290. また来ても、いいから
長瀬家へ戻ると何処をほっつき歩いていたのかと愛莉のお小言も少なめに、有希の作り上げた野菜炒めがテーブルに並んだ。
どこもかしこもシナシナでお世辞にも美味しいとは言えない出来栄えだったが、当人曰く「胃に入った時点で大きな一歩なんです!」とのことであった。自分で言うなそんなこと。
愛莉の協力あってこの段階だというのだから、自宅で作っているものの一片も想像したくはない。彼女がやけに素早く玄関へ駆け寄ってきたのは、俺たちの帰りを待っていたからに他ならないことを湧き出る大量の冷や汗によって窺い知る。
「も、もうむりっ……!」
「右に同じく……」
「うーん、やっぱりちょっと多かったかも……?」
((そういうことではなくッッ!!))
ガックリと項垂れる真琴の横で、片手に水の入ったコップを抱えながら息を荒げる。大した量でもないのにこの疲労困憊ぶり。
適当に「やっぱりお腹いっぱい」で片付ければ良いものを、しっかり皿を空っぽにしてしまったのにも理由がある。
揃ってお人好しなのかどうかは分からないが、不安そうにこちらを見つめて来る有希を目の前にしてしまっては、偽善者の方がよっぽどマシだった。それだけのことだ。
「もういい時間ね。有希ちゃん、大丈夫?」
「ママが近くまで迎えに来てくれるそうですっ。でもっ、お片付けだけさせてくださいっ。いっぱい汚しちゃったんで……」
「あ゛、いや、それはもういいわっ。気にしないで……」
「え、でも!」
「とにかく、大丈夫っ! ねっ!」
渾身のノーによってキッチンへの再侵入は妨げられることとなる。
そりゃそうだ。準備の段階であれだけメチャクチャにしているのだから。洗濯用洗