308. 分からせて、あげるから


 重なった口元が離れるまで、ほんの10秒も掛からなかった。こんなとき、体内時計ほど当てにならないモノが無いということを、今しがた突き付けられる。


 ゆっくりと顔を離してからも、ジッと俺の目を見つめ続けている比奈。熱に当てられたように、その瞳はどこかボンヤリとしていて、現実味が薄い。



 どんな味が、ゆっくり吟味しろとでも言うのか。

 少なくとも、レモンではない。たぶん。


 そんなどうでもいいことを考えていないと。

 先に気がおかしくなるのは、目に見えていた。

 


「あーあ。やっちゃった」



 沈黙を打ち破った言葉は、存外にもため息交じりの冴えないフレーズであった。後悔とも、諦めとも言い切れない微妙な線引きに、どう返して良いものか一向に躊躇われる。



「ベタだよ。ベタ過ぎるこんなの。観覧車の頂上で告白と、ファーストキスなんて。小学生でももっとマシなシチュエーション考えると思うよ? 違う?」

「…………なら、ノーカンにするか?」

「……しないけど」


 発言へ信憑性を持たせるが如く、既に密着状態と言っても過言でないにも拘らず、グッと身体を押し寄せて来る。


 胸元に手を添え涙交じりの表情を隠すそれは、宛ら親に甘える小さな子どものようだ。どちらかと言えば、母猫に寄り添う子猫のようにも見えなくも無いが。


 そういう例えしか出来ないのだ。

 他にどんな違いが、表現があるか。

 これから教えて貰うつもりだった。



「…………わたしだって、同じだよ。フットサル部のみんなと過ごす時間が大好きだし……いつまでもああやって、みんなで大騒ぎしながら、楽しく過ごしていたい。でも、ねっ」


 今度は唇に触れるだけの、曖昧なキス。間髪入れずの二度目でも、慣れないものは慣れない。目を瞑る暇さえ無かった。



「……やっぱり、我慢できない。こんな日に、こんなところで伝えるつもり無かったのに。陽翔くんのせいだよ。自覚が無いの、ほんとーにズルい。外堀埋めてるの、陽翔くんの方だからね」

「…………それは、ごめん」

「ちゃんと反省して」


 あざとい態度、可愛らしい声で怒られても、というのはある。お前がそんな調子だから、俺だっていつまで経っても自覚出来ないままなのだ。



「友達のままで良かった。フットサル部の仲間っていう、それだけで良かった。ちょっとだけ気になるクラスメイト……それだけで幸せだったのに」

「…………これも我が儘のうちの一つか?」

「そうかもね。でも、これが我が儘になっちゃうなら、もうどうすればいいか分かんない。好きな人に好きだって言うのは、そんなに変なこと?」

「…………いや。全然」

「全部、陽翔くんのせいだよ」


 あまつさえ、自分のせいでは無いと宣う。

 本気でそう思っているのが、また。


 高鳴りが収まらない。

 こんな彼女を、俺は知らない。



「いつ好きになったかなんて、分かんないよ。でも合宿のときにはもう、そうなのかなって、思ってた。出来るだけバレないように頑張ってたけど……まぁ、陽翔くんには分かんないよね」

「…………ご想像の通りで」

「それが良くないことだって、分かってた。わたしだけじゃないってとっくに気付いてたし、何より…………琴音ちゃんに悪いから」

「なんでアイツが出て来んねん」

「本気で言ってたら流石に怒るよ」

「…………まぁ、な」


 取りあえず、言葉だけの肯定には留めておいた。


 正直なところ、まだ判断に迷っていた。

 この期に及んで、という批判も致し方ないが。


 比奈が俺のことを想ってくれている気持ちと、琴音を筆頭に他の連中が寄せてくれる信頼は、果たして同一のモノなのか。


 何せ、根本的な部分が欠けているのだ。そういう意味で、比奈は俺たちの少し先を行っている。



「初恋は叶わないものでしょ? 分かってるもん。陽翔くん、基本的にわたしのことあんまり気に掛けてくれないし。だったら、親友の恋路を応援する方がずっと気楽だって。そう思ってた」

「……過去形なんだな」

「文化祭のアレを見ちゃってから、ねっ……」


 意図せずとも琴音と抱き合っていた場面を目撃された、あのことを言っているのだろう。

 当時こそ全力で茶化しているように見えたけど、あれはあれで、比奈なりに真意を隠していたということか。



「負けたくないって。琴音ちゃんだけには渡したくないって、本気で思ったんだ。自分でもビックリしてる。こんなにドロドロした感情が自分のなかに有ったんだって。でも、ちょっとだけスッキリしたの。もう嘘吐かなくても良いんだって。わたしみたいな駄目子でも……本気になって良いんだって」


