324. ウザいんだよ


 少し位置を変えて、お腹の辺りに顔を押し付けて来る。それはそれで問題のある角度だと言及しようにも、僅かに変わり始めたこの部屋の空気に流されて、思うように口は動かない。



「……ちゃんと知って貰いたかったんだよな。あたしのこと」

「…………どういう意味やそれ」

「そのまんま……あたしさ、みんなが思ってるほど陽キャじゃないんよね、ホントは。おしゃべりは好きだけど、中身が空っぽってゆーか……なんも考えないで喋ってるっていうか」

「ならいつも通りやろ」

「そーゆーことじゃねーしっ」


 ますます腕に力を入れ、顔を押し潰さんとする勢いで密着してくる。ただ甘えているだけでないことに、俺はここでようやく気付いた。


 見られたくないのだ。今の表情を。

 また一つ、知らない彼女を目の当たりにする。



「……いるんだよ。あたしのなかに、あたしじゃないあたしがさ。それがホントのあたしだって、もう気付いてる。でも、怖いじゃん。認めたくないじゃん、そんなの」


「だからさ……試してみたかった、ってほどでもないけど。みんながいっつも見てるあたしと、普段のあたしが全然違うってこと。あたしもあたしで、結構苦労してんだーってところ、ちょっと知ってほしかったっていうのかな……んー、なんだろう、よく分かんね……っ」


 真面目な話もついつい横に逸らしてしまうのは、彼女の悪いところだ。


 だが、これ以上の独白は必要ない。

 言いたいことは、もうだいたい分かっている。



「……だから、お前の家なんだな」

「この部屋は別にいーんだよ。あたしの部屋だし。でも下は、リビングはあたしの家じゃないから。嫌な思い出がいっぱいあって、辛いことばっかり思い出しちゃうから…………だから、わざとそうした。あたしっぽくないあたしが、いっぱい見せられると思ったから」


 呼び鈴を鳴らして彼女が出て来たときの、当人とは思えない白けた表情をふと思い出す。今ならその気持ちが、痛いほどよく分かるのだ。


 ここは彼女の家であって、そうではない。

 このプライベートな空間だけが。

 彼女の数少ない居場所。


 だから彼女は直前まで部屋に籠って、出て来なかったのだろう。皆の愛情を肯定できないほどの苦痛が、あの空間には満ち溢れているから。



「……そしたらさ、凄いんだよね。みんなが集まったら、いつものフットサル部じゃん。いや、確かにお腹減ってたけど。めっちゃ普通に下降りちゃったし。すげえよみんな。あたしの抱えてる辛いこととか、全部すっ飛ばして来るじゃん。最強だわ」

「……少しは居心地も良くなったか?」

「あのときはね。でも、みんな帰ったらやっぱダメだった。急に寂しくなって、苦しくなって…………これって、ダメなことなのかな?」

「…………いや。そんなことねえよ。苦手なものの一つくらい、誰でも持っとる……逃げてばっかりも良くねえけどな。多少の甘えも許されねえようじゃ、人間生きていけねえよ」

「ねっ。それなっ」


 ようやく見せられる顔になったのか、クルリと反転させてにこやかな笑みを溢す瑞希。思わず伸ばした右手で髪の毛を優しく掬うと、くすぐったそうに口元を緩ませた。



(……悪いことじゃ、無い筈なんだけどな)


 彼女に言った言葉を、恐らく俺はそのまま自分自身に伝えたいのだ。いつかは解決しなければならない問題を、俺もずっと先延ばしにしてきている。


 それは「アイツら」との関係もそうだし、瑞希を含め彼女たちとの関係もそう。勿論、彼女が俺へ求めているものにしても、同様のことが言える。



「でもね、そろそろなんだよ」


 そんな一言と共に。

 瞳から灯りが潰え、灰色に濁る。



「いい加減、前に進まなきゃって。自分でも分かってる。このままじゃダメだって…………あのねっ、あたし、すっごい嘘吐いた。ホントはひーにゃんのこと、めちゃくちゃ嫉妬してるんだ……っ」

「…………そっか」

「だって、ズルいじゃんっ……! ズルくないけど、ズルいっ! あたしだって、ハルのこと同じくらい大事なのにっ、ハルはあたしのこと、大事に思ってくれてないんだもんっ! ちょっと先に伝えたからって、なんでそんな簡単に流されてんだよっ! 今日だってずーっとひーにゃんの傍にいたしさぁっ!」

「…………そ、そうだったか……?」

「死ねばかっ! 女なら誰でもええんかっ!」

「いてえいてえっ!」


 幾度となく腹部へ頭突きを繰り返す。

 痛くはないけど、滲むような何かが伝う。



「…………やっぱ、やだ」

「……瑞希?」


 突然動きを止めて、鼻声を響かせる。

 そこから先は、もう彼女の独壇場。



「…………別に、あたしじゃなくても良かった。みんながいて、ハルがいて、あたしがいて……それだけで良かった」


「なのにっ……気付いたらハルは、あたしの傍から居なくなって……あたしじゃない誰かと、ちょっとだけ違うところにいて…………やだよ……そんなのやだっ……っ!」


「ウザいんだよっ…………あたしはあたしだって、言ったじゃん、ハルもそのままでいいって、言ったじゃん! なんで勝手に成長してんだよっ! なに覚悟決めてんだよッ!」


「このままで良いじゃんっ……! なんで……なんで置いてきぼりにすんだよぉ……っ!!」



 溢れ出る水滴でシーツは薄く汚れていく。

 それすらも自然な成り行きだと。

 もう、気付いていた。



 置いてきぼりにしていたつもりはない。彼女が俺の傍に居てくれるように、俺も彼女に寄り添って、何気ない日々を過ごしている。そう思っていた。けれど彼女にとって比奈との一件は、あまりに重く伸し掛かってしまったのだ。


 あの日、彼女は言っていた。真実がどうであるかなど、極めてどうでもいい。自分から見えたものが、彼女にとっての真実で。



「……ちゃんと言って。優しくするか、しないか」

「……俺が優しかったときがあるってのかよ」

「じゃあ言い方変える。好きか嫌いか」

「…………その二択は、ズルいだろ」

「ハルの方が、ズルいし」


 そんなもの、答えは一つに決まっている。

 これだから、お前というやつは油断できない。


 気付かぬ間に懐へ入り込んで。

 誰よりも分かりやすい愛情を撒き散らして。

 その癖、こんな風にいじけて。


 お前から貰ったものを、俺はいつまでも返せる気がしないでいる。いくら返しても足りない、足りないと言われてしまうのだから。少しくらい、俺の気持ちだって考えろ。馬鹿が。



「…………好きに決まってんだろ、んなもん」

「…………嘘じゃん。だって」

「嘘じゃねえ。お前のことが好きじゃなかったら、俺自身を否定しているも同然や。お前が……瑞希がいなきゃ俺だってどうにかなっちまいそうなんだよ…………そんくらい分かれ、馬鹿でも」

「…………またそーゆーこと言う……」


 失ったとまでは行かないまでも。この一週間、俺の心にはポッカリと大きな穴が開いていた。


 他でもない、瑞希。お前という大事な存在を見失い掛けて、初めて知った感情だ。



 まだ、事足りない。

 掛け違いがあるのも、分かっている。


 それでも俺は、お前に言わなければいけない。それが残酷な仕打ちであると、勿論理解はしている。けれど、仕方のないことなのだ。ついこの間、ようやく勉強し始めたばかりなのだから。


 お前と一緒なら、どんなに高い壁だって超えられる。余計なものすべてすっ飛ばして、高いところへ行ける。それは本気で思っていること。でも、助走無しには成し得ないことだ。


 まずはワンステップ。

 少なくとも、俺には必要なこと。


 だから、もうちょっとだけ。

 俺の我が儘に付き合ってくれ。



「…………プレゼント」

「……へっ?」

「言うたやろ。見せたいもんあるって」


 上着にしまい込んでいたソレを取り出して、正方形サイズの小さなケースを開く。そこには瑞希に渡したものと色違いの、やはりイニシャルが彫られた薄細いリング。


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