340. 頼むから


 熱っぽく訴える瞳に焦心が滲む。

 掴み取る左手を一層強く握り締めた。



「……急にどうしたん」

「…………だって……」


 そうは見えないから。

 これだけ不安になっているのだ。


 続くべき言葉が一向に出て来ないのは、愛莉が愛莉たる所以であり、彼女が速すぎる日々の流れへ着いて来れていないことを如実に表している。



 確かにここ数日のフットサル部を巡る関係は彼女の知り得ないところで大きく動き出し、一つの瞬きさえ猶予の無いスピードで変化を遂げ始めた。


 彼女とて無視をしているわけではない。日に日に増していく苛立ちを押し殺してまでも、こうして単身やって来たのだから。現状を打破するためのきっかけを欲しているのだ。


 それでも、どう足掻いたところで愛莉は愛莉で。それは生まれ持った性質であり、知らず知らずのうちに形成されたバックグラウンドであり、いずれにしても長瀬愛莉という人間を象っている。



「お前が居らなどうすんねん。アホ」

「……でも、全然気に掛けてくれないっ」

「俺が? お前に? 冗談よせよ……」

「だって、私といるときより瑞希とか、比奈ちゃんといる方が楽しそうなんだもん……琴音ちゃんも同じこと思ってるわよ。何があったのか知らないけど……前より二人のこと贔屓してるって。別に、だからなんでってわけじゃないけど……アンタの勝手だし、わっ、私には関係ないけど……っ!」


 絵に描いたような自爆を置き土産に、顔を真っ赤に染めさも自然な流れで視線を逸らすのであった。


 独占欲を隠そうともしない。誤魔化す気があるのなら、それはそれでもう少し強く気を持てとお小言の一つも挟みたくなるが。そんな雰囲気でもないだろう。



 分からないものだ。比奈からは「特別扱い」と宣われ、その愛莉からは「私よりも」と言われてしまう。


 各々がどこへ基準を置いているかで、捉え方もまた変わって来るのだろうが……こうも乖離があると俺自身、身の置き方を改めざるを得ないだろう。意図的でないにしろ。



 特別かどうかは分からないけど。お前のこと、しっかり見てるつもりなんだけどな。少なくとも、彼女らに与えているものと同じくらい、お前にも同等の何かを求め、与えていたつもりだったのに。所詮、俺の勘違いなのか?



「…………やっぱ帰る。私より二人に見て貰った方が嬉しいでしょっ…………こっち来たがってたし、家の場所教えておくから」

「……は? なんでそうなんだよ……」

「いいからっ。余計な気遣わないで……!」

「愛莉……っ!」


 立ち上がろうとした彼女の左手を反射的に握り締める。少し驚いた風に肩を震わせると、頻りに瞼を重ね合わせ強烈な視線を飛ばして来る。


 もしかして、泣くのを我慢しているのか。


 冗談じゃない。

 泣きたいのはこっちの方だ。



「…………なんでそんなこと言うんだよ……」

「……は、ハルト……?」

「おかしいだろ、そんなの……っ」


 自分でも何を言っているのか、実際のところよく分かっていない。ただ、高熱に脅かされていつもなら出て来る筈もない甘言がダダ漏れになっていることだけは、なんとなく理解していたが。


 状況に託けて卑怯な手を使っている自覚も無いことはなかった。それくらい弱っていたのだ。理由なんてほど深いものは無く、あるのは浅ましい侘しさばかり。


 あとから誰かが来ようと解決にはならない。


 例え一瞬でも、一人になりたくなかった。

 出来るだけ長く、傍にいて欲しい。

 それだけが確かで、他に求めるものなど無い。



「俺が、お前に居ろっつってんだよ……! 分かんだろ、お前が来なきゃ飯も食えねえし、なんも出来ねえんだって……頼むから帰んな、ボケ……っ!」

「……え、ちょ、はっ、ハルト……?」

「なんで……なんでこんなときばっか一人にすんだよ……あいりぃ……っ!」

「うっ、ううええぇぇっ!? ち、ちょっと!? なんで泣いてんのっ!? ああっ、ちょ、ティッシュティッシュ……!」


 慌ててテーブル上のソレを何枚か抜き取って、頬に垂れた涙を掬い取ってくれる。そこまで感傷的になっていた自覚は無かったが、どうやら想像よりも精神的に相当衰弱しているらしい。



