339. ワガママ言わないの


 鼻先を抜ける香しい火の匂いに誘われ目を覚ました。


 いったい何事かと思い身体を起き上がらせようとするが、途端に激しい頭痛と眩暈に見舞われ視界は覚束ない。


 どうやら朝方よりも熱は上昇しているらしい。たかが一時の風邪と高を括っていたが、愛莉の言う通り余計な方向へ拗らせてしまったようだ。



 ……そうだ。愛莉が来るんだっけ。枕もとの時計すらまともに見当たらない現状、いつ頃の到着かなど見当も付かないが……。



「あ、起きた?」

「…………んっ……」

「さっき計ったら9度まで上がってたわよ。おかゆ作ってるから、そのまま大人しくしてなさい」


 自宅から持ち寄せたのか、緑黄色のエプロンを腰に下げ彼女がキッチンから現れる。未だ眼はボンヤリとしているが、薄暗く映る栗色の髪の毛と声のトーンからして愛莉で間違いないだろう。


 付け加えれば、我が家の所在地を把握しているのはフットサル部において愛莉しか居ない。どうやら本当に一人で来たようだ。


 もう入っているということは、カギ開けっ放しだったか。我ながら不用心なモノだ……もしかしたら昨日のうちには既に熱でもあったのだろうか。



「…………何時?」

「4時過ぎ……もう、あんなこと言っといて重症じゃない。顔真っ赤にしてうなされてたわよ。悪夢でも見てたの?」


 額に手を当てると、既に効力を失って久しいと思われる冷却シートが貼られていた。テーブルの上には数本のペットボトルと濡らされたタオルが。


 彼女が到着してからも随分と長い間眠っていたらしい……ダメだ、少し視線の先を移しただけで頭がズキズキと軋む。これは本当に重症だな……。



「お待たせ……って、その感じじゃ辛そうね」

「……ん。まだ食えん」

「少し熱いし、ちょっと時間置きましょっか」


 完成したおかゆをテーブルに置きベッドに腰掛ける愛莉。下は制服のままだ。学校終わりにそのまま来てくれたのか。



「…………すまん、迷惑掛ける」

「別にこれくらいはね。他の家事は知らないけど、ご飯に関しては生活力皆無なんだからアンタ。放っておいて死なれても困るし」

「……ぶれーなやつめ」

「事実なんだから受け止めなさいっ」


 反論しようにも思うように頭は回らず、彼女のお説教を甘んじて享受するに留まる。


 その通りと言えばその通りだ。冷蔵庫に食材が余っていたわけでも無しに、愛莉が来なければ熱が下がるまでロクに食事も取れなかっただろう。



 普段は彼女の家事力の高さを「らしくない」とか「キャラじゃない」なんて照れ隠し込みで雑に扱っているけれど、こんなときばかりは素直に感謝を述べるほかない。


 相変わらず昼休みは彼女のお手製弁当に頼り続けているし、気付かぬうちに愛莉へ依存してしまっている。人間成長するには時間が掛かるが、堕落するのはあっという間だ……。



「なんか風邪引くようなことしたの?」

「…………いや、なんも」

「でも、ちょうど良い機会かもね。ここ最近も色々あったし、体を休めるには悪くないタイミングなんじゃない?」

「…………そんなもんかね」


 身体的な疲労というよりも、ここ最近は比奈との一件から始まり瑞希のアレコレへと続き、どちらかといえばメンタル面への蓄積の方が大きい気はしているけれど。


 愛莉の言う「色々」とはその辺りを含めての発言なのだろうか。詳しく問い詰めるつもりも元気も無いけれど、少しだけ気になるところ。



 …………しかし、本当に前触れなく風邪引くものだな。比奈と瑞希も心配だ。仮にも粘膜の接触があっただけに尚更。もっと言えばフットサル部全員に移してしまったりしては、申し訳が立たない。


 病原的な話も合わせて、愛莉の話す通り良い機会なのだろう。一度距離を置いて自身を冷静に見つめ直すには、望まない体調不良も一概に悪とは言い切れないのかもしれない。



「それ、代えるわね。ジッとしてて」

「……慣れてるのな」

「昔は真琴が熱出したときとか、良く看病してたけどね。でもそれくらいよ。ていうか看病くらい誰でもできるでしょ」

「…………ありがとな、愛莉」

「……い、いいってそういうの……っ」


 居心地悪そうに視線を逸らした彼女は、話を遮ってやや乱雑な手つきで冷却シートを引き剥がし、すぐに新しいものを貼り付けてくれる。ひんやりとした冷たさが指先にまで染み渡った。


