333. あまりにも歪で、幸せ
脱衣所で彼女の身体を丹念に拭き上げて、再びお姫様抱っこで抱えて自室へと戻る。下半身だけならともかくブラの着せ方が分からなかったので、枕もとに厚手のタオルだけ敷いて下着一枚のままベッドへ放り投げた。
申し訳程度に掛けられた毛布も、何の慰めにはならない。彼女の知らないところで、あまりに多くのモノを目撃してしまった。脳内で否定しようにも、抗えない現実であった。
なるべく彼女のことは見ないようにして、背を向け同じベッドの上で横になる。
その間も極めて真っ当な衝動に駆られ一向に落ち着く気配が無かったが、激動の一日を過ごし身体だけはしっかり疲れを溜めていたのか。やがて意識は遠く彼方へと落ちていく。
カーテンから差し込む眩しい日差しに瞼を焼かれ再び目を覚ますと、未だにぐっすりと眠りこける瑞希の姿があった。
珍しく息を漏らしているが……どうだか。
虚ろな意識のままスマートフォンを手に取る。
午前10時過ぎ。まぁまぁしっかり眠ったな。
「瑞希。朝やぞ」
「んー……そんなの嘘だぁ……っ」
「馬鹿言え。もう起きとるやろ」
「……………………バレたか」
おおよその見当とは異なり、彼女の寝相が非常に良いことは夏合宿で確認済みだ。昨晩も俺が眠りに就くまで、一度も寝返りも打たなかったくらい。
「…………おはよ、ハル」
「身体は平気か?」
「だいじょーぶ……あ、でも、どっちの意味?」
「どっち?」
「ちなみに全然痛くないっす」
「ヤってねえよ」
半ば気絶するような形で意識を失ったこともあり、素直に心配していたのだが……すっかり元通りのトリッキーな彼女であった。昨日の出来事も、すべて嘘だったみたいに。
「……寝てるとき襲わなかったんだ」
「紳士で売ってんだよこっちは」
「あんな必死におっぱい揉んでたやつが紳士ぃ?」
「あ、いやっ……」
小馬鹿にした素振りでケラケラと笑う瑞希。
当時はそのつもりだったとはいえ、このようにさも当然の如く事実を並べられると動揺もしてしまう。コイツもコイツで、ちっとも恥ずかしがっていないから困りもの。
「……そういうのは、ちゃんと合意の上でだな」
「ホントに良かったのに」
「良くねえっつってんだろ。自分大事にしろ」
「ハルならいいし、別に」
「…………お前なぁ」
本当にやり辛い。何がって、まるでいつもと変わらない口調で、その中身はしっかり昨日から引き継がれているのだから。
「あっ。パンツはいてるじゃんあたし」
「…………それくらいはな。冷えるのも不味いし」
「てことは、見たんだな」
「不可抗力や」
「…………そこはひてーしろよ。ばかっ」
毛布で身体を包み、顔を赤く染める。
こんなときばかり汐らしくなりやがって。
……いや、まぁ、当然と言えば当然なんだけど。別に瑞希だからどうとか、そういう問題でもないだろう。誰だって自身の秘部を見られればそんな反応にもなる。
こればかりはどうしようもない。お腹を冷やされても困るし、そのまま放置していれば何より俺自身、我慢出来そうになかった。せめてもの抵抗と、渾身の勇気を出して事を済ませたのだ。
「…………で?」
「……で、って?」
「なんかこう、感想とか無いわけ?」
「…………んなこと言うてどうすんねん」
「いいじゃん。教えて」
なにが楽しくて自ら感想を求めるというのか。
言ったら言ったで絶対に怒る癖して。
そんな真剣な目で見つめるな。
諦めたくなるだろ。
「…………その、綺麗でした。はい」
「……………ん、そっか。ならいいや」
「なんなんお前……メンタル化け物かよ……」
「そーでもないって、昨日分かったっしょ」
飄々と返す瑞希であったが、毛布で顔を隠し再びベッドへと倒れ込む。言葉通りと言えばまぁそうなんだけれど。
どのような表情かは見なくとも分かる。
たぶん。いや間違いなく。顔真っ赤。
「…………だから言うたやろ」
「うるせー、ばかっ…………あー、マジかー……だめだ、ほんとだめだわ……あんなゴリ押ししといて、見られただけでこんなんなるかなぁ……?」
「……暫くはお預けやな」
「…………する気なんだ」
「機会があればやけど」
「もう絶対無いっしょ……」
一応、瑞希も瑞希で昨日の言動を反省している節は見て取れる。取りあえず攻め込んでみたは良いものの、これといった決め手に欠けるのはコートと変わらないらしい。
要するに、迎えるべくして迎えた結末というわけだ。これはこれで、俺たちらしくて良いものだと内心思っていたが。口に出すのも野暮だろう。
「…………別に今からでもええけど」
「……え、まじで?」
「出来んならな」
「…………ん、いいっ」
「はっ。このビビりめ」
「うっざぁー……!」
いくらでも言え。
ダメダメなのは俺もお前も一緒だ。
それでも、無かったことには出来ない。
