367. 再起動中です
(前にも見たことあるなこの光景……)
目が覚めると、隣で琴音が寝ていた。
いや、それは良いのだ。彼女の横に倒れ込んだところまでしっかり覚えているし、そこに至るまでの判断は間違いなく自分で下したものなのだから。
唯一、夏合宿の際と異なる点。
めっちゃ抱き着かれている。ギュウギュウに。
(マジで抱き枕になっとるやん……)
それ専用のぬいぐるみが無いと落ち着いて寝られないのはなんとなく知るところだが、実際に自分で代用されるとなると、中々にクるものがあった。
この状態を前に他の名前を出すのも気が引けるが、例を挙げれば直近の愛莉。彼女は女性の割にガッチリした体格と少し筋肉質な肌触りで、ちゃんと人を抱き締めているという感覚があったのだけれど。
琴音の場合、豊満すぎる胸元から身体の節々までぷにぷにのフニャフニャ。本当にクッションを抱いて眠っているような気になってしまう。
つまり、琴音からだけでなく、俺もしっかり彼女をホールドしてしまっていて。それがあまりにも心地良いから、早朝の気怠さも相まって身体を離す気にもなれないという。
不味いなこれ。いやホントに不味い。
ごめん比奈。魔が差すのも分かるわ。
(触りたい)
なんてことはない。ほんの少し腕を伸ばせば、たわわに実った二つの果実を手に取ることなど、いとも簡単な作業である。
夏合宿のときは驚きの方が勝っていたけれど、状況が状況なだけにもうハードルもなにも無かった。音を立てて理性が削られていくのが分かる。
比奈の忠告を聞き流している場合ではない。そのときの出来事を彼女が知る由も無いが、既に愛莉を相手にラインを飛び越えてしまっているのは疑いようの無い事実なのだ。
だが、それ故に。である。
これ以上の暴挙は俺自身が許せない。
許せない、許せないけど…………ダメだ、不味い。もう手が伸び掛けている。頼む、耐えてくれ俺の理性。いよいよ触るだけじゃ済まされない。ケダモノになってしまうゥ……ッ!
「…………おはようごらいまふ……」
「ブェッ!?」
あっぶな! あっぶなッ!
なんでよりによって今起きるのお前!?
タイミング悪いな!
いや違う、ナイスタイミング!
「…………なにひてうんれふか……?」
「……掌と琴音の顔、どっちが大きいかなって」
「…………そうれふか……っ」
くちゃくちゃの呂律を残し再び目を細める琴音。言い訳にしても陳腐だが、セクハラを疑う様子は無い。
これはこれで可愛いな……いや、駄目だ。落ち着こう。顧みろ。助かった。バレなくて良かった。未遂で良かった。落ち着こう。かわいい。琴音可愛い。駄目だ、早く落ち着け。頭完全にバグってる。
「あー……琴音。ほら、そろそろ起きようぜ」
「…………おことわりひます……」
「いや、もう昼近いから。寝過ぎ俺ら」
「……きょひしまふ……っ」
「というか、離してほしいんですけど」
「…………あとにねんまってくらはい……」
「卒業しちまうわ」
あまりにも寝坊助過ぎて冷静になって来た。
こんなに寝起き悪いのかコイツ……。
「……今日はお喋りなんですね……っ」
「…………はっ?」
「いつもは私からはなしかけるのに、めずらしいこともあるものれす……ついに心がつうじあったんですね……っ」
「…………琴音?」
「んみぅっ……!」
「琴音ェ?」
更に力を込め抱擁を維持し続ける。な、なんだこの違和感は……寝惚けているのは百も招致として、お前、誰かと勘違いしてないか?
辞めて。本当に辞めて。
当たるから。圧し潰されてるから。
そんな薄着でこれ以上主張しないで。
俺も余計なところが主張しちゃいそうだから。
「むぅっ…………抵抗しないでくらさい……ねこのくせに生意気ですっ……」
「ばっ、ちょ、おい琴音っ。俺はドゲザねこじゃねえ、しっかりしろ。ここはお前の家じゃねえし、ましてや抱き枕でもねえ」
「……………………むっ?」
そこそこのボリュームを伴う反論にようやく意識が降りて来たのか。まだ眠たそうにいているが、眉をひん曲げ首をゆらゆらと左右に振る。
目と目が逢い、暫しの沈黙。
「……………………どなたですか?」
「……俗に言う、廣瀬陽翔という者です」
「…………そうですね。はるとさんですね」
「断じてドゲザねこではなく」
「……………………なるほど…………」
なるほど、じゃねえよ。
納得するな。
「……あの、琴音? この状況理解出来てる?」
「…………半分ほど……」
「もう半分どこやったんだよ」
「…………再起動中です……」
「パソコンなのお前?」
文字通りスリープモードというわけか。
だとしたらまぁまぁ経年劣化してるよ。
「…………だいたい理解しました」
「え。お、おん」
「普段使っている抱き枕と勘違いしていたのですね……これは申し訳ないことをしてしまいました」
「いや、琴音さん。冷静に分析する暇があるなら」
「しかし、些細な問題です……」
「琴音さーん」
「私はまだ眠いんです……」
「…………えぇーっ……」
再び寝てしまった。
なんで? おかしくない? そうはならんよ?
