309. 方法を変えてみよう
観覧車を降りた後、俺たちは対岸のエリアへと戻ることにした。
子供向けの小規模なアトラクションが連れ並び、目の鼻の先に流れる水面から、銀色の名前も分からぬ小魚が飛び出して飛沫を上げる。
少しだけ待ってて。と逃げるように手洗へ駆け去っていった彼女は、元の制服姿に着替えて戻って来た。あの格好も見納めなのかと思うと、少しだけ勿体ない気もしているが。
着替えさせたのは、他でもない俺だ。
唯一、彼女の意思であるということだけが救い。
「遅くなっちゃったね」
「制服で出歩くには背伸びし過ぎかもな」
「そう? 私たち以外にも、結構見掛けたけど」
「悪目立ちしてんだよ。俺もお前も」
「悪そうに見えるのは陽翔くんだけだよ」
「あっそ」
「中身もね」
「言ってろ好きなだけ」
肩を並べて、川沿いを散歩する。
小綺麗とは言えない汚れの目立つ水面に、棘のある会話。荒々しくも変化を求めた二人の関係性を表すに、これほど都合の良い場所は無かった。
おおよそ彼女から始まる会話を一方的に切断しているのは、どうしたって俺の方であった。別に話す気が無くなったとか、無駄に緊張しているとか、そんなしょうもない理由でもない。
「……ちゃんと教えてくれよ」
「教えるって、なにを?」
「恋人って、なにすればええねん。分からん」
「あれ? 本当に付き合ってくれるの?」
「今晩だけ言うとったやろ。揚げ足取るな」
「はいはい。分かってますよー」
観覧車を降りてから、比奈は驚くほど冷静だった。まるで先ほどの件が無かったかのように、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを絶やさず隣を歩いている。
「まず陽翔くんは、家族愛と恋愛の違いをちゃんと分からないとね。自分でもずっと悩んでるでしょ? だから有希ちゃんにも、ハッキリ答えてあげられなかった。わたしにも。違う?」
「…………ちゃっかり聞いてたんじゃねえかよ」
「もう時効でしょ? 秘密にするから」
「そういうの意外と根に持つぞ。アイツ」
「まっ、それは追々ねっ」
そんな彼女を恐ろしくも感じる一方で、どこか安心している自分も居た。思いのほか、これから起こるであろう出来事や想定外のコンタクトを、不思議と受け入れる気になっていたからだ。
当たり前と言えば当たり前である。
とっくの昔に気付いていたのに。
本当に、何を今更。
「分からないんじゃなくて、怖いんだと思うよ」
街灯で微かに照らされる口元が、そんな風に動いた。全てを見透かされているようで。風も無いのに寒気がした。
「陽翔くんが昔のこととか、家族のこととかあんまり話したがらない理由、やっと分かった気がする。話さないんじゃなくて、話せないんだね」
「…………まぁ、そうかもな」
「本当は、全部聞いてあげたいけど。でも、イヤだよね…………サッカー部さんとの試合の前に、陽翔くんがすっごく辛そうな顔してたの、覚えてる」
そんな昔のことを、よく思い返すものだ。必要に印象的だったと言われれば、返す言葉も無いが。
彼女の言い分は、何一つ違わない。
比奈が抱えている根本的な問題をどれだけ見透かそうと、俺にしたって同様の問題をずっと拗らせているのだ。今だって、忘れることは出来ない。
思い出してしまうのだ。
理解しようとすればするほど、悲しみは募る。
跳ねのけられるほど、重く伸し掛かる。
一人で闘っていた、あの日々を。
一人で藻掻いていた、あまりに苦しい日々を。
誰にも助けて貰えなかった、辛い毎日を。
差し伸べられた手を払い除けた、弱い自分を。
「ジレンマ、だね」
「ジレンマ?」
「そう。陽翔くんが求めている答えは、きっと過去の自分のなかにしか見つけられない。でも、それを探そうとすればするほど、陽翔くんは傷付いて、身動きが取れなくなる」
「同じなんだよ。俺が
「……フットサル部が初めてなんだね。こんなに居心地が良くて、信頼できる関係が。だから、怖がってる。そんなに脆い関係じゃないって、分かってても。一歩が踏み出せない」
少し先へ進み、水面を見つける比奈。
恐ろしいまでに鋭い彼女の指摘。
まるで俺の人生を一から読み返したようだ。
それだけ分かりやすい態度ってことなのか。
そんな調子じゃ、もっと頼りたくなる。
「たぶん、陽翔くんのなかでも整理が付いてないんだと思う。だから、すぐには求めたり出来ないし……答えて欲しいなんて、言えないけどね。でも、あんまり先延ばしにはしないで欲しい、かな」
「……だから、恋人か」
「アプローチの方法を変えてみよう、ってことだよ。陽翔くん。男女の友情なんて、恋への前段階に過ぎないってこと、わたしが教えてあげるから」
「全部が全部そうってわけでもねえだろ?」
