368. ちょっとだけ頼り甲斐があります


 琴音の自宅へと訪れるのは二度目のことだが、前回と比べてもさほど印象に変わりは無い。簡素な住宅街に佇む庭付きの小綺麗な一軒家は、否が応でも生活基準の高さを物語る。


 普段通りの冷静さを取り繕う琴音も、改めて住処への帰還を前にどことなく緊張した面持ちで。それに釣られて、俺まで「まるで結婚の挨拶のようだ」と余計なことを考えては心拍数を高めていた。


 家を出て、電車に乗り、彼女の自宅までの短い距離。どちらが言い出したわけでもなく。強く握られ続けていた掌の暖かさだけが、どうしたって頼みの綱だった。



「…………押しますね」

「んっ」


 無機質なインターホンの音色が住宅街に響く。

 それほど時間を要さず、ドアが開いた。



「琴音っ! どこに行っていたのっ!」


 スーツ姿で現れたのは、琴音の母親と思わしき女性。見てくれだけなら30代半ばでも通用するであろう若々しさに溢れる、上品な顔立ちと佇まい。長い黒髪が印象的で、それこそまるで琴音の20年後を見ているようだった。


 でも、目元はあまり似ていないかも。

 琴音より少し釣り気味だな。



「昨日も言いました。家出です」

「そんなことは聞いていないわっ! いったいどれだけ迷惑掛けたか分かって…………この方は?」

「陽翔さんです。フットサル部の……」

「おいっ、琴音」


 小声でツッコむと同時に肘でわき腹の辺りを突っつく。ここからは一応、台本が用意してあるのだ。どこまで再現出来るかは演技下手の二人には未知数だが。



「んんっ……こ、この方は、フットサル部の同輩の、陽翔さん、です。そして……わ、わたしのか、彼氏、です」

(へったくそぉー……)


 棒読みにもほどがある。

 旧世代型のロボットかよ。



「…………彼氏? 貴方に?」

「昨晩もこの方の厄介になりました」

「……はじめまして。廣瀬陽翔といいます。ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ありません」

「…………ご丁寧に、どうも」


 ただでさえ鋭い視線を更に細め、訝しげに小さく呟く。歓迎されていないことは火を見るよりも明らかだ。言葉にせずとも「口を挟むな」と釘を打たれているようで。


 取りあえず、俺たちが即席の関係であることは露見していない様子だ。

 予想だにしない家出騒動に加えて、彼氏を連れて戻って来た。疑うよりも状況の整理に頭を使わざるを得ないだろう。



「……そう、貴方が。なるほどね…………」


 頭からつま先までグルっと一瞥。

 物の値打ちを吟味するような、無機質な瞳。



「取りあえず、この子の面倒を見てくれたこと。ご迷惑を掛けたことについては謝らせて。いきなり飛び込んで来られて、貴方も大変だったでしょう」

「え、えぇ……それは、はい」

「でも、これ以上の介入は必要無いわ。これは私たちと、この子の問題だから。悪いけど、今日のところはお引き取りいただけないかしら。挨拶はまだ次の機会に伺うわ」


 話をする気は、無さそうだな。

 次の機会を想定すらしていないことも。

 冷淡な対応を見れば自ずと分かる。



(…………いや、ならせめて謝れよ)


 この時点でまぁまぁ苛付いていた。


 謝らせて。と言うのであれば、次に出て来るのは「ごめんなさい」か「申し訳なかった」の一言じゃないのか。まるでその気が無いように見えるのは、俺だけか?


 そうでなくとも、琴音の母がこの事態をさほど重要視していないことは伝わって来る。一日ぶりに琴音と顔を合わせ、はじめになんと言ったか。俺は覚えている。



 迷惑掛けて、じゃねえわ。

 心配したって、言ってやれよ。

 

 舐め過ぎだろ。いくらなんでも。



「そういうわけにはいきません。今回の件に関して、彼を抜きに話を続けることは出来ませんから。断るというのであれば、今日も彼の厄介になるだけです。これからも」

「…………貴方、それが親に迷惑を掛けた子どもの態度なのっ!? こんな大事を起こして、対等に話が出来るとでも思って……!」

「陽翔さん、どうやら無駄骨のようです。引き続きご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」

「ちょっと、琴音っ!」


 剥き出しの憤慨を琴音へぶつける母親。

 しかし彼女も負けてはいない。

 

