312. 責任は取らないけどね


 突如始まった湾岸エリアでの逃走劇。

 鞄を揺らしながら、最寄り駅へと走り抜ける。


 日頃の成果が出たのかは分からないが、比奈は俺の全力ダッシュにも着いて来れたみたいで。流石に息を切らしてはいるが、途中で躓いてしまうような、出来の悪い悲劇は訪れなかった。



 思いのほか逃げ足の速い俺たちに警察官は着いて来れなかったようで。途中からパトカーのサイレンが聞こえていたが、まだまだ交通量の多いこの辺りでは自由が利かなかったのか。


 人混みに紛れ駅へ到着すると、サイレンの音は聞こえなくなっていた。時刻は11時半、制服姿の人間は俺たちを除いて一人も見当たらない。流石に長居し過ぎてしまったか……。



「なんとか撒いたな……っ」

「はぁーっ……もう、ビックリしたよぉ……!」

「どっか痛めたりしてねえか」

「へーきっ……これでも運動部ですからっ」


 流石に疲れから膝に手を付く比奈であったが、表情には余裕が窺える。地道に続けて来た体力づくりも、無駄では無かったってことか。


 息を整えてから、足並みを揃え改札へと向かう。

 今から戻るのは不用心だというのもあるが。


 夢のような時間が終わり、現実へ引き返されてしまったことを。二人、口にするまでもなく理解していた。



「もうこんな時間だったんだね」

「だから言うたやろ。制服じゃ厳しいって」

「着替えさせたのは陽翔くんなんだけどな」

「着替えたのはお前やろ」

「…………サイアク。タイミング悪すぎだよっ」


 比奈にして珍しく、分かりやすい悪態を付く。


 現実世界へ戻ってきたは良いが、激しく機嫌を損ねてしまったようだ……俺とて似たような心境ではあるが。



「……時間切れ、だねっ。残念でしたっ」

「一番残念そうな顔していて、よう言うわ」

「あーあ、勿体ないなー陽翔くん。あのまま行けば今日はお家に帰らずに済んだのに。わたしのこと、好き勝手出来ちゃったのに。ねっ?」

「どちらにせよポリ公には見付かっとったやろ……つうか、制服姿でどこに泊まれんだっての」

「どこに泊まる気だったの?」

「絶対言ってやんねえ」


 気が付けば、いつもとそう変わらない様子でクスクスと笑う彼女が、隣に居た。さっきまでの出来事が嘘のように、忙しなくも平穏な時間が二人の間には流れている。


 正直に言えば、もう諦め掛けていた。

 半分どころか九割五分は流されつつあった。


 据え膳食わぬは男の恥、という言葉があるように、あれだけ情熱的に迫られてはもうどしようもない状況だったのは間違いない。


 最も、後悔していないわけでもない。一番中途半端な状態で、彼女の一世一代の賭けをフイにしてしまったのだから。



「まぁでも、陽翔くんのお家に行けばいっか」

「続ける気かよ……」

「そのつもりじゃなかったの?」

「…………いや、可能ならそうしたいけど」

「なら、いいじゃん」

「落ち着けっつうの」

「いたっ」


 またも攻勢を仕掛けて来た比奈だったが、流石にここは冷静さを取り戻していた俺。左で軽くチョップを交わし、カウンターにも満たぬ反論を噛ます。



「…………やっぱ、良くねえよ。お前とそういう関係になんのも、まぁ、悪くはねえっつうか、そうしたいの山々っつうか……でも、納得できねえ。仮に溺れたとしても、絶対に後悔する自信がある」

