343. ばか


 初めから分かっていたことだ。


 呪縛から逃れたい一心で、この街へやってきて。

 二度とボールなんて蹴るものかと心に決めて。


 この街では誰も俺のことなど知らないように、自分でさえも知らない自分になりたくて。けれど、なれなくて。理想と現実を結ぶあやふやな継ぎ接ぎの日々で、俺はすべてを見失って。


 そんなときに、愛莉。

 お前が現れた。



 彼女の強烈なパーソナリティーに打ちのめされているだけと思っていた。あくまでも自分の意思では無いと、必死に目の前の現実を否定しようとしていた。


 でも、愛莉。お前の前では、すべてが無意味だった。ただお前が隣に居てくれるだけで。どうしようもない空っぽの自分さえも肯定されているようで。



 俺が本当に求めているものが、今までと違う日常でも、新たな自分でもなく。ひたすらに丸い球体でしかなかったことを。


 結局、俺にはそれしか無いのだということを、彼女と過ごす日々のなかで、良くも悪くも認めることが出来たのだ。



 そしてそれと同じくらい。

 お前は、俺の求めていた存在で。


 ずっと憧れていた愛情とか、家族とか、信頼とか。あまりに曖昧な概念を、お前は分かりやすく提示してくれて。それに甘えて。甘えて。甘え続けて。


 俺が俺であるために。

 俺が、本当になりたい姿へと変わるために。


 愛莉、お前という人間がどうしたって必要だ。


 

 心から愛したフットサル部というチームを、これからも愛し抜くために。真人間にはまるで事足りない自分を、もう一度信じるために。


 すべての起点となったお前にだけは。

 どうしても、伝えなければならない。



 不器用なお前だから、わざわざ言ってやるんだよ。むしろ感謝して欲しい。この俺から明確な好意という意思を向けられた、史上初めての人間だぞ。もっと嬉しそうな顔をしろ。


 なんでここまで強気に出られるんだ、気持ち悪いって? そんなこと知っている。


 分かるだろ、愛莉。お前と同じだ。

 こうでもしなきゃ、身体中疼いて仕方ないんだよ。



 ――――なるほど。確かに違う。


 この感情は。この感情だけは、格別だ。

 そう簡単に口には出来ない。

 改めてあの三人を。いや、四人を尊敬する。


 お前がいつまで経っても素直になれない理由が、今やっと分かった気がする。これは辛い。辛過ぎる。身包みすべて剥がされたような、絶望的な気分だ。


 それでいて、どこまでも自分本位に、エゴイスティックになれてしまう。どんな理不尽さえも押し通してしまいたくなる、謎の無敵感が脳裏を支配していく。盲目になるのも致し方ない。



 これが、恋をするということか。

 

 

「…………うそ、うそだよ、そんなの……っ!」

「冗談でこんなこと言うわけねえだろ……ッ」

「だってハルト、私のことなんか全然……!」


 突然の一方的な告白に、愛莉はますます顔を歪め同様の色を隠そうともしない。それもそうだ。俺はまだ、彼女の根本的な疑問に何一つ答えていない。



「何が全然だよ、ったく…………はぁー、ホンマにアホや……ここまで来なきゃ気付けねえ自分が情けねえ……最初っから、とっくの昔に好きになってたってのによ……っ」

「……………………ほんとに……?」

「何度も言わせんなアホっ……クッソ、死ぬほどハズいわ、なんなんだよホントに……マジでキッツイ、穴掘って埋まりたい気分だわ……」


 先ほどまでなんの抵抗も無く……というわけでもなかったが、どちらにせよ許可も無く彼女の身体へ触れていたとは思えない、あまりにも情けない醜態を晒している。


 困り果てた。もう直視も出来ない。

 あらゆる感情が膨れ上がって、爆発寸前。



「でも、ハルト……瑞希と比奈ちゃんのこと…………ううん。ノノも、有希ちゃんもっ……わたしも、その……全部知ってるわけじゃないけど…………っ」


 同じくらい困っている愛莉の言い分も最もだ。


 俺はアイツらから受けた告白を、今も有耶無耶のままにして日々を過ごしている。家族とか、信頼とか、便利で卑怯なワードをふんだんに使ってまで。


 勿論、それがすべて嘘であるとは言わない。俺が彼女たちにそのような関係性を求めているのは本当のことで。

 フットサル部は俺にとって、本物の家族になり得る存在だ。これだけは否定しない。



 愛莉。お前も一緒だ。

 俺はお前と、家族になりたい。


 でも、それと同じくらい。違う気持ちも持っている。それも本当のことなんだ。俺だって驚いている。なんでよりによってお前だけなんだって。


 比奈に言われた通りだ。


 やっぱり愛莉。

 お前だけは、どうしても特別らしい。



「差を付けてるわけじゃねえけどよ」

「……どういうこと?」

「実際そうなってんだから仕方ねえだろ…………上手く言えねえけどよ。アイツらはアイツらで、一人ずつ特別で……それは愛莉も一緒なんだよ。ただ、少しだけベクトルが違うっつうか……」

