291. それでいいんだよね


 日付が変わってから数分も経たないうちに、真琴は自室のベッドの上で目を覚ました。なにも高く設定し過ぎた暖房に寝苦しさを覚えたわけではない。


 正確には、彼女は眠りに就いてなどいなかった。

 ただ今日のことを思い返して、枕に顔を埋め。

 忘れようとしては心も身体も火照り切って。


 後悔があったわけではないが、あまりにも甘えるのが早すぎたという自覚があった。公園での出来事にしても、彼を肩を並べて有希の美味しくはない手料理を食べていたときも。


 さも当たり前のように彼の存在を受け入れ、それを証明するかのようになんの遠慮も無く馬鹿みたいに笑っていた自分が恥ずかしくて仕方が無かったのだ。



「……お帰り母さん」

「あら。真琴まで珍しいわね」


 普段のクールな装いからは似ても似つかない青色の可愛らしい寝間着を纏った真琴は、同じく寝る準備をしていた母親の待つリビングに顔を出す。



 顔を合わせるのも久々だな。

 真琴は口に出すまでもなくそんなことを考える。


 終電ギリギリで帰宅することが珍しくない母親と会うためには、こうして夜遅くまで起きている以外に方法が無い。自分たちが学校へ向かうとき、その人はまだ眠りに就いている。



 長瀬家最大の働き手である彼女たちの母親は、幾つかの派遣の仕事を掛け持ちし毎日のように働きに出ている。一週間、全く休みが無いというのも珍しくはない。


 元々は一般企業で正社員として働いていたが、離婚と体調不良を理由に一度職を手放していると、真琴も幼いながらになんとなく話を聞いていた。


 決して丈夫とはいえない身体で無茶をしていることも分かってはいたが、それをわざわざ口にするほど真琴も我が儘な性分ではない。



「こないだのこと、ごめんなさいね。本当は私が着いて行かなきゃいけない……というか、それが当然なんだけど……どうしても抜けられなくて」

「その話は何回も聞いた。もう解決したし、気にしないで」

「……あら、そうなの?」

「仲直り……って言えるかは分かんないけど」


 喧嘩沙汰にまで発展してしまった彼との関係は、既に滞りない状態にまで戻っている。セレクションが終わった後、もう一度しっかり謝罪を受けた真琴もそれを受け入れ、二人は完全に和解していた。


 勿論、これまで受けて来た扱いも含め、すべてを許せるわけではない。だがいつまでも引き摺っていても仕方ないし、彼らの抱えてきた事情も理解できた手前、わざわざ蒸し返す必要も無い。


 それに、彼が教えてくれたこともある。

 ちゃんと周りを見れば、味方は意外と多い。

 実は敵なんて、本当は存在しないこと。



「……あの。せっかくだから、報告なんだけど」

「うん。なあに?」

「…………高校、決めた。自分も山嵜に行く。入試で上位に入れば、お金も掛からないらしいから。その辺は心配しないで」

「ええ……それは良いけど、山嵜以外ならどこでもって前に言ってたじゃない」

「気が変わった。部活も、姉さんと一緒が良い」

「フットサル部? どうしちゃったの、急に」

「ちょっと、目的が出来たっていうか」

「…………そう。なら、止める理由も無いわね。応援するわ」


 慈しむような温かい瞳を前に、真琴は癖で頬をボリボリとこっ恥ずかしそうに引っ掻く。なんとも不明瞭な理由にも拘らず、それを追求することも無い無条件の愛情に、その場に立つのもやっとだった。



(目的っていうか、まぁ、目標なんだけど)

 

 既に自室へ戻ってしまった姉のことではない。


 自分と姉では、元々のモノがあまりに違う。目標なんてちんけな概念は、とうに捨て去ってしまった。



(こうも簡単に絆されるもんかなぁ……っ)


 自身の小さなプライドも、あの人の前では通用しない。それ故、つい反抗しようとしてしまう。けれど、そんな自分も存外嫌いになれなくて。


 