 流石に帰るに帰れなくなってしまったのか、動揺を隠しもせずどうにか宥めようと頭を必死に撫でる愛莉。


 本格的に母親へ甘える子どもになってしまったようだった。ほとばしる母性が尚のことお似合いで、図らずとも絆されたまま。



「……そんなに寂しいの……?」

「…………んっ……」

「そ、そっか。珍しいわね、ハルトにしては……っていうか、別人みたいなんだけど……」

「…………うるせえ」

「…………分かったわよ。じゃあ、帰らない」

「アイツらも呼ぶな。愛莉だけでええ」

「分かったって……本当にどうしたのよ……っ?」


 すっかりペースを乱されている様子の愛莉。指先から伝わる微かな暖かさに導かれるまま、覚束ない仕草で左手を強く握り直す。


 熱が収まる気配は無いが、こうしているだけでやけに落ち着いてしまう自分がいて。朦朧とする意識のなか、漠然と彼女の温もりを求めてしまう。



「……汗、凄いわね。服もびしょびしょ。寝てる間に腕だけ綺麗にしたんだけど……もっかい拭く?」

「…………うん」

「身体起こせる?」

「ん……」


 激しい眩暈が一向に止まず、彼女の力を借りてもそれ相応の時間を要することとなる。なんとか壁際に身体を預け姿勢をキープするが、少し油断してしまうとまた倒れ込んでしまいそうだ。



「熱も測り直さないと……ちょっと待ってね」


 タオルを持って洗面台へと向かう愛莉。

 数十秒の僅かな空白すらも恐ろしく感じる。



「お待たせ。自分で脱げる?」

「…………むぅ……」

「あ、ちょっ、しっかりしなさいって……!?」


 目が眩み首ごと前方へと落としてしまう。

 胸元と膝の間に頭部がすっぽりと収まった。



「やばい……めっちゃシンドイ……」

「で、でしょうね……」

「…………あいりぃー……」

「うぅっ……赤ちゃんの世話してるみたい……っ」


 少しひんやりとした身体が気持ちいい。

 駄目だ、全然動けん……死にそう……。



「でも……………………ちょっと可愛いかも」



 頭上でなにかブツブツ言っているが、耳鳴りまで始まった出来損ないの脳では、その言葉がどんな意味を成すかなど冷静に判断出来るはずもなく。


 再び身体を引き起こされ、強引にシャツを脱がされる。さながら着せ替え人形で遊ぶ女児のソレだが、それにしては対象年齢が高すぎる。難易度も本家とは段違いだろう。



「あいりー……はやくー……」

「分かったから、じっとしてて! うぅっ……無駄にいい身体してるんだからぁ……!」


 ぎこちない手つきで濡れタオルを宛がった。随分と恥ずかしそうな彼女は、あまりこちらを見ないで作業をしているせいか同じような場所ばかりを何度も拭う。


 老人の介護ってこんな感じなのかなぁ……まぁでも、子どもの頃も親からこうやって世話をされていたのだろう。

 記憶は薄れているけれど、誰しもいつかは経験することか。にしてもこの年では関わり合いになりたくないところであったが。



「はい、終わりっ……替えの服とかある?」

「…………あっち」

「あっちじゃ分かんないわよっ」

「……じゃあ、そっち」

「おんなじでしょっ……探すから待ってて」


 押入れの箪笥から厚手の部屋着を取り出して、されるがままに着せられる。うん、だいぶサッパリした……間違いなく俺一人では出来ないことだ。これはこれで。



「ほら、寝ていいわよ。えーっと、体温計は……」

「…………んんっ……!」

「ひゃあああっ!?」


 寝ていいと言われたものだから素直に重力へ従ったまでであるが、ついでと言わんばかりに彼女の身体を引き込んでしまう。とは言っても意識したものではなく、本能的な何かに近かった。


 柔らかい愛莉の身体を抱き締めて、ベッドへとうずくまる。たわわに実り過ぎた二つの果実がちょうど良い枕になって、いとも簡単に穏やかさを取り戻した。



「ち、ちょっとぉ……!?」

「んー…………」

「…………もぉっ、ハルトぉっ……!」


 あからさまに不満げな声を挙げていたが、無理やり逃げ出すのも申し訳ないとでも思ったのか。そのまま一緒に横になって、ジッと動かなくなる愛莉。


 優しい温もりに、意識は遠のいていく。


 こんなに暖かい気持ちで眠りに就けるのなら。

 偶には風邪を引くのも悪くない、な…………。



「…………甘えんぼなんだから」



 満足そうな囁きが、耳元を通り抜けた。


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