「わたしは良いって言ってるのに?」

「ヘタレでも、軟弱でも、なんとでも言え。お前の気持ちは嬉しいし、大事に思っとる。けど、それと同じくらい、自分のことも大事にしなきゃいけねえんだよ」

「カッコいい台詞なのに、全然説得力無いなぁ」

「うるせえ黙れ」

「ヘタレ、軟弱」

「ホンマに言うな。傷付くやろが」


 ニヤニヤと笑う彼女だったが、ここは引き下がれない。一度、肩まで浸かってしまったからこそ。頭ばかりはクールになっていた。



 すべて理解した上で、敢えてそうするべきだ。

 線引きは、必要だと思う。


 愛が何たるか、恋がどんなものか俺は未だに分かり兼ねるし、必要に駆られているとも思わない。


 比奈がそれを望むのであれば、受け入れることも吝かでは無いが…………結局のところ、自分の意思では無い。ただ、彼女の魅力に惑わされているに過ぎないのだ。



「エロスとアガペー、って知ってる?」

「……なんそれ」

「さっきの家族のお話で、ちょっと思い出したの。古代ギリシャの哲学なんだけどね。エロスはご想像の通り、男女の間にある愛情のことで……アガペーは、神から与えられる無償の愛、って感じかな。家族愛とも言い換えられるけど」


 突然始まる比奈の博学タイム。

 だが、思い当たる節が無いこともない。



「わたしも本でちょっと読んだくらいで、全然詳しくないんだけど。陽翔くんがフットサル部のみんなに与えていたり、感じているのは、アガペーの方だと思うんだよね」

「……まぁ、そんな気がしないでもねえな」

「陽翔くんがみんなの気持ちに動揺しちゃうのは、そこの解釈の違いが原因なんだと思う。その二つって、似てるようでちょっと違うらしいから」


 まさに、家族としての温もりを求めている俺と、愛情を求めている比奈との違いでもある。しかし違うと言い切るにもどうなのか。事実、比奈の猛アタックにほぼ流され掛けていたのだし。



「で、性欲も性欲で、またちょっと違うカテゴライズに入るって、書いてあった気がする。つまり陽翔くんは、それぞれが全部ごっちゃになってて、整理が出来てないってこと」

「……かもな」

「隅から隅まで理解する必要は無いと思うけどね。だから、陽翔くんがわたしに興奮してくれたのも、別に変なことじゃ無いから。安心して?」

「…………あれは忘れろ。頼むから」

「おっぱい触られて忘れろとか、酷くない?」

「……仰る通りですが」


 こればかりはどうにもならない現実であった。

 余計な貸しを作っちまったな……。



 下りの電車がやって来た。地下鉄一本で彼女の最寄りまでは行けてしまうから、暫くは余計なことを考えないで済みそうだ。素直に降りてくれるかは、ちょっと分からないが。


 混雑していた車内に二人分の座るスペースは見つからず、端に寄り掛かったまま揺られ続ける。やたら小難しい話に引っ張られ、先ほどまでの火照りはすっかり醒めてしまった。



「でも、全然違うものでもないっていうのもホント。今は詳しく聞くつもりは無いけど…………陽翔くん、家族とあんまり上手く行ってないんだよね」

「……上手い下手も分からん程度にはな」

「なら、そこから始めないとだよね。うん、わたしも早まっちゃった。確かに我が儘過ぎたかも。陽翔くんの事情、全然考えてなかった」

「……謝られても困るわ」

「じゃあ、許してくれる?」

「許すもなんも、最初から怒ってねえよ」

「良かった」


 哲学の話なんぞ詳しく知るつもりも無いが……ただ、少しだけ意識してみても良いかもしれない。俺がいま抱いているアガペーも、恐らく皆それぞれへのエロスに繋がっているのだろう。


 比奈の言う通り、今日の出来事は俺たちにとって早急過ぎる展開だったかもしれない。けれど、一歩前に進むためには必要なプロセスだった。俺にとっても、比奈にとっても。



「それだけ分かれば今日は十分…………ってわけでも無いけど。あのまま押し切ってたらわたしの勝ち逃げだったし、このまま陽翔くんのお家着いて行っちゃおうかなって、まだ思ってるけど」

「勘弁してくれ。次はあれだけじゃ済まねえぞ」

「だから、そうして欲しいって言ってるの」


 諦める気は毛頭無い様子の比奈であった。


 まぁ、論理的に割り切れるのなら、ここまで拗れるわけないんだけどな。いつだって重要なのは、何が必要かではなく、何をどうしたいかだ。これからも比奈は止まらないだろう。