 結論から言えば、廣瀬陽翔は真琴のだった。


 理由を挙げればキリが無い。ただでさえ少なくなっていた家族の団欒は、愛莉の帰郷によって改善されるものとばかり思い込んでいた。だが、フットサル部入部という予想外の展開によってそれも叶わず。


 偶に顔を合わせれば、良く知りもしない男の話を延々と続ける姉の姿に若干呆れていたというか、なんなら苛々していたほどであった。


 ただでさえ中学で一番の友人である有希から、家庭教師に来ているという男との惚気話を散々聞かせられているというのに。まさかそれが同一人物だったとは彼女も思わなかったが。


 そして、ついに顔を合わせてみれば。



(……ズルいんだよなぁ。あんなの)


 顔は悪くない。むしろ良い方。

 身に纏う雰囲気も、中々に男前で。

 姉が心酔する理由も良く分かった。


 ただそれ以上に気に食わなかったのは、陽翔という人間が真琴にとって、自身の理想とする「男像」にピッタリ合致していたからに他ならない。



 外向きではクールで落ち着いた人間として知られる愛莉の背中を見て育って来た真琴は、幼い頃からどうにも「カッコいい」という概念に囚われている節がある。


 元々大人しい性格であったことや、男に間違えられることも少なくない端正な顔つきも拍車を掛け。


 特に小学校高学年くらいから「物静かで落ち着いているが、言いたいことはハッキリ言う」三枚目的な人間にずっと憧れていたのだ。


 その甲斐あって、周囲の彼女への評価は「クールでカッコいい大人びた子」で相場は固まっている。弊害として、何故か男より女にモテるという良く分からない事態も発生しているが。



(上位互換なんだよね。認めたくないけど)


 自身はそれをどうにか取り繕っているというのに、あの男と来たら自然体であんな風に生きているのだから、反発するのも当然の流れだった。


 自分が必死で手に入れようとしたものを、あの男はとっくの昔から持っている。ズルい。とにかくズルい。あれじゃ、自分が自分でいる意味が無くなってしまう。



 本当の自分がどんな人間か、真琴は知っている。


 落ち着いているのではない。根暗なだけ。

 カッコいいのではない。女らしくないだけ。

 意志が固いのではない。空気が読めないだけ。


 同性から見てもあまりに魅力的な姉の存在も、相反する感情を整理し切れないでいる理由の一つでもあった。

 あれだけ頼りになる姉がいたら、甘えたくなるのも自然なことだと真琴も半ば諦めてはいたが。


 ここ数ヶ月、真琴はずっと宙ぶらりんでいた。理想とする姿を追い求めたいのか。もっと姉に、家族に甘えていたいのか。どちらが正解か分からず、その両方とも手放し掛けていた。



(……でも、それでいいんだよね。兄さん)