「本当はもっと、時間を掛けるつもりだったよ。今日はちょっと、露骨過ぎたかなって思うけど……それくらいしないと、陽翔くん気付いてくれないから。流石にこの格好で街中を歩くの、恥ずかしいんだよ。それでもっ、陽翔くんがちょっとでも、わたしのことだけ考えてくれたらって……」


「……そしたら、あーゆーこと言うし。わたしの努力、全部ダメにしちゃうし。ホントに酷い。酷すぎる。頑張る気無くなっちゃうよ。わたしもう、溺れちゃいそう……っ」


 声は震え、胸元を抑える手は一層強みを増す。


 そんなことを言うのであれば、俺はこの放課後の間、お前という濁流に呑み込まれたままだ。


 お互い、知らず知らずのうちに不本意な巻き込まれ方をしていたというなら、悪くない流れかもしれないけど。



「はぁーっ…………ほんっと、分かんないなぁ。なんでこんなに好きなのに、こんなに辛い気持ちになっちゃうんだろう…………近付けば近付くほど離れていくんだね。陽翔くんって」

「……まだ歩み寄ってる範疇やと思うけどな」

「魔性の男と呼んであげましょう」

「そっくりそのままお前に返すわ」

「わたしが? 馬鹿言わないでっ……キスの一つでこんなに必死になってる魔女が、どこにいるの? 陽翔くん、さっきから全然顔色変わんない。ホントに男の子なの? それとも経験済み?」

「実感が沸かねえだけ」

「なら、いよいよ末期だね。治療が必要かも」

「治療してくれんだろ」

「そのつもりだけど」


 軽口が飛び合い、ほんの少しだけいつもの二人が戻ってきたように思える。それがあくまで現実逃避でしかないと、今更言及される必要も無いけれど。



 答えなければならない。俺も。

 少なくとも、彼女はもう止まらないのだから。


 結局、前と似たようなことを伝えてしまうのは。もうどうしようもないことだった。それから先は、ひたすらに彼女の協力を持って求める他ない。



「…………ちょっと話逸れるけど、ええか」

「うん。いいよ」

「……こないださ。真琴の件で、愛莉の家に行ったんだよ。それで、思ったんだよ……上手く言えねえけど。すっげえ、家族なんだなって」

「……家族? 姉妹なら、そうじゃないの?」

「いや…………違うんだよ。俺が想像していたより、ちゃんと家族だったっつうか…………一緒に居ったら、すげえ快適で、心地良くて……ああいうのが、俺の理想なんやなって。そう思った」


 要領を得ない言葉も、比奈は聞いてくれている。

 


 つまるところ、俺がフットサル部やその仲間に求めているのは、そういう関係なのだ。ずっと自分のなかに欠けていたモノを、滞りなく埋めてくれる。そんな存在。


 比奈が俺へ求めているモノや関係がどんなものか、俺はまだ言葉でしか理解出来ていないのだ。


 この胸の高鳴りをなんと定義すれば良いか。

 簡単な問題のようで、ずっと引っ掛かっている。



 恋愛対象として見れないとか。

 そんな軟な話じゃない。


 俺は愛とか恋とか。

 そういう概念を信じられない。



 いま、俺が比奈やみんなへ抱いている感情が、文字通り恋というものだったとしても。それが愛へ成り果て、家族に成り得るとは思えない。


 だったら、俺が16年間見て来たモノって。


 いったい、なんなんだ。

 本当に、あれは家族なのか?



「…………基礎の基礎、ってことだね」

「……比奈?」

「うん。分かった。陽翔くんが悩んでる理由。全部が全部ってわけじゃないと思うけど…………でも、なんとなく答えは知ってると思う」


 慈しみに溢れた、優しい笑み。

 いつの間にか、立ち位置は変わっていた。



「そもそもの前提が違うんだね。わたしにとっての当たり前は、陽翔くんにとって当たり前じゃないんだと思う。そうだよね……足し算が分からないのに、掛け算の仕方なんて分からないよね」

「……それくらい簡単なら、ええけどな」

「ううん。すっごく難しい。わたしだって、陽翔くんよりずっと恵まれていたのに、最近やっと気付けたの。もっと、もっと時間が必要だよ」



 だから、ね。


 そう呟いて、彼女は再び唇を重ねた。 



「……わたしが、教えてあげる。ううん、一緒に知りたい。陽翔くんと、一緒に。そしたら、きっと分かるから。分からせて、あげるから。それがわたしの我が儘。だから、今日だけ。今日だけで良いの」



 今までと違う、深くまで入り込んだ情熱的なキス。溢れ出る唾液が口内で重なり、やがて交わる。


 うっすらと引かれた糸の先で、彼女は笑った。




「今日だけは、わたしをシンデレラにして。陽翔くんが王子様。一晩だけの恋人」


「もちろんガラスの靴は脱がないし、置き忘れるつもりも無いけどね」


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