311. 罠に引っ掛かったんだよ
微かに広場から差し込んで来る小さな灯りは、まるで俺たちを照らすスポットライトのように思えてならない。ただの一人の観客も居ないオンステージ。
留まる気配を見せない情熱的な交配。必死に舌を伸ばし口内を舐め回して来る彼女の溢れんばかりの欲求を、無我夢中で受け止めるばかりであった。
勿論、一方的な搾取というわけでもない。
図らずも求めているのは、こちらも同じ。
ビリビリと脳を突き破るような身に覚えの無い圧倒的な多幸感を前に、もはや理性なんてものは邪魔者に過ぎなかった。
求めれば求めるほど、倍の威力を持って帰って来る暴力。やがて呼吸が苦しくなり、息を荒げながら二人は僅かに距離を取り直した。
「…………もう。流されすぎっ」
「……お互い様やろ」
「我慢出来なくなっちゃったの?」
「鏡見ろ。同じ顔しとるで」
「なら、問題無いね」
依然として二人を繋ぎ止める透明な液体が、蕩けた微笑みとともに制服の胸元へと浸り落ちる。すっかり頬を紅潮させた比奈は、抱き抱えていなければ今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
「こんなことまでして、まだ付き合えないんだね。わたしたち。映画ならとっくにハッピーエンドなのに、変なの」
「大根役者揃えたところでなんも始まらねえよ」
「陽翔くんはともかく、わたしは心外だなぁ」
「うるせえ黙れ。口閉じろ」
「なら、塞いで」
そんな言葉を合図に、またも唇が重なった。
二人の関係を明確に定義するのは、あまりに難しい。世間の目を盗んで愛を育む、禁じられた遊びを奏でるかのようなその姿は、比奈の言うどんな映画よりも不出来で、結末に事足りない。
これだけ愛慕を重ねても、違和感は拭えない。
愛しきモノを愛しく想う気持ちに嘘は無いが。
「恋愛は分からないのに、性欲はあるんだね」
「……………………似て非なるものだろ」
「そうかもね。でも、結構近いと思うよ。そういう関係から始まる恋だって、珍しいことじゃないんだから。実例なら割と知ってるよ?」
「エロ本と現実ごっちゃにしてんじゃねえよ……」
「全部が全部、妄想ってわけでもないと思うけどな。少なくともわたしは、同じものだと思う。もっと証明して欲しい?」
「…………いや、十分」
「残念」
とろんとした瞳で訴え掛ける彼女は、どれだけ穿った目で見ても明らかに興奮していた。
抱いている感想は似たようなものだ。まさか比奈のような人間でも、そんな感情を持っているなんて。俺が知らなかっただけなのは、とっくに学習済みだけど。
「陽翔くんの攻略法、ちょっと分かったかも」
「人をゲームみたいにな……」
「色仕掛けが一番有効だね。わたしとしては、このまま流されちゃっても全然良いんだけど…………どうする? わたしのこと、どうしたい?」
「…………言っている意味が良く分からないな」
「ふーん……わざわざ言わせたいんだ」
そっと耳元に口を近づけ、声にもならない声を挙げた。だが、今までのどんな言葉より、鮮明に聞こえる。
「えっちなこと、したいの?」
淫魔みたいな顔で、したたかに笑う。
悪魔の囁きが、脳裏を激しく襲った。
「…………黙ってないで、答えて」
「……答えなかったら?」
「無理やり襲っちゃうかも」
「……それは困る。その、プライド的にも」
「じゃあ、言うことは一つだね」
「……………………したい、かも」
「かも? かもってなに?」
最後の一言は、ついぞ言い淀んでしまう。
かといって、これ以上抗う気力も残っていない。
断る理由なんてどこにも無い。俺だって最低限の知識や欲求は兼ね備えている。ましてや箱入りでもあるまいに、好き合った者同士でしか致してはいけない、なんて考えも持っていない。
一方で、二人の関係を不健全なものであると断定するにも憚れた。少なからず彼女は求めているわけで、俺がこのまま流されてしまったとしても、誰も文句は言えない筈なのだ。
なのに、言葉は出て来ない。
心では認めていても、口だけが動かない。
「ホント空気読めないんだね。ヘタレさん」
「……めっちゃ暴走してるの、自覚あるか?」
「あるよ。普通に。でも、このチャンスを逃したら次は無いから。卑怯で汚い手を使ってるって、それも分かってる。人生を賭けて勝負してるの。ちゃんと目を見て、理解して」
「…………理解は、してる」
「してないよ。全然。ねえ、いい加減にして? 女の子からここまで言い寄られて、まだ渋ってるなんてあり得ないよ。これで断られたら、女としての自信、全部無くなっちゃうんだけど」
「…………キスだけじゃ、駄目か」
「うん。足りない。それだけでも十分だって思ってたけど、やっぱり無理。先走ったわたしも悪いけど、陽翔くんもいけないんだよ。あんなにえっちなキスするんだから」
もうどうしようもないから。仕方ないからと、理詰めで選択肢を阻めて来るようだ。初めからそんなもの存在していないのではないかと、少し思っているけど。
頬に当てられていた右手が、本能に従うかの如くスルスルと下降し、やがて腹部にまで到達する。そのまま左手を掴まれた。
ゆっくりと。しかし確実に。
胸元へと近付いていく。
触れてもいないのに、鼓動を感じ取れる。
「……外やぞ」
「知ってる」
「もう引き返せなくなる。分かってんのか?」
「分かってる」
「今日だけじゃねえのかよ」
「だから、今なんでしょ?」
「…………明日には元通りでも?」
「言ったよね。わたし、シンデレラになりたいの。どんなお話か知ってるでしょ? 最後は王子様がシンデレラを見つけ出して、ハッピーエンド。もう、罠に引っ掛かったんだよ。それも自分から」
「……性格の悪い童話もあったもんだな」
「それくらいの我が儘、許してよ」
どうしてもガラスの靴を手に取らせたいようだ。ただ一つ、史実と異なるのは。シンデレラにしたって、わざと靴を置き忘れたわけではない。そこだけは忘れてくれるな。
要するに、とっくのとうに手遅れ。
彼女が俺の前へ現れたときから。
罠に掛かっていたも同然だったのだから。
「ちょっとくすぐったいかも」
「……ごめん」
「いいよ。もっと強くして」
「…………本当に、もう引き返せねえぞ」
「触っておいてそういうこと言うんだ」
柔らかな膨らみから伝う心拍数に合わせて、血流は更に上昇していく。ありとあらゆる葛藤やしがらみが、すべて熱で溶けていくみたいで。
これ以上の抵抗は、必要無いだろう。
もう十分すぎるほど、背中は押して貰った。
なにも考えたくはない。
目の前の彼女を、俺自身の手で傷付けたい。
それだけで頭がいっぱいだった。
添えられた右手を強引に引き離し、小ぶりとも、大きいとも評し難い胸を鷲掴みにする。一瞬彼女は驚いたように目を見開いたが、それも僅かな間だった。
すべてを受け止めると言わんばかりの慈しむような瞳に、ブレーキはついぞ外れてしまった。
ギリギリのところで繋ぎ留まっていた糸は、あまりにも脆く、息をするように打ち切られた――――
「おーい、そこでなにやってるんだー」
「…………へっ……!?」
「あっ…………いや、そのっ……」
「駄目だよーこんな時間まで外にいたら。それ、どこの制服? ちょっと話聞いてもいいかな?」
ただ二人だけの空間は、予想だにしない鶴の一声で、呆気なく崩壊を迎えた。路地裏を覗き込む二人の警察官が、こちらに向かって歩いてくる。
ハロウィンの喧騒に託けて、見回りの強化でもしていたのだろうか。そして俺は、制服姿のままで歩くには夜が深まり過ぎていることを、ここに来てようやく思い出す。
「こういうの憧れるのは分かるけど、流石に弁えないと。ほら、生徒手帳持ってるでしょ? 出して」
「…………こっちだ比奈っ!!」
「きゃあっ!?」
「あ、ちょっ、待ちなさい君たちッ!」
僅かな隙を突いて、比奈の手を取り警察官の間を駆け抜ける。
後ろから静止を呼び掛ける声が聞こえてきたが、振り返ることも無く、俺たちはレンガ倉庫のメイン広場を走り続けた。
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