342. 巡り巡って
吸い込まれるままに繋がれた細く小さい糸が、荒々しい息遣いのなかで交互に混ざり合う。さながら磁石のような一瞬のひと時であった。
たかがN極とN極の反発に過ぎなかった、出会った頃の俺たち。それが今、一つだけ向きを変えるだけで。虚ろげな眼に広がる世界は、180度、嘘みたいにひっくり返った。
酷く驚いた様子の彼女は、突如として訪れた呼吸の不自由を前に、身体をいじらしく投げ出す。矢継ぎ早に飛んで来る嵐のような口づけに、普段の気丈な姿の一つも見当たらない。
当たり前だ。こうして上に乗り掛かっている以上、いくら女性にしては大柄な愛莉といえど簡単に抵抗できるはずがない。されるがまま、抗うことも出来ず、ただ春を貪られるばかり。
ゆっくりと口元を離し、透明な糸が引き伸びる。言い逃れの出来ない証拠を残し、彼女をジッと見つめた。
「…………なっ……なんで……」
「ごめん……我慢、出来なかった……」
言い訳には到底及ばない頼りなさげなフレーズを、彼女はボンヤリとした瞳のまま咀嚼も無しに飲み込む。
驚くのも当たり前だ。行われた事実の確認だけならまだしも、何故このような行為に至ったか。彼女の頭のなかでは、何一つ整合性が取れていないのだろう。
「…………酷いよ、こんなの……っ」
「……分かってる」
「分かってない……なんで、なんでこんなときに……違うじゃん、そんなの違うじゃんっ……! わたしっ、初めてだったのに…………っ!」
今にも泣き出しそうな表情には、ショックの色がありありと見て取れた。
当然と言えば当然だろう。誰しもが憧れる一生に一度の機会を、半ば事故のような形で費やしてしまったのだから。
しかし、それだけではないらしい。
まだもう一つ、納得のいかないことが。
「…………どこ触ってるのよ……っ」
「……言わなきゃ分からねえか?」
「そうじゃないっ……!」
無意識のうちに左手は、彼女の贅沢に膨らんだ胸をしっかりと掴んでいた。あまりにも自然な成り行きに、いつものような強気な否定も出来ずにいる愛莉。
「セクハラ……っていうか、犯罪……っ!」
「……なら逃げてみろよ」
「…………へっ……っ!?」
「本当に嫌なら……振り払えるだろ?」
自暴自棄になっている自覚はあった。犯してしまった愚行を覆い隠そうと必死だった。
それがどうして。考えていること、やろうとしていることからドンドン離れて。ついには正反対な行動に出ている。
彼女を陥れるつもりも、困らせるつもりも無かった。すべては俺の傲慢さに起因する事態であり、一方的に非が、責任があるのはこちらの方なのに。
簡潔に言えば、この期に及んで彼女の優しさに甘えようとしているのだ。何もかも見失い、グチャグチャになった思考回路を組み直す気にもなれなかった。それが許されないことと分かっていても尚。
悪いものに憑り付かれているのならば。
それが彼女という名の悪魔ならば。
このままどん底にまで溺れてしまいたかった。
ただそれだけが望みと、本当は知っていた。
「逃げないってことは……そういうことだな?」
「違うっ……! 重くて動けないだけっ……!」
「なら無理やりにでも剥がしてみろよ……!」
「……やっ、やだ……っ!」
ようやく逃げ出す気になったのか、腕を必死に伸ばして俺の身体を動かそうと力を込める。
本気であることは認めるが、普段の半分も自慢のパワーを発揮出来ていないことは明らか。
言っちゃなんだが、子ども相手に腕相撲をしているような感覚だった。いつでも倒すことは出来るのに、勝負を成立させるためちょうど良い塩梅で手を抜いている。なんの意味も無い時間。
勿論、このような無駄な問答をこれ以上続けるつもりは無い。強引に腕を振りほどき、両手で肩をガッチリと掴む。
その瞬間、彼女の表情がみるみるうちに青褪めていくのが分かった。敗北を悟り、これから起こるであろう未来を想像し、愛莉は本気で恐怖している。
「やだっ……なんか、怖いよハルト……っ!」
「泣き顔まで可愛いのかよ。ズルいな」