 昨日まで少し距離があったというのに、こうしてピンチの時には駆け付けてくれるのだから大したものだ。根っこはこれだけ優しい奴なのに、いつまで経っても素直になれないんだな。



 身体の暖かさは、熱だけが原因なのだろうか。


 こうして隣に居てくれる彼女を眺めていると。内側に留めていた穏やかな流れが溢れ出て来て、不思議と寂しさも消えて無くなるようだった。


 病魔にやられて気が滅入っているのか、元々抱えていた根本的な何かか、どちらかが正解かまでは頭が回らないけれど。



「……ご飯は難しそうね。もう少し寝てれば?」

「…………いや、ねむくはない……」

「ワガママ言わないの」


 くしゃくしゃの髪の毛を撫でる優しい手つきに、すっかり反抗する気も無くなってしまった。


 その暖かい掌は、すべてを包み込むようなあまりにも莫大な慈愛に満ち溢れている。



 今度は先ほどまでと違う意味で、なんだか無性に寂しくなってくる。今日一日を乗り越えるための食べ物も飲み物も、病人に必要な手立ても用意されてしまった今現在。


 彼女がこの家へ留まる理由はもう残っていない。風邪を移してしまうのはもっと躊躇われるし、きっと普段の俺なら「もう帰っていい」なんて冷たく突き放すのだろうが。



「…………もう少し……」

「……ふぇっ?」

「もう少し、いいだろ……?」

「えっ…………あ、うん……いいけどっ」


 どこか戸惑った様子の愛莉は、あからさまに弱っている俺を見て少し動揺しているようだった。いつもの俺なら絶対に言わない台詞だ。自覚はある。



 差し伸べられた細い左手をギュッと掴み、会話も無しに彼女の温もりを求め続けていた。愛莉も愛莉で、絡め取られた指先を解く気配はない。


 何をするわけでもない二人だけの時間が、あまりにも心地良くて。いつまでも浸り続けていたい、そんな気分だった。


 彼女も似たようなことを考えていたら。


 たかが妄想の域を出ない代物でさえ。

 冷え切った心を暖めるに十分な施しで。



「…………急に幼くなったわね。ハルト」

「……そうか?」

「うん。小っちゃい頃の真琴みたい」


 戸惑いを露わにする彼女であったが、そこまで言い掛けてなにか思い出したようにハッとした表情を浮かべる。



「アンタ、真琴になに仕込んだわけ?」

「…………は……?」

「こないだアンタのこと「兄さん」って呼んでたわよ。全然言う機会無くてすっかり忘れてたわ……あれで隠してるつもりらしいけど、ちょっと油断したらすぐにボロ出すんだからあの子。なに? そう呼べって言ったの?」

「…………強制はしてねえよ」

「で、アンタは妹扱いってわけ?」

「……別にええやろ。同意の上や」

「だとしても、なんで勝手に……っ」


 不機嫌さを滲ませ、眉をへの字に曲げる。握り締める掌に強い負荷が掛かって、全身の骨まで軋むようだった。病人に対して遠慮が無さ過ぎる。


 その場は凌げても、彼女がここ最近の俺へ不満を抱いていることに変わりは無い。これも含めていい機会だ。認識の相違があるかどうかはともかく、擦り合わせは必要か。



「…………言い出したのは俺やけどな。真琴も似たようなこと言ったんだよ。兄貴役が欲しいって」

「……私じゃ頼りないってこと?」

「アホ……そうじゃねえ」

「だったらなによ……っ」

「…………家族だろ。ただの」


 そのフレーズと共に、愛莉は小さく息を漏らし分かりやすく挙動を弾ませる。言いたいことはあるが、上手く口に出来ない。そんな心持ちが伝わって来るようだった。


 まったく、この僅かな期間で同じ話を何度するつもりなのだ。招いたのは俺の責任とはいえ、一向に休まる気がしない。



「必要なんだよ、アイツには。それだけや」

「……ハルトも?」

「んっ…………まぁ、利害の一致ってほど大したモンちゃうけどな。愛莉が頼りないとか、そんなくだらねえ理由じゃねえよ。偶々空いとった場所に、偶々オレが埋まったっつうだけ」

「…………なら、わたしは……っ?」


 震える声色には、焦燥がありありと見て取れた。

 絡み取られた指先に、想いが募る。



「…………ハルトは……わたしのこと、必要なの……っ?」


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