「告白の返事は、保留にしてあげるね」

「…………めっちゃ助かる」

「でも、答えないっていうのは無しだから。ちゃんと目の前で、わたしのこと好きじゃない、他に好きな人がいるって言われるまで、ずーーっと聞き続けるから。覚悟しててね? 言わせる気は無いけど」

「我が儘っつうか、横暴やな」

「今すぐ教えてくれたら、それで終わりだよ?」

「馬鹿言うな……ちゃんと考えるから、待ってろ」

「うん、待ってるよ」



 例えどのような結論を出したとしても、俺は今日のことを死ぬまで覚えているだろう。


 様々なきっかけと、沢山の答えと、そして激しい衝動を与えてくれた、彼女との思い出を。


 ただ願わくば、なるべく早く過去の思い出にしてしまいたい。何故なら、こうしているうちにも彼女は想い悩み、愛慕を認め続けているのだから。



「もしも分からなくなったら、わたしに聞いても良いよ。身体に聞いても良い。答えてあげるから」

「……それはやらねえよ、流石に」

「でも一回触っちゃったんだから、もうその辺りのラインも曖昧でしょ? 良いんだよ、好きなときに襲ってくれて。瑞希ちゃんみたいに朝からいきなりおっぱい触りに来ても、怒ったりしないから」

「んなことしてんのかよアイツ」

「ちゃんとガードしてるけどね。でも、陽翔くんなら良いよ。スカートくらい覗けばいいし、みんなの前でキスされてもいい。押し倒されても、全部受け入れるから」

「無敵かよ」

「恋する乙女は無敵なのですっ♪」



 大事にしたいとか考えておいて、結果的に軽んじているような気もする。でも、彼女は待ち続けてくれるだろう。


 彼女が求めているのは、ハッピーエンド以外の何者でもない。過程よりも、結果を望んでいる。



「今度はわたしが、魔法を掛けてあげる。わたしのことしか考えられなくなる、悪趣味で意地悪な魔法。死が二人を別つまで、解いてあげないから」

「…………重いわ」

「それでいい。永遠に、陽翔くんにとっての重しになってあげる。もうなってるかもね。もしこれから、他に好きな人が出来たり、違う人と恋人になっても…………初めての彼女も、キスの相手も、求めた人も、わたしだから」

「そういうの、普通は男が女に言うんだよ」

「余裕なんだね。わたしがいつまでも陽翔くんのこと、好きだと思ってたら大間違いだよ。いつか他に好きな人が出来て、離れていくかもしれないのに。そうじゃないっていう保証はある?」

「…………無い、けど」


 どこまでも、焦らすつもりか。


 ただでさえ魅力的に映るというのに。

 タイムリミットまで付けられたら、お手上げだ。



「責任なんて取らなくていいから。その代わり、わたしも陽翔くんの人生に責任は取らないけどね」



 なら、少しだけ安心しておこう。

 俺もお前の人生に責任を取るつもりはない。


 ただ、優しくしてやりたいだけだ。

 例え気持ちが裏返しになってしまっても。


 いつまでも、想い続けている。

 それだけは、きっと本当の気持ちだから。

 


「…………眠くなっちゃった?」

「……少しだけ」

「いいよ、眠ってて。おっぱい枕する?」

「肩だけ貸してくれ」

「素直じゃないんだから」



 恐ろしいまでの優しさと許容に包まれ、瞼は次第に重たくなっていく。悩みも葛藤も、すべて彼女に許されてしまう。そんな気がした。


 頭を優しく撫でられ、意識は遠のいていく。愛おしそうに目を細める、比奈の微笑が映り込んだ。



 目を覚ますと、彼女の姿は無くなっていた。

 何もかもが嘘だったかのように。


 でも、ちゃんと覚えている。こんなに寒い車内なのに、左手と心臓だけは暖かいのは。


 紛れもなく、彼女のおかげだから。


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