「…………もっと分かんないわよ」

「うるせえ、黙って聞け…………あのな、分からねえはずねえんだよ。今だから言えることかもしれねえけど…………お前、分かりやす過ぎんだわ」

「……へっ…………ッ!?」


 何をどこまで想像したのかはいざ知らずとも、自身のあからさまな言動に覚えが無かったわけではないらしい。


 目下で身体を震わせる彼女は、見る見るうちに顔を赤らめ、乾いた口をパクパクと虚ろに閉じたり開いたり。



「なんとも思ってねえ奴にわざわざ弁当なんて作らねえだろ……夏休みにウチに飯作りに来たのも……文化祭で馬鹿晒して死ぬほど落ち込んでたのも……昨日、比奈と瑞希に珍しく怒ったのも。今日来てくれたことも、全部だよ。全部。流石に気付くわ。まぁ、遅過ぎたけど……」


 すらすらと流れ出る答え合わせは、結末を悟ってしまった映画のネタバレをするようで。彼女にしても、今もなお同じスクリーンを眺めているわけだから。野暮という言葉で片付けるにも卑しさが足りない。足りなさ過ぎる。


 

 気付いていた? いや、違う。


 ただ、認めたくなかった。

 怖がっていただけだ。



『つまりハルトは、自分がモテモテ過ぎてフットサル部の関係が壊れちゃったらどうしよう、とか思ってるわけ?』



 夏合宿の夜、愛莉が話していた遠過ぎるを、俺は本気で恐れていたのだ。


 彼女らのうち誰か一人に入れ込むことで起こる現実と未来、そして逃れようのない苛立ちに。



 けれど、もう必要無い。


 俺が思っていたより、俺という人間は。そして彼女たちは。ずっと、ずっと強かったのだ。


 そして思っていた以上に弱い存在で、だからこそこんな曖昧な関係が今も続いている。続けることが出来ている。



「……なんで今言うのかな、そーゆーの」

「今だから、だろ」

「もう、言い訳出来ないじゃん……っ」


 掠れた鼻声を響かせ、彼女は居心地悪そうに下手くそな笑みを溢す。ゲームオーバー、タイムアップというフレーズが脳裏を過ぎったが、恐らく同じようなことを考えているのだろう。



 頃合いだ。


 愛莉。もう辞めにしよう。

 下手な芝居も、意地の張り合いも。


 きっかけは些細な出来事だったのかもしれない。けれど、こんな状況を作り出した俺も、お前も。もう限界だったんだよ。


 意図せず触れた右手の指先から、優しい暖かさが伝う。ずっと心のどこかに引っ掛かっていた恐怖は、気付かぬ間に消え失せ。ただひたすらに、愛しさばかりが残った。



 僅か数センチの境界も、責務を果たそうとはしない。互いの息遣いまで感じ取れる、二人の距離感。


 言葉代わりの熱っぽい視線を重ね合わせて、どれくらいの時間が経っているのだろう。留まることなく高鳴る鼓動に、静寂という名の騒音が合わさり思考は覚束ない。



 麻酔に掛かったようだ。確か、あのときもこんな感じだった。頭がボーっとして来て、交差点の真ん中に突っ立っているような無力さと浮遊感。


 本当にふわふわして来ている。おかしい、あれほどしっかり働いていた右脳回路が、ちっとも機能しない。


 これが俗に言う恋というモノなのか。

 だとしたら、ちょっと大袈裟な気が。



「ハルト?」

「…………あえっ?」


 色づいた綺麗な声に、緊張の糸がプツリと切れてしまったようだった。身体の力がスッと抜けて、勢いのままドサリと彼女の身体へと倒れ込む。


 四肢の自由を奪われてしまったみたいに、身体が硬くなり動かない。金縛りの類いかとも思ったが、額が少しひんやりとした彼女の腹部に触れ、その原因を悟るまでに至った。



「…………アカン、死ぬ……」


 朦朧とする意識のなかで、白くてすらりとした指先が視界を遮るのを見た。


 ため息交じりの呟きを最後に、何かがゆっくりと暗闇へ落ちていく。



 …………やっとここまで言えたのに。


 これだから、俺は俺なのだ。

 詰めが甘いのは、いつまで経っても変わらない。






「…………熱下がってないじゃん、ばか」


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