「……ふぇっ!?」
「頼むから、変顔の一つでもしてみろよ。そうすりゃ俺も、これ以上馬鹿な真似しなくて済むんや…………分かんだろ、愛莉……! やりたくてやりたくて仕方ねえのに、これでもまだ我慢してんだよ……ッ! お前の顔見てると、こっちも頭おかしくなってくるんだよ……っ!!」
唖然とした様子で目を大きく開く。
この世に存在し得ないものを見ているような瞳。
そうだ。愛莉。
ようやく気付いたのか。
俺もいま、初めて理解出来たんだ。
ずっと、嘘を吐いてきたって。
「……あとでいくらでもブン殴らせてやる。蹴りでもええ。最悪殺されたって文句言えねえよ…………俺がお前にしようとしてるのは、いま抱いている気持ちは…………そういうモンや」
「…………はる、と……?」
「馬鹿みてえだろ、ホンマに…………分かっとる、分かっとるわこんなん。お前みたいな……お前らみたいな奴に囲まれて、友達とか、家族とか、そんな緩い言葉じゃ騙し切れねえんだよ。結局、全部俺のエゴ、無理強い、我が儘…………後付けなんだよ、なんもかも……ッ!!」
所詮、俺たちは男と女。
どう足掻いても、違う生物で。
関係無いと思っていた。
俺たちの世界に、性差なんて意味を成さない。
本気で、そう信じていた。
けれど、違った。
この激しい劣情を、他にどう説明すればいい。
思っていたより、ずっと単純なことだったのだ。
愛莉。お前が欲しくて。そして同じように、アイツらのことが欲しくて、欲しくて仕方がない。
自分で自分を誤魔化し続けていただけだ。友達、仲間、家族。そんな都合の良いフレーズに甘えて。
俺はお前たち一人ひとりのことを正確に捉えていなかった。しようとも、してこなかったのだ。
まだ理解出来ていないというのか。
あの二人と何があったか。
忘れたわけでもあるまい。
フットサル部は、俺にとっての家族だ。それだけはまだ信じているし、揺るがないものだと思っている。けれど、そのなかのたった一人にフォーカスを当てた瞬間。
俺たちは、家族ではなくなる。
ただの男と女になってしまう。
少なくとも、あの二人はそうだった。
俺とて違いはあるのか。ある筈が無い。
彼女たちの想いを受け止めたのは。
他でもない自身で、俺の本質。
では、目下で震えている彼女は、俺にとって。
いったい、どんな存在だというのか。
まぁ、愛莉。お前の言う通りだよ。
なんでこんなときにって、俺もそう思う。
でも仕方ないだろ。
一度気付いてしまったら、もう戻れない。
「…………また泣いてる」
「……うるせえ」
「そっちが襲ってるのに、なんで」
「分かるかんなもん……ッ」
「…………おかしいよ、ハルト」
「お前のせいでおかしくなってんだよッ……! 本当に、なんなんだよ、お前、馬鹿かよっ。警戒しな過ぎだろっ。一人身の男の家にノコノコ来てんじゃねえよ、どうなるかくらい想像付くだろうが…………ホントに、馬鹿なんじゃねえの……っ!!」
懲りずに涙を流す理由は、探せど見つかりそうになかった。この言い表しようのない数奇な感情が、果たして喜怒哀楽のどれに該当するのかさえ、今の俺には分かり兼ねる。
ただ一つだけ確かなのは。
このままではいけないということ。
少なくとも、未だに困惑を続けている彼女にだけには、しっかりと説明しなければならない。
俺が何故、こんなにも苦しい思いをしなければならないのか。何故、お前をここまで苦しめなければならないのか。
必要な台詞は、ほんの少しで良い。
余計な装飾も、無駄なプライドも邪魔なだけ。
巡り巡って辿り着いた答えがこんなものなら。
やっぱり俺、馬鹿な奴なんだろうな。
「――――――――好きだ、愛莉」
それはそれで幸せだと思ってしまうのだから。
本当に、救いようのない馬鹿だ。
「愛してる。愛してる、愛莉。絶対に逃がさねえ。お前の全部、全部、全部…………俺のモノにしたいんだよ……ッ!」」
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