344. 心臓止まりそう
朦朧とした意識を取り戻しゆっくりと身体を起き上がらせると、いつもと何ら変わり映えしない退屈なワンルームが広がっている。
生暖かい風が額を通り過ぎた。狭い部屋の片隅で、ドライヤーを使い髪を乾かしている愛莉の姿が目に入る。
夏休みのときと同じように、ほとんど使っていない俺のワイシャツとショートパンツを身に着けている。シャワーでも浴びていたのだろうか。
「あっ…………お、おはよ……」
「…………んっ」
視線が重なったのもつかの間。
僅かな時間で頬を赤く膨らませ、そっぽを向く愛莉。
勝手に俺の私服を着ていることへの罪悪感だとしたら、よっぽどマシな部類だ。彼女のあからさまな反応は、昨晩の出来事を思い起こさせるに十分すぎる一手であった。
「……熱、どう?」
「……あ、うん。たぶん、下がった」
「体温計、テーブルにあるから」
が、意外や意外にもそれなりに会話を続けてくれる彼女である。
高熱で言動がパアになっていた俺へとっくに愛想を尽かしたと思っていただけに、予想外のリアクション。
言われた通り温度を測ってみる。
7度5分。微熱まで下がったか。
「……こんな感じ」
「今日中には平熱に下がるかもね」
「…………んっ」
「……え、なに?」
体温を確認しに近付いて来た愛莉へそのまま体温計を手渡す。意図が分からない様子の彼女は、少し不思議そうにその場へ留まっていた。
「愛莉も。一応」
「私は別になにも……」
「仮にも病人の傍におったろ」
「…………じゃあ」
大人しく受け取って貰えた。昨日の俺がただの風邪にしては中々に拗らせた症状であったことは自覚していたし、看病に来てくれた愛莉に影響が出てしまっては申し訳が立たない。それだけの理由だ。
特別な意図は無かったのだが、熱を測っている間、愛莉は妙にそわそわしていた。何故かは分からない。そんなことを考えられるほど脳はまだ覚醒していない。ついでに言えば、まだ微熱あるし。
「はい。私も平熱」
「ん。良かった」
「……こういうところで気が利くの、ホントにさ」
「…………え、なんて」
「あっ……な、なんでもないっ……!」
何かを誤魔化すように傍から離れて、愛莉はテーブルの上に置きっぱなしだった小皿を手に取ってキッチンへ。
「御粥そのままにしちゃってたから、作り直すわ。お茶漬けでいい? 時間掛かっていいならリゾットっぽいのも作れるけど、どっちにする?」
「……じゃあ、お茶漬けで」
作業をしている間、暫くほったらかしにしていたスマートフォンを手に取って時間を確認してみる。
まだ7時過ぎなんだな。今から準備すれば学校にも間に合うけれど、熱も残っているし今日も休むか。
他のフットサル部面々からメッセージが届いている。返すのは、後にしよう。画面を見ていると少し頭が痛むし。
何よりも、今この瞬間だけは無用の長物であるように思えた。彼女たちの善意を無碍にするわけではないが。
開けっ放しの扉から見える愛莉の姿を、出来るだけ長い時間眺めていたくて。
「お待たせ。熱いから気を付けてね」
「んっ」
ものの5分で調理を終わらせ部屋へ戻って来る。
完成度の云々に料理初心者の俺が口を挟む根拠も見当たらないが、気怠さの残る身体に暖かさがジンと沁み込んできて。いよいよ美味しい以外の感想も出て来ない。
「あんがとな。色々」
「お礼はちゃんと治ってからでいいわよ」
「……もうちょい寝るわ。まだ少し重い」
小皿を預けて再びベッドへ倒れ込む。
熱は引いたとはいえ、後遺症はあるようだ。
「…………ねえ、ハルト」
「ん?」
「一応、今日も学校なんだけどさ」
「休む」
「いや、アンタはね。そんな状態で来られてみんなに移されても困るし」
ベッドの足元の辺りに腰掛けた愛莉は、両手で膝上をキュッと抑える。どこか落ち着かない様子だ。何か言いたいことがあるというのは、まぁだいたい分かる。
「…………いた方が良い?」
「……え」
「だからっ……もうちょっと居てあげた方が良いのかなって、聞いてるのっ! あんまり時間無いんだから、早く決めて!」
急かすような口ぶりに着いて行けていない。
お前の家ならともかく、ウチはスクールバスの停留所まで歩いて数分の距離なのだから、時間を理由にどうこう考える必要は無い気がするのだけれど。
……いや、そうじゃないよな。
考えなくとも分かることだ。
いつも通りの愛莉。ただそれだけ。
「…………いてほしい、かな」
「分かった。なら私も休む」
条件反射にも似通う即答であった。
相変わらずこちらは向いてくれないけど。
……今一つ腹の底が読めないでいる。昨晩の言動を思い返すに、彼女が朝を迎えた今もこうして我が家へ留まっていることも。学校へ行かず面倒を見てくれることも。
何より俺自身が納得出来ないというか、理解に及ばないのである。もっと露骨に距離を置かれてもおかしくはない。それほどには常軌を逸した言動だったという自覚はしっかり持っている。
「……あのさ。昨日のこと……どこまで覚えてる?」
適切な物言いも思いつかず困り果てていると、彼女の方から先に核心を突いて来た。
わざわざ口に出すということは、彼女も彼女でさっさと清算してしまいたかったのか。或いは他に会話の糸口が見つからなかったのか。後者だとしたら、生きるのが下手くそ。
「……全部」
「全部って……どこまで?」
「いやっ…………最初から最後まで」
「…………そ、そうっ……」
彼女ばかり責める気にはなれない。適当にはぐらかせば良いものを馬鹿正直に答えてしまうのだから、生きるのが下手くそなのは俺も同じ。
しかし、今日ばかりは。
この場に限っては、それも適切ではない。
半分ショートしていた脳内とはいえ、自分の意思で考えていたことだ。俺たちの曖昧な関係は、確実に終わりへ。限界へと近付いている。それはもう抗いようのない事実で。
だとすれば、昨晩の出来事を「あれは夢だった」などという陳腐なその場凌ぎで片付けてしまうのは、やはり違うのだ。
「…………ごめん。その、色々と」
「……もういいわよ。終わったことだし」
「そうは言ってもだな」
「ほんとにっ! ほんとに……き、気にしてないから……! あんなの事故みたいなものだし、ハルトの言う通りっていうか……私も私で、全然警戒してなかったっていうか……っ!」
どうにか正当性だけは持たせようと口ばかり無駄に回るのだが、その一片、角のどこを取っても優しくない過剰な擁護に塗れている。
気にしていないなんて、嘘に決まっている。
なら、その肩の震えはなんだよ。
「……無理すんなよ。帰ってもええて」
「だめっ! それは絶対にダメ! ほっといたらすぐに変なモノ食べて、また身体壊すんだから! 今日は一日、アンタのこと見張ってるの!」
「いや見張るって」
「決めたっ! もう決めたんだからっ! 絶対に帰らないっ! 変に責任感じてるなら、全部ハルトのせいだからっ! わたし、悪くないしっ!」
強気な語尾に勘違いしてしまいそうだが、態度だけ見れば極めていつも通りの愛莉で、尚更良く分からない。どうでもいいところで意地を張っている。そう、いつもの愛莉。
だから困っている。
今、お前が俺になにを求めているのか。
何を求められたいのか。それが分からないのだ。
「……怒っとるやん」
「お、怒ってないし……っ!」
「そうでなくとも不機嫌やろ、間違いなく」
「悪くないしっ!」
「ならなんやねん……」
何かと疲労を溜め込んでいる右脳ではこれ以上の考察も億劫で、流石に投げやりな態度も出てしまう。それを引き金にまた怒りを溜めてしまうかと思われた。
が、考え通りに事は運ばない。
運ぶわけがない。
長瀬愛莉を前にしては、たった一度も。
「…………全部ってことは……」
「え、なに?」
「……あれも覚えてるんでしょ……っ?」
背中越しにチラチラと視線を寄越し、やはり落ち着かない様子の彼女。言うところの「アレ」とは、いったいなんだろう。
「そのっ、だから…………わたしのこと……っ!」
「…………あー。あれか」
「いっ、今なら撤回しても怒らないわよっ!? 熱にうなされてて、思ってもないこと言ったとか、どうせそーいうのでしょっ! 分かってるからっ!」
あぁ、なるほど。その台詞の真意がどうしても聞きたくて、こうやって恥ずかしさを押し殺してまで家に残っていたわけか。
なんというか、いかにも愛莉らしいという感想しか出て来ない。どちらの答えを示しても似たようなリアクションを取るのは目に見えているのに。
自分がどのような状況に陥るのか、分かっていない筈が無いだろうに。相変わらず、勇気があるのか無いのか。
あれは忘れろ。妄言だ。
今までの俺なら、そう言うのだろう。
悪いけど、期待には応えられない。
昨晩見せた姿は、まるで俺じゃないみたいな姿だったかもしれないけれど。でも、そのすべてが嘘だったなんて言えない。言えるわけがない。
むしろちょうど良いくらいだったのだ。
お前も思ったんだろ。もう言い訳出来ないと。
なら、意識がハッキリしている今だからこそ。
もう一度だけ、ちゃんと伝えてやる。
分かった。俺から動いてやるよ。愛莉。
これ以上、余所見させるものか。
「本気や。全部。嘘じゃねえ」
「……うえっ……ッ!?」
「好きだっつってんだろ。アホ」
酷く驚いてこちらへ振り向く愛莉。
二度目の告白でそれなら、このあとどうなっちまうんだろうな。まるで予想が付かないけれど、そんなに悪くない未来だと思っている。
だから、さっさとリアクション返せ。
心臓止まりそうなのお前だけじゃねえんだよ。
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