(どうすりゃいいんだよ……)
一向に拘束が解けない以上、俺からアクションを起こすことも出来ない。
無理やり引き剥がしても良いが、そこに至るまでのモチベーションが一連のやり取りでグッと下がってしまった。
…………もういいや。
どうせ家に帰るのは午後の予定だし。
大人しく抱き枕としての責務を果たそう。
なるべく意識を外に飛ばして、だけど。
理性など最初から無かった。石になるんだ俺は。
「……今日だけですから」
「えっ?」
「…………んむぅっ……」
いま、なにか呟いたような。
寝言か。寝言なのか。
そういうことに、しておくか。
* * * *
「陽翔さん。早くしてください」
「あ、うん……悪い、ちょっと待ってくれ」
「こちらは既に臨戦態勢です。この精神状態を保ったまま挑まなければなりません。簡単な相手ではないのです。遅きに失します」
少し溜まっていた洗濯物を干す。一方で出掛ける準備万端の琴音が、こちらを手伝う気など更々見せず急かし続けている。
再び目を覚ました頃には昼過ぎになっていて、流石に琴音のホールドも弱くなっていた。なんとか抜け出してシャワーを浴び部屋に戻ると、すっかり眠りから醒めた琴音がベッドに座っていて。
朝方の出来事など、まるで無かったかのように。
いつも通りの彼女に戻っていた。
覚えていないというのなら仕方ないけれど……モヤモヤとした感情は拭い切れない。俺が一方的忘れられないというだけの話ではあるのだが。
何故に俺が後手を踏まなければならないのだ。
理不尽である。琴音が相手だと尚更。
「うし、おっけ……じゃあ始めるか」
「改めて確認ですが、私と陽翔さんは、交際関係にあるという設定で間違いないですね」
「あれやぞ、俺のせいでこうなった、みたいな言い方はNGやからな。あくまでお前からアプローチしたって表現じゃねえと、納得しねえと思うぞ」
「心得ています。どちらかと言えば私が貴方にベタ惚れ、という姿を見せれば良いのでしょう。問題ありません。シミュレーションはばっちりです」
「そこまで自信満々だと逆に不安やな……」
昨晩はあれだけ恋人設定に抵抗していたというのに、たった半日でエライ変わりようだ。取りあえずは決心が付いたのか。
まぁでも、このくらいの心意気で望んだ方が効果的だろう。話の限り、一筋縄ではいかぬ相手。
彼女がこうして強い意志を発揮しないことに、俺という存在もさほど大きな影響は持てない。
「では、連絡しますね」
「今更っつうかどうでもええ話やけど、家出するとき逆にようスマホだけ持っとったよな」
「映像で分からないところがありまして。ちょうど貴方に聞こうとしていたところだったのです」
「じゃあ、それはまた今度な」
「はい。少々お待ちを」
SNSアプリの類は使わず、普通の電話で連絡するらしい。そう言えば彼女も、スマホにカバーを付けていなかった程度には電子機器に疎いんだよな。それは親にしても一緒なのか。
「こんにちは。只今ご在宅ですか。そうですか。ではこれからご挨拶に上がるので。帰るわけではありません。ただ、話をしに行くだけです」
「…………どこにいるのか、ですか。お答えする義務はありません。その程度も把握出来ないようだから、このような事態を招いていると、努々お忘れなきよう。では後ほど」
「…………当たりキッツイな……」
「そうですか? いつもこんな感じですけど」
「少なくとも親とのやり取りではねえよ」
「これが私たちの普通です」
平然とした顔で言いのけるが、やはり多少の緊張と恐怖は見て窺える。語尾が僅かに上擦っていた。琴音でも、こんなに不安そうな顔になるんだな。
「……な、なんですかっ」
「いや。別に。偉いな、琴音」
「やっ、辞めてください……親と会話しただけで褒められる道理はありません……っ」
「いいんだよ。俺がやりたいんだから」
「…………か、勝手にしてください……っ」
一晩経ってもサラサラの髪の毛を優しく撫で降ろすと、言葉とは裏腹に満更でもなく頬を緩める琴音であった。
これも比奈の言う通りだ。
どこまでも、単純な奴め。
「……大丈夫だ。俺が付いてる」
「貴方に言われても、説得力が無いですね」
「でも、俺なんだろ」
「…………ええ。陽翔さんにしか頼めません」
さて。戦地へと赴きますか。
ホームかアウェーか。
分かったもんじゃないけど。
「行くぞ」
「はい。行きましょう」
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