「分かんない。でも、わたしに出来る方法は、これしか見当たらないから。だったら、ちょっとだけ合理性を優先したって良いでしょ?」
揺れる髪の毛を掻き分け、悪戯に微笑む。
こんな風に考えるようになったの、いつからなんだろうな。俺が背中を押してしまったのか、或いは無理やりに飛び込ませてしまったのか。
どちらにせよ確かなのは。
彼女はもう、今までの比奈とは違う。
「いま、ドキドキしてる?」
「…………ん。割と」
「それが恋って感情だよ…………って、スパッと言えたら楽なんだけどね。陽翔くんはそれじゃ納得いかないし、認めるのが怖い。ほんとにめんどーな性格してるよね。ちゃんと自覚した方が良いよ」
「んな奴に惚れるお前の方が、よっぽどやろ」
「それは言えてるっ」
立ち止まり、小さな歩幅で歩み寄る比奈。
ぐっと近づいた長いまつ毛が、小刻みに震えた。
「あのね。陽翔くんは、優し過ぎるの。自分にも、みんなにも。それは陽翔くんの長所だけど……欠点にもなってる。少なくとも、今この瞬間は」
「……そうは思わねえけどな、自分じゃ」
「自覚が無いのも問題っ。いい? わたしにばっかり「我が儘になれ」とか「エゴイスティックになれ」とか言ってる場合じゃないんだよ。陽翔くんこそ、もっと自分に正直にならなきゃ」
「……んなこと言われても、どうすりゃええねん」
「例えば、わたしの顔がすぐ近くにありますっ」
唇を尖らせ、更に接近する。
何かを強請っているのは、明白だ。
「どうっ? キスしたくなった?」
「……さっきまでの初々しさどこ行ったんだよ」
「あははっ。タガが外れちゃったかも。だって、もう全部伝えちゃったんだもん。それに陽翔くん、顔真っ赤だし。わたしの方が余裕あるんじゃない?」
「……否定はしねえけど」
一つ想いを打ち明けただけで、こんなに楽な表情が出来るようになるのか。
単純だな。失うものが無いからって、仕掛けが早過ぎるんだよ。フェイントらしいものは無いのか。
「ねっ。これが陽翔くんの駄目なところ。わたしが良いって言ってるんだから、素直に奪っちゃえばいいのに。変にカッコつけてる。自分が傷付きたくない癖に、わたしのこと傷付けるのが嫌だって、考えてる。そーいうの、すっごくダサいよ」
「……やったらやったで恥ずかしがる癖によ」
「してもいないのに、想像でモノを語るのはもっとダサいと思います」
「好き放題言ってくれるな」
「んー? だって、本当のことだし」
彼女にして珍しく、本気で意地悪気にニヤニヤと笑っている。
図星も良いところだった。
結局、引っ掛かっているのは明日以降。
そして、これからのこと。
情けなくなるほどに、弱腰な自分。
明日、学校で彼女とどんな顔をして話せばいいのか。フットサル部で皆と、どんな気持ちで接すれば良いのか。何一つ想像が付かないでいる。
このままの、曖昧な関係を望んでいる。
自分から、もう辞めようと言った癖に。
流されているだけだ。この不思議な魔力に。
やはり言葉なんて、ちっとも信用に値しない。
途端に恥ずかしくなって、現実からも。
彼女の真っ直ぐな瞳からさえも。
目を背けたくなる。
これを乗り越えなければいけないのか。
想定よりも、だいぶシンドイな。
「ちょっとだけ、お馬鹿になれば良いんだよ」
「…………見え見えの罠に引っ掛かれってか?」
「偶には良いんじゃない? だいたい陽翔くん、普段からみんなにセクハラしてばっかりなんだし。キスの一つくらい、今更な気がするけど」
「瑞希みたいにスカート捲ったりしてねえだろ」
「知ってる? 最近は女の子に向かって軽率に「可愛い」って言うだけでセクハラになっちゃうんだよ」
「んな生き辛い世の中は俺が変えてやるわ」
「だめ。むり。変わんないから。責任取って?」
実際のところ、気付いていた。
お説教染みた演説も、彼女が初めて見せる本気のエゴイズムの一片に過ぎないこと。それらしい台詞を並べておいて、本当は俺をハメる気満々だと。
演出家気取りだが、役者には向いていない。
どれだけ変わっても。
比奈、お前は比奈のままだ。
けれど、不思議と心地良い。
今のお前相手なら、許される気がした。
どうなるのか、様子を見てみよう。
死にたいくらい悩み散らかすのは。
すべて終わった、その後でも良いか。
「……んふふっ。ファーストキス、貰っちゃった」
「さっきのは違うのか?」
「陽翔くんから貰った、初めてのキスだよ」
撤回しよう。一緒になんて言ったけど。
俺はまだ、用意が出来ていなかったみたいだ。
だから、少しだけ。
手を引っ張ってくれないか。比奈。
「もう一回、デートしよっか」
「悪くない提案や」
「今度は制服のままで居てあげるね」
「それがええ」
二人だけの夜が、今度こそ始まった。
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