425. Boyhood 3-9


 怪我を偽りクラブハウスへ向かう陽翔を、聞き慣れないあだ名とスペイン語で呼び掛ける人物が一人。


 白髪と立派な髭を蓄えた、さながら老紳士のような出で立ち。60を過ぎた年齢を感じさせないスラリと伸びた背筋。


 セルヒオ・トラショーラス。通称チェコ。サポーターからは「イングレス英国人」の愛称で親しまれる、セレゾン大阪トップチームの指揮官である。



『チェコ。なにか用事でも?』

『少し様子を聞きたいと思ってね。まぁ歩きながら話そうじゃないか。エハラ、彼を借りるよ』


 当然ながらスペイン語の知識には乏しい江原。突然ユースチームの練習に現れたトラショーラスに慌てて首を縦に振るばかり。情けない面だ、と陽翔は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。



「わあ、トラショーラスさんだ……ねえねえ内海くん、やっぱりデビューの噂って本当なのかなあ?」

「どうなんだろうね……普通ならまずはU-23に合流してからだと思うけど、陽翔ならいきなりトップチームでも全然おかしくないよ」


 口々に噂する内海と大場。本場スペインでも結果を残して来た威厳ある御仁の登場に、ユースのグラウンドは緊張感で広がっていく。



『いいなーヒロセ! ボクも早くトップデビューしたい! 直接頼み込めば練習くらい参加させてもらえるかな!?』

「いやカトウくん。ポルトガル語で言われても」

「それこそ日本語でお願いしても無駄でしょ」


 大場の呟きにキレのあるツッコミで返す内海。ジュリーの相手は二人も務まらない様子であった。



 さて。少しグラウンドを離れ会話を繰り広げる陽翔とトラショーラス。

 通訳を介さず聞こえて来る流暢なスペイン語の中身を理解出来る者は、ユースのグラウンドにはやはり誰一人として居ない。



『ここ最近、あまり試合に出ていないな。怪我でもしているのか? いや、そうじゃない。身体を動かしたくてウズウズしているだろう?』

『ええ、まあ……あちらの恰幅の良い紳士は、俺のことが気に入らないようで。正式にトップへ昇格するのはまだかと尻尾を振って待ち続けているところです』

『相変わらず愉快なことを言うな、ヒロは。しかし本当に流暢なスペイン語だ、まるで古い友人と再会したような気分になる』


 髭を撫で嬉しそうに笑うトラショーラス。

 陽翔も釣られて頬を引っ掻く。



 欧州で数多くの実績を並べて来たトラショーラスの存在は、15歳の少年へ大きな影響を及ぼしている。

 最先端の戦術をクラブへ持ち込み、センセーショナルなサッカーを展開するトラショーラス。


 彼の温厚で紳士的な人当りも手伝い、陽翔も一定の信頼を置いていた。幼少期から勉強していたスペイン語でソツなくコミュニケーションが取れる側面もプラスに作用していたのだろう。



『既にタカラベから聞いていると思うが……キミを一か月後、8月2日のオオサカ・クラシコでデビューさせるつもりだ。どんな試合展開になろうとね』

『しかし監督。チームの状況は決して芳しくない。そろそろ貴方の首元も涼しくなって来る頃だ。俺みたいな若い選手を起用している余裕は無いのでは?』

『正直に言うな。そういうところを私も気に入っている……キミの実力なら、今すぐにでもプロで通用する。心配は要らない』

『……勿体ないお言葉です』

『新たに選手を獲得しようにも、クラブの金庫の中身は空っぽのようだ。代償があの素晴らしいスタジアムなら、甘んじて受け入れるばかりだが』


 陽翔の質問を涼しい笑みでかわす。

 続けてトラショーラスはこう話した。



『残念ながら私も雇われの身。どうしてもキミを起用したいのなら、最も集客の見込めるオオサカ・クラシコにして欲しいと念を押されてしまったのだ』

『なるほど。では貴方の責任だ』

『厳しいことを言うな。今年のウィンターキャンプは怪我人が多すぎた……必要な人材が揃わないことには私の戦術も機能しない。だからこそ、私のやり方を最もよく理解している一人であるキミを、一刻も早く起用したい』


 セレゾン大阪はトップリーグの優勝経験こそ無いが、伝統的に攻撃的なサッカーを繰り広げ関西有数の人気を誇るビッグクラブでもある。


 ところが近年は財政面の問題もあり、選手のクオリティー低下も著しく。二部リーグへの降格と一年での昇格を繰り返す、エレベータークラブと呼ばれる存在になっていた。



 一部に再定着して数年。クラブは根本的な立て直しを図ろうと、攻撃的サッカーでリーグを席巻した北海道のチームから彼を引き抜き、再建を図ろうとしている真っ最中。


 上々の成績を残し二年目を迎えたトラショーラス政権だが、主力の流出と怪我人の溢れ返る厳しい台所事情に振り回され、現在18チーム中14位と苦戦を強いられている。



『特定の選手へ入れ込むのは良くないのでは?』

『私も人間だ。好き嫌いはある。だがそれだけではない。キミの実力だけでなく優れたメンタリティーと学習意欲を、他でもないこの私が高く買っているのだ』


 尊敬する指揮官からの手放しの賞賛に、陽翔も珍しく恥ずかしそうに目線を逸らした。そんな彼を微笑ましく見つめるトラショーラスは、ユースの練習光景を一瞥しこう続ける。



『しかし残念ながら……今の状況ではキミを安心してピッチへ送り出すことは出来ない。試合勘が不足している。ヒロ、キミも自覚しているだろう』

『それは、まぁ。でも起用されないことには……』

『エハラには私から強く進言しておこう。ここだけの話、彼の指導を私はあまり気に入っていない。私の方針とも大きく異なる……』


 肩へ手を置き、真剣な眼差しで訴える。

 緊張すら促す只ならぬオーラ。

 陽翔は喉をゴクリと鳴らした。



『英気を養いなさい。三週間後に始まるユースカップの初戦の相手は、ガンズ・オオサカのユースチームだ。同年代を相手に実力を発揮出来なければ、私も考えを改めざるを得ない』

『…………分かっています、監督』

『キミの運命は、キミだけのものだ。自らの手で未来を切り開くのだ。私は誰にでもチャンスを与えるわけではない。肝に銘じてくれ。ヒロ』

『……必ず結果を残します』

『ああ。期待しているよ』



 暫くはユースでのトレーニングに専念しなさい。そう言い残し肩を叩くと、トラショーラスはトップチームのグラウンドへと消えて行く。


 あまりにも大きく見える老紳士の後ろ姿に、決意を新たに大きく息を吐く陽翔。この三週間で、必ず結果を残す。彼の瞳に、燃えたぎる青い炎が灯った。



 クラブユース選手権二回戦。

 セレゾン大阪ユース対ガンズ大阪U-18。

 彼の命運を分ける一戦が近付いている。


 だが陽翔は勿論、財部も、内海も、大場も。そして江原も。優れた慧眼の持ち主であるトラショーラスさえも。



 その試合で起こるあまりにも残酷な仕打ちを。

 誰一人して予想することは出来なかった。


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