 まるで意に介していないという、飄々とした琴音の姿に母親は面食らっている様子であった。これほどまでに反抗的な彼女を、恐らく母親は見たことが無かったのだろう。



 強くなったな、琴音。


 でも、手は震えたままか。

 なら俺も、後押ししないと。



「俺も事を荒立てるつもりはありません。ただ、琴音さんもそれ相応の主張と覚悟を持って帰って来たんです。彼女の話、聞いてあげて貰えませんか」

「陽翔さんっ……」

「琴音。大丈夫だから」


 腫物を見るような厳しい視線に、真っ向から立ち向かう。分かっている。俺だって、この人の怒りの根源みたいなものなのだから。これくらいの扱いは想定の範囲内だ。



「……俺からも言いたいことはあるんです。それをどう受け取るかは、お母さん次第ですけど。少なくとも、琴音さんが今どうしてこのような状況にあるか、俺は説明できます。母親として、知っておくべきことじゃないんですか」



 掌で生まれた汗が、足元に浸り落ちるほどの長い沈黙。


 すると琴音の母親は、いよいよ観念したのか大きなため息を一つ挟み、こちらへ背を向けた。



「……お茶を用意するわ。リビングで待ってて」


 そのまま玄関の奥へと消えていく。

 ……第一関門突破、ってところか。



「ありがとうございます」

「別に、これくらいはな」

「……陽翔さんの敬語は新鮮ですね」

「ハッ。峯岸にも使わねえよこんなの」

「ちょっとだけ頼り甲斐があります」

「ちょっとだけ、だろ?」

「ええ。でも、それで十分です」


 安堵の笑みを浮かべる琴音を連れて、ようやく楠美家の敷居を跨ぐこととなった。まったく、家に入れてもらうだけでこれかよ。先が思いやられる。



「お前、もうちょっと上手く喋れよな」

「あれでは駄目でしたか」

「日本語覚えたての外国人みたいやったで」

「……演技には自信があったのですが」

「どっから沸いて来んだよそれ」


 初めのうちはこちらのペースで進められそうだ。しかしここから、どんなトラップが仕掛けられているか。


 油断は出来ない。

 気を引き締めなければ。


 琴音だけではない。

 瀬戸際に立っているのは、俺も同じだ。




*     *     *     *




 案内された楠美家のリビングは、これまで目にしてきたフットサル部の住処と比較しても圧倒的に広い。


 一面真っ白な壁に薄グレーの家具を散りばめた空間は、さながらチラシでしかお目に掛かれない最新のモデルルームのようだ。


 長瀬家でも同じことを思ったな。

 小綺麗さの反面、生活感に欠けている。



「……本当に普段ここで生活してるのか?」

「仰りたいことは、まぁ、分かりますけど」

「何なんこの椅子。馬鹿座りやすいな」

「それは知らないです」


 木目のダイニングテーブルを前に二人並んで佇む。部屋中から溢れ出る上品さに、居心地の悪さは否めない。


 納得と言えば納得か。これほど美しく整理整頓された環境で暮らしていれば、琴音が生真面目な性格に育つのも道理である。環境が行動を整えるとはまさにこのこと。



「粗茶ですが、どうぞ」

「あ、どうも……」


 程なくして琴音の母親がキッチンから戻って来る。相変わらずスーツ姿のままだ。まさか、これから仕事だったりするのだろうか。



「……父はどこに?」

「仕事よ。貴方が帰って来るまで待つつもりだったらしいけど、ついさっき出て行ったわ」

「……今日は休みと聞きましたが」

「わざわざ休みにするつもりだったのよ。私もあの人も。本当に、あの人にまで迷惑掛けて……もう少し自分のしたことを自覚しなさい」

「…………では、あとで謝っておきます」


 今日に限って両親は在宅との話だったが、どうやら父親との顔合わせは望めそうにもない。流石に決まりが悪かったのか、おずおずと背を丸める琴音。



「名乗っていなかったわね。楠美香苗クスミカナエよ。それで、話ってなに?」


 対面の座椅子に腰を下ろし、分かりやすくため息を飛ばす琴音の母親、香苗さん。


 あくまでも真剣に話を聞くつもりは無いと、そう言いたげな気怠い表情だった。目前で湯気を垂れ流す香りの良いお茶も、ある意味皮肉のように思えてならない。



 ……なんというか、初めて会った頃の琴音によく似ているな。比奈とのデートを邪魔してきた琴音も、こんな感じの目をしていたような気がする。


 だとすれば、ノーチャンスではない筈だ。


 今の琴音を見ていれば、自然とそう思う。

 仮にも血を分け合った親子なら、尚更。



「私から話します。と言っても、昨日お話した通りですが。今更繰り返したところで貴方が納得するとは到底思っていませんが……」

「琴音。喧嘩しに来たんじゃないだろ」

「…………は、はい。すみません……っ」


 同じく母親の態度が気に食わなかったのか。悪意たっぷりの切り出しに思わず訂正を入れる。雰囲気に呑まれ始めているのは琴音も一緒か。



「……では、改めて」


 咳ばらいを一つ。

 琴音が話を始める。


 さて。正念場だ。

 

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