少なくとも俺と瑞希は、もうただの仲良しではいられなくなってしまった。限りなく男女のソレに近い関係であり、想い合う関係であり…………そして、何よりも。
「…………瑞希」
「……んっ。なに」
「こっち見いや」
「うえっ……あっ、ちょ、ちかっ……!?」
壁際へ追い込んで、少し強引に彼女の唇を奪う。突然の襲撃に驚いていたようだが、それほど抵抗も見せずに大人しく受け入れる。
昨日よりもほんの少し穏やかで。
何かを確かめ合うような。優しい口付け。
「…………な、なんだよいきなり……っ!」
「愛してる、瑞希」
「――――――――ふぇっ……!?」
予想だにしなかったであろう一言に、彼女は大いに慌てふためく。珍しく落ち着かない素振りに、つい笑みが零れた。
「俺から言えるのは……出来るのはこれだけや。悪いけど、フットサル部の関係も、お前との関係も……大きく変えるつもりはねえ。これからもな」
「…………じゃあ、なんで……っ」
「ここまでが線引きや。ええな」
「…………キスまでってこと?」
「駄目か?」
「だっ…………ダメじゃない、けど……っ」
未だその真意を咀嚼し切れていない様子の瑞希は、妙に強気な俺を前にしてやや困惑している。
けれど、キスそのものは満更でもなかったようで。口元は僅かにニヤけている。
長い熟考を経て辿り着いた、俺なりの答え。
自分が言い出したことだ。確かに俺にも、理想としている家族像や、憧れている形があるけれど……それが本当に自分の、そして彼女たちのためになるのかは分からない。
みんながみんな、共通の認識を持つ必要は無いのだと思う。それぞれの理想を尊重し、認め合う。求めるところは求めて、求められたところは素直に受け入れる。
瑞希の場合なら、こうした恋人のような甘い時間も大切に、彼女が本来求めている家族像と少しずつ重ね合わせていく。
彼女が抱えているトラウマはあまりに根が深い。今もなお母親との確執を抱えている以上は、ゆっくりとその傷を癒し、改善していくことしか出来ないのだ。
いきなり完璧な答えを提示しても、昨晩のように余計な火種を掘り返すだけだ。彼女が求めるというのなら、この曖昧で不埒な関係も一概に悪いものとは言い切れない。
先立って比奈とある種の関係を持ったことも、結果的にはプラスに作用したのだろう。勿論、すべてがすべて円満に進むとは思っていないけれど。
俺の出来ることなら、なんでもしてやりたい。
それが自身にとっての幸せだと、そう思う。
……比奈の言っていたアガペーって、こういうことなのか。だとしたら、哲学者にしたってロクでもない概念を見出したものだ。まるで解決になっていないというのに。
「言うとっけど、お前だけじゃねえからな。少なくとも比奈には同じことすっから。嫉妬すんなよ」
「……うざ。なにハルの癖に有能感出してんの?」
「なわけあるか。有希も含めれば三人や。こんだけ好意寄せられて、まともに返事も出来ねえ無能に決まっとる。結局、このままの緩い関係を続けたいんだよ。最低だろ?」
「…………そーだね。さいてーだね」
「だがしかし、受け入れろ。お前が俺に求めるのとおんなじで、俺も同じだけのエゴを通す。そんだけや。まぁ、嫌っつっても離さねえけどな」
「…………超ジコチューじゃん。やば」
「そんなやつ好きになって、後悔したか?」
少し言い過ぎたかと反省する余地もなく、瑞希は嬉しそうに顔を綻ばせ、首を小さく横に振った。なるほど。瑞希にはこれくらい強気に出た方が優位に立てるんだな。
また一つ、お前について賢くなれた。
こんな積み重ねを、これからも繰り返せばいい。
そうしたら、また見えて来るだろう。
この形が正解じゃなくとも。
また違った形で、俺たちが俺たちらしくあるための新しい手段が見つかる。なんの根拠も無いけれど、不思議とそう思えるのだ。
「……じゃー、キスフレってことにしよっか?」
「キスフレ?」
「そっ。友達よりちょっと上で、セフレより下」
「一気に低俗になったな」
「いーんだよ、そんなの。あたしたちだけで通用する関係でさ。だって……あたしたちで作ってくんでしょ? 本物の家族ってやつ」
「…………あぁ。みんなで一緒にな」
「まっ、一番は譲らないけど!」
「おう。掛かってこいや」
互いに見つめ合い、吹き出すように笑う。
あまりにも歪で、幸せな時間だった。
こうして俺と瑞希は、少しの仲違いを経て。
本物の家族に、一歩。
いや、半歩だけ近付いた。
これから先、どんなことがあっても。
瑞希。お前が居てくれるなら。
どんな困難だって、一緒に乗り越えられる。本気でそう思えてしまうのだから、バカらしいよ。
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