341. 吐き気がする


 数時間の空白を経て三度目の起床。

 息苦しさを覚え顔を突き上げる。



(…………近っ……)


 やたら柔らかいものが当たっていると思ったら、愛莉の胸部へゴリゴリに頭を押し付けて眠っていたらしい。二つの豊満な乳房に鼻先を突っ込み、暫しのまどろみを堪能する。


 この世で最も快適な枕と言って差し支えないだろう。永遠に眠っていられるような気さえしてくる。なんだこの極楽。



 いや、待て。冷静になれ。

 こんな状況で愛莉が怒っていないわけがない。


 ただでさえセクハラに敏感な愛莉なのだから、他の面々が相手ならともかく自身へのこのような暴挙を黙って見過ごすはずがない。


 目線を上げた瞬間、拳骨でも喰らうのか。

 言い訳も出来ないこの状態。

 甘んじて受け入れるしかない。



 …………が、恐れていた未来は一向に訪れず。そこには大きな瞳をピタリと閉じ、スヤスヤと眠りこける彼女の姿が。


 どうやら俺にホールドされているうちに、一緒に寝てしまったようだ。もう何度目かという事実確認だが、黙っていれば本当にただの真っ当な美人で直視するにも神経を使う。



(……だいぶ下がったな)


 気付かぬ間に熱も引いていたようだ。

 怠さは残っているが、許容範囲だろう。



(んっ?)


 いつまでもしがみ付いているわけにもいかずベッドから抜け出そうとしたのだが、思わぬ邪魔が入った。反対に、俺の身体が彼女にガッチリ掴まれているのだ。


 女子の平均を軽々と超えるパワーの持ち主である愛莉に捕まってしまえば、単なる脱出と言えどそれ相応の困難を伴う。いや動かないホンマに。拘束器具の類い。



「愛莉っ……寝てんのか……?」

「…………んぅっ……」

「ちょっ、力強っ……!?」


 抱き枕かなにかと勘違いしているのか。

 腕を強く絡め、頭をホールディング。


 一度抜け出したはずの圧迫に再び襲われ、いよいよ身動きが取れなくなった。全身を駆け抜ける感触はあまりに柔らかく、それはそれで心地良いのだけれど。いやしかし、呼吸が。息が。



「むぐうぅぅぅぅーー……ッ!!」

「んんーー……っ!!」

「ぶへあぁッ! はぁ、ハァー……!」


 意地のひと踏ん張りでどうにか脱出。

 どんだけ力強いんだよコイツ。スッポンかお前。



 しかし参ったな……思いっきり熟睡しているようだし、ちょっとやそっとでは起きなさそうだ。別にこのまま寝かせるくらい訳無いけど……。


 ……取りあえず、真琴には連絡した方が良いか。何だかんだもういい時間だし、終電までに帰れる保証も無いだろう。今回は俺が招いたこととはいえ、似たようなミスを繰り返すものだ。



(…………可愛い顔しやがって……)



 僅かに稼働を許されている右腕を使って、何の気なしに長い栗色の髪の毛を撫でてみる。


 恐ろしいまでにサラサラだ……どんなシャンプー使えばこれだけの代物を維持出来るのか、想像にも及ばない。



 シミ一つ見当たらない真っ白な素肌。

 綺麗な筋の通った鼻先と、長いまつ毛。


 どの造形を切り取ったとしても彼女足り得ず、反対にそのすべてが彼女を長瀬愛莉たらしめている。


 不公平な神も居たものだ。天は二物を与えずと言うが、女神さながらの奇跡を前にその戯言も事実かどうか疑わしい。



 艶やかな薄桜色の唇を指でなぞる。

 少しくすぐったそうに身体を震わせた。


 ここまで来ては如何なる刹那的表現も無用の長物に過ぎない。目前に捉える愛莉の姿はあまりに扇情的で、否が応でも身体的興奮を伴う。


 熱にやられて頭がおかしくなっているのか。己の犯している行為に一抹の罪悪感を覚えながらも、動きが止まることは無い。



 力づくで抱擁を解き、彼女の上へ伸し掛かる。

 苦しそうに息を漏らし、口元を歪ませた。


 それでも彼女は、相も変わらずグッスリと眠っている。寝起きの悪さには定評のある愛莉のことだ。よほどのことでは起きもしないだろう。



 よほどのことって、なんだよ。

 オレ、なにしようとしてるんだ?



「…………愛莉……っ……」



 脳裏に響き渡る静止の声は、ついぞ届かなかった。震える両手は双丘へと伸びる。


 衝撃的な柔らかさに、言葉を失った。下着を着けていないわけでも無かろうに、指先が吸い付くように埋まっていく。少し筋肉質な響きは、加圧された風船を圧し潰しているような感覚で。


 比奈や瑞希と比較する気にはならないが、二人のソレとは明らかに異なる質感に、高揚と好奇心が湧き水のように溢れ出て来る。



「んぅっ……っ!」


 ほんの少しだけ力を入れると同時に、彼女は物欲しそうな甘い息を漏らし僅かに呼吸を乱す。


 そんな姿さえも愛おしくて。

 手が止まらなくなった。



 最低だ、こんなこと。

 寝込みを襲うだけではない。

 彼女の優しさにつけ込むような真似。


 分かっている。分かっているのに。決して許されないことだと、理解していたのに。何故、止まらない。止められないのだ。


 

「……うぅ……はるとぉー……っ」

「――――ッ!?」


 呻き声のなかへ紛れ込んだ俺の名前に、思わず反射的に手を離してしまう。


 まさか、起きてしまったのか。とっくのとうに限界点を突破していた心臓のBPMが、更に突き破る勢いで上昇していく。



 …………しかし、彼女が目を覚ます様子は無い。

 ただの寝言だったか……あ、危なかった……。



(……なにやってんだよ……ッ)



 自身を戒めようにも事足りない。

 なんてことをしてしまったのだ。


 あれだけ彼女たちには口を酸っぱくして「一時の感情に流されない」「俺にだってプライドがある」なんて講釈垂れていた癖に。熱があることを言い訳に、いとも簡単に彼女の魅力へ引き摺り込まれている。


 なにがプライドだ。大事なモノだ。

 最低過ぎて、吐き気がする。



 友達のままでいたい。

 今まで通りの仲良しでいたい。

 家族みたいな関係になりたい。


 そう言い出したのは他でもない俺なのに。


 彼女を、彼女たちのことを単なる異性として、性の対象としてしか見れていないのは、俺の方なんじゃないのか。どれだけ言い訳を重ねても、数秒前の愚かな行為が決定的な証拠だ。



 結局、いつも俺が悪い。

 自分勝手な思い上がりで、すべて壊そうとする。

 一人の都合で、誰かを悲しませる。


 俺が思い悩むことに意味なんてあるのか。

 そこに理想の未来は待っているのか?


 本当は、何もかも無駄な葛藤なのか――――?



「…………はるとぉ……っ?」



 その瞬間、彼女が目を覚ました。

 寝ぼけ眼のまま、ぼんやりと俺を見つめている。


 上に乗り掛かっている状態に変わりは無いのだが、まだ意識も朧げなのか、正常な判断には及ばないようで。特に追及するわけでもなく、たどたどしい口ぶりで言葉を繋いだ。



「……熱、下がった……?」

「…………あ、あぁ。もう動ける……」

「そっか……良かったぁ……っ」


 一点の曇りも無い笑顔を浮かべ、ゆっくりと掌を頬へと伸ばす。


 この上ない慈しみと愛情に満ちたその姿に、俺はどう反応していいものか分からなくて。



 辞めろ、愛莉。

 頼むから優しくするな。


 俺には。俺なんかには相応しくないことだ。

 お前の優しさも、想いも、愛慕も。

 丸ごと、踏み躙ろうとした人間なんだぞ――――




「泣いてるの……?」

「……………………えっ?」




 まるで気付かぬ間に、目頭から熱いものが込み上げている。それが自身の流した涙であることを認めるまで、夥しいほどの時間を要することとなった。



「まだ頭痛いの……? だいじょうぶ……?」

「…………いや、それは……っ!」


 頬に流れた雫を拾い上げ、心配そうに目を細める愛莉。



 辞めろ。辞めてくれ。


 涙を流す理由も、必要も無いはずだ。こんなもの、認められない。俺みたいな浅ましい、愚かな人間が流していいわけがないのに。



「…………ごめんね、ハルト……っ」

「……愛莉?」

「ハルトもこわいんだよね……あんなに辛そうなハルト、初めて見た…………ひとりぼっちはさみしいよね……」

「…………ち、ちがっ……!」

「わたしもさみしかったよ……でも、もういいの。ハルトがわたしのこと、必要だって、いてほしいって、言ってくれたから…………もうへーき……っ」



 幼子をあやすように、ニコリと笑う。



 馬鹿なことを言うな。

 まだ寝惚けているんだろう。


 そうでなければ、お前が俺にこんな甘言を吐くなどありえない。あってはいけない。起こってはいけないことなのだ。



 そうでなければ、また勘違いしてしまう。

 俺の犯した罪さえも赦されるみたいで。


 駄目だ。それじゃ駄目なんだ。たった一人の我が儘も受け入れられない、弱い自分が。お前の優しさに打ち負けることなど。あってはならないのだ。



 なのに。


 なのに、どうして。


 どうして愛莉、お前は。

 こんなにも、魅力的なんだ。






「……はると…………っ?」






 二つの唇が隙間無く重ね合わさるまで。

 それほど時間は掛からなかった。


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