶりですね。お父様、はじめまして。セレゾンユースでコーチをしています、財部雄一と申します。ご挨拶が遅くなり申し訳ございません」

「ああ、どうもどうも。すんません、お手数お掛けして。こちらも仕事の都合で中々……あとは我々にお任せください」


 自己紹介も疎かに退室を促す父親。


 酷く軽薄な態度に、財部は不信感を露わにした。先日の一件を気にしているのか、母親もおろおろと頭を下げるばかり。


 財部は立ち上がり二人のもとへ歩み寄ると、陽翔に聞こえないよう小さく囁いた。



「…………本当に、お願いします。とても傷付いているんです……お二人の力が無ければ、陽翔は立ち直れません……っ」

「ええ、ええ。分かっております」


 財部の真摯な態度にも顔色を変えず笑顔を振り撒く父親。だが、財部はこれ以上なにも言えなかった。


 自分では出来ぬこと。

 彼の心の闇を取り払うのは、彼らしか居ない。



「…………お願いします」


 一礼し財部は病室をする。



 財部は最後の最後に、致命的なミスを犯した。この三人の家族が、単なる血の繋がりで結ばれていないことを、本当の意味でまだ理解出来ていなかったのだ。


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