 正直に言えば、公園での会話で真琴は安心してしまった。あんな人でさえ、家族のぬくもりを求めている。



 まさか兄役を志願されるとは思ってもみなかったし、妹より弟の方が良いと言い出した自分にはもっと驚いていたけれど。心のなかで、ストンと落ちるものがあったのは確かで。


 ギリギリのところであの人も生きているんだな。そんな風に思えただけで、真琴の抱えていた疑念や不安焦燥、憎しみはすっかり消え去ってしまった。



 我ながら単純な人間だな。彼女も思っている。

 だが、それで構わない。


 恥ずかしがって部屋に戻ってしまったのが、今更ながら惜しく感じて来ている。もう一回だけ面と向かって「兄さん」と呼んでみたかったな。なんて。


 そう考えている自分が居るのにも、もうなんとも思わなくなって来ていることに気付いた。こんな風に姉も絆されたのだと思うと、彼女も思うことが無いわけではないが。


 それはそれで、中々に心地良い。



「なんだか、人が変わっちゃったみたい」

「……そう?」

「ええ。すっごく綺麗な、良い目をしてるわ」

「ちょっと吹っ切れたところはあるかも」

「ねえねえ。目的って……もしかして、男の子?」

「――――へっ!? いっ、いや、違うって!」

「あら、冗談だったのに、そんなに慌てて」

「たっ、確かに男かもしれないけど、そういう対象じゃないっていうか、そんなこと言い出したら姉さんに申し訳ないっていうかっ、あの……っ!」

「まさかっ、姉妹で男を取り合ってるの!?」

「だから違うってッッ!!」


 思わず狼狽し一目散に階段を駆け上がり、自室へと飛び込む真琴。冗談なのに~と母の気の抜けた声も彼女には届かず、そのまま布団へと潜り込んでしまった。


 普段はしっかり者なのに、意外とノリが良くて意地悪な母親である。

 いつもなら真琴も澄まし顔で「からかわないで」とアッサリ退ける筈なのに、今回ばかりは状況が悪かった。



「…………え、なに? どしたの?」

「あれ? 姉さん? なんで?」

「なんでって、私の部屋なんだけど」


 不思議そうに真琴を見つめる愛莉の姿があった。どうやら慌て過ぎて、部屋を一つ間違えてしまったらしい。



「なんか騒いでたけど、どうしたの?」

「あ、いや、そのっ……ちょっとね……」

「ふーん。まぁいいけど」


 薄手のパジャマに身を包んだ愛莉と密着する形となる。押し当てられる胸元の膨らみには、あまりに大きな差が。



「ホント神様って気紛れだと思うんだ……」

「なによ急に、胸なんて運動の邪魔なだけだっていっつも言ってるじゃない。ていうか、鷲掴みにするのやめて」

「あ、ごめん……っ」


 これだけ女性らしさに溢れた姉を前にしては、あの人が気を惹かれるのも仕方のないことだろう。と真琴も納得せざるを得ないのだが。母親に投げ掛けられた言葉が、脳裏を駆け巡る。



(い、いやいやっ……そうじゃないって……)


 確かに見た目は悪くない。性格も……良いとは言えないのかもしれないが、芯の通った人間だとは真琴も思っている。そうでなければ、こんな関係になどなるわけが。


 しかし、様々な「そうじゃない理由」を思い返そうとすればするほど、真琴の脳内には余計な情報が次々と襲ってきて、考えを纏めるにもひと苦労。


 だいたい、自分を男だとずっと勘違いしてきたのに。服を脱ぎ捨てて初めて気付くような鈍い奴。いや、そもそもあの状況を生み出した原因は……。



(そう、だよね……男の人に見られ……っ!)

「…………部屋戻らないの?」

「ふぇっ!? あ、ごっ、ごめんっ!」

「まぁ、一緒に寝るくらい別に構わないけどさ」

「あっ…………じ、じゃあ、このままでいい?」

「急にどうしたのよホント……」


 一人になったらまた余計なことを考えてしまいそうで、何ならこのままの方が落ち着いて眠れそうな気もしていた。薄手のブランケットに包まり、愛莉に身体を寄せる真琴。



「…………あのさ、姉さん」

「うん? なに?」

「やっぱり女らしさって、必要なのかな」

「なによホント、頭でも打ったの? アンタはそのままでも可愛いから安心しなさいって。それともハルトが気になって眠れないとか? だったら一回病院でも行った方が……」

「にっ、兄さんは関係無いからっ!」

「はいはい、なら大人しく寝……………………」


 不意に漏れた聞き慣れない呼び名に、愛莉の思考は一瞬ばかり停止する。


 すっかり恥ずかしがって背を向けた真琴の身体を、愛莉は一心不乱に揺すり動かす。



「ねえちょっと! 兄さんってなに!?」

「……知らない……っ」

「ねえっ!? どういうこと!? さっき二人で出掛けたときなにかあったのっ!? ねえねえ!? 教えなさいってばッ!」

「うるさいなぁ……早く寝ようよ……っ!」

「おーしーえーなーさーいーーっっ!!」

「絶対にムリっっ!!」

 

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