352. 贅沢なこと
(…………なんこれ…………?)
どれほどの時間が経ったのかも定かではない。ただ日々と同様、真っ当に空へ上り始めた空元気の太陽が窓越しに差し示す通り受け取るのなら、既に昼は過ぎている筈だ。
仄かに汗の匂いが漂い始めた薄手のブランケットに、二人の男女が密着して眠っている。本当に寝ているわけではない。ただ抱き合って横になっているだけ。
愛莉の提案は、予想に反し随分とお手柔らかというか、極めて簡単な作業であった。こうして抱き枕になっているだけで十分だと彼女は宣う。
「んぅっ……ん、んふふふっ……♪」
胸元で猫のように丸くなり、頭部をすりすりと寄せ付ける。時折漏れて来る甘ったるい吐息と、洞窟の奥から響き渡るような不気味な笑い声が耳元を通り過ぎるばかり。
かといって、一方的な搾取かと言われればそうでもなかった。柔らかくも逞しい彼女の身体をギュッと抱き締め返すと、表しようの無い穏やかな甘美が神経を伝い、口を開くにも億劫なほど。
簡潔に言えば、朝から抱き合ってイチャイチャ甘えている二人の男女。それ以上でも以下でもない、ひらすらにスローモーな時間が続いている。
にしても長い。長すぎる。
いつまで続けるんだこれ。
別に離れて欲しいとかでもないけど。これだけだらしなく蕩けた笑顔を間近で見せられては、冗談でも言う気にはなれないが。なんかこう、あるだろ。ラインが。
「……腹減らん?」
「…………んーん」
「あ、そう……俺は減ったんやけど」
「……だめ。もうちょっと」
「もうちょっとて、何もしらんやろお前」
「してるし」
「なにを」
「…………ギュってしてる」
うわあ。なにお前。
んな甘ったるい声でそんな、お前。
知らないんだけどこんな愛莉。
なにこの可愛い生物。
「……動作のうちに入るんかそれ」
「入るし」
「語彙力どうしたんお前?」
一応には会話が成立しているようにも見えるが、果たしてこれを正常なコミュニケーションと呼んで良いものか。少なくとも脳年齢が下がっていることだけは確かだ。釣られて俺も。
話し掛けてもずっとこんな調子である。いよいよ幼稚園児を相手にしているみたいだ……言い切るには難しいところだが。成長し過ぎお前。諸々。
「……嫌になった?」
「いやっ、そういうわけじゃ」
「……ならいいでしょっ」
「だからその……いつまで続けるのかな、と」
「…………ずっと」
「死ぬまでこのままは勘弁願いたいな」
「…………それでもいい」
普段のノリで発した実に適当な返しだったのだけれど。予想だにしない追撃に、思わずギョッとさせられる。
愛莉の情緒不安定さは今に始まったことではないが、これはあまり無いパターンというか、なんとも新鮮な姿だった。
胸元に顔を埋めているせいで表情を確認出来ないのが、またなんとも言い難いところで。妙な恐ろしさを覚える。
「今更やけど……これ、そんなにええんか?」
「……うん」
「もっとこう、他にやりたいこととかねえのかよ」
「…………まだいい」
「まだ?」
「だって……我慢できなくなっちゃうもん……っ」
「だから別に我慢しなくても」
「そうじゃないっ……けど、これでいいのっ」
「あ、そう……」
駄目だ。進展が無い。
何度も言うようだが、嫌というわけでも無いし、苦でもないのだ。ただほんの一抹の不安と「これでいいのか」がグルグルと脳内を駆け巡り、一人だけ落ち着かないという、そんな感じ。
そりゃそうだろう。先ほどの強烈なアタックを身を持って実感している手前、まだ何か隠しているというか。ビッグバンの前兆なのではないかと構えてしまうのも仕方ないところ。
「…………ハルトが言ったんじゃん」
「……えっ」
「私たちは、私たちらしく……でしょ。わたしが良いって言ってるの……だから、今はこれでいい」
「…………そっか」
「……あーいうのも、偶にしたいけど」
「それはホンマ控えろよ。命が足らん」
「分かってるっ……」
やはり多少の後悔は残っているのか、恥ずかしそうにもぞもぞと身体を動かし身悶える愛莉。
あれはあれで、ちょっとだけ嬉しかったとか、言ってあげねえけど。そこまでお人好しになってやるか。
……まぁ、必要なんだろうな。どっちも。
ああやって身に余るパッションをぶつけるのも、こうして穏やかに二人きりの時間を過ごすのも。彼女が抱えている
いつかは同一化して綺麗サッパリ整頓させろとか、難題を押し付ける気は無いけれど。彼女がそうしたい、そうなりたいと言うのであれば、俺はただ肯定し寄り添うだけ。あとは余計なお世話。
「…………やっぱダメ。ズルい」
「あっ?」
「私だって、ちゃんと考えて喋ったり行動してるつもりだよ。でも、やっぱりダメ……ハルトのこと見てるだけで、全部、どうでもよくなっちゃう……」
「……んなこと言われても」
「ハルトの癖にカッコいいのも、ハルトなんかに夢中になってる私も、ほんとムカつく……もっとこう、ダメなところとか無いのっ? 変なところとか」
「なんならお前が一番知っとるやろ」
「…………うん。知ってる。でも、気にならない。そういうダメなところも……全部好きになっちゃう。そんなのズルいもん……っ」
不味い。非常に不味い。
顔が。顔がニヤケる。駄目だ抑えろ。
もう何度も痛感しているところだが。普段あれだけ飄々とした態度を取っている愛莉に、こうもストレートな好意をぶつけられると、こんなにも響くものなのか。
比奈や瑞希のときも似たようなことを考えていたけれど……正直、あの二人とは破壊力が桁違いだ。薄気味悪い声が漏れるのも頷ける。何せ彼女も同じような状況なのだから。痛み分けだ。
「ハルトの言いたいことは……うん、だいたい、だいたい分かった。分かってる。でも、ムリ。だってこうやってるだけで、こんなに幸せなんだもん……」
だから上目遣いを辞めろ。
気が狂う。ホンマに。
「みんなより上手くどうこうしろとか、考えられない。わたし、そこまで頭良くないし、要領悪いし……」
「……それはもうお前次第やろ」
「でも、出来ないのっ」
正直、こんな風に悩んでいる素振りも愛おしく映ってしまうのだから、それだけでも十分にポイントは高い気はする。いやポイントって。キショいフレーズ使うな。
「……結局さ。私がまだまだなの。このままじゃイヤなのに、これ以上進むのを怖がってる……ハルトのこと、全然悪く言えない」
「まぁ、俺らには俺らのペースがあるだろ」
「……でも、ハルトはちゃんと前に進もうとしてるじゃん。わたし、やっぱり自信無い……着いてく自信無いよ。だって、こんなことで……ハルトに好きって言ってもらえて、ギューってしてもらうだけで、もう満足しちゃってるんだもん……釣り合い取れないじゃん、全然……っ」
複雑な心境を言い表すかのようにスッと視線を落とし、居た堪れなさを滲ませる。
それこそお前が悩むようなことではないと思うんだけどな。そもそも、今までの関係をいきなり飛び越えてしまったのは、俺の方なのだから。
「取りあえず、人任せでもええんちゃう」
「……人任せ?」
「そこまで言うなら、俺が引っ張ってやるよ。その分ほかのところで散々手綱握られとるしな…………まぁ、あれや。二人のときは俺がリードしてやっから。着いて来れるなら、着いて来いよ。無理だと思ったら離せばええ。離しっぱなしにはしねえけど、もっかい呼吸整えるくらいの猶予は与えてやる」
「…………なんで上から目線なのよ。うざっ」
「お前がそんなんやからわざわざ言ってんだよ。ええ加減、意地張るのか素直に甘えるのか、どっちかにしろ」
「……………………じゃあ、甘える、けど……」
若干の不服さを拵えプイッと下を向く愛莉。
本当に複雑というか、面倒な性格してるんだよなコイツも。そんな奴を好きになってしまった俺も、相当なものだけど。お似合いの二人だ。文句は無いだろう。
「つうわけで腹減った。なんか作れ」
「……命令口調はイヤ」
「じゃあ、作ってほしい。俺のために」
「…………あとでもっかい、ね?」
「あとでな」
というわけで、ようやくホールド状態を解除される。ずっと腕を身体の下に敷いていたせいか、少しだけビリビリと痺れていた。別に体重がどうこうってわけではないけど。
ただ、これが愛莉という重みなんだろうなと。
そんなことを、なんとなく考えた。
「お茶漬け、作り直そうか?」
「それも食べる。こう、自慢の一品を」
「贅沢なこと言うのね……まあいいけど」
柔らかい至福の笑みと共に、彼女はベッドから立ち上がり台所へと向かう。
向かったのだが、すぐに立ち止まりこちらへ引き返してくる。ちょっとばかりの気恥ずかしさを孕む、尖った唇を添えて。
「どした」
「…………んっ」
「んっ、じゃ分からねえよ」
「んっ!!」
このタイミングで、それは必要なのか否か。
ホント、甘え方も下手くそだな。
これからだな。お互いに。
まっ、どうにかなるものだ。
どう足掻いたって、俺と愛莉なのだから。
「…………これ、ちょっと良いかも」
「昨日は不意打ちだったからな」
「あれはノーカン。もう、覚えてないし」
「こちとら一世一代の大賭けやぞ。忘れんな」
「ふんっ。知らないしっ」
ワガママな奴だ。
それと同じくらい意地っ張りで。
どうしようもなく馬鹿で。
似た者同士、少しだけ背伸びしようぜ。
それだけ分かっていれば。
例え、どんな形でも、関係でも。
俺たちは、永遠だ。
「――――ファーストキスくらい、自分のしたいときにさせなさいよ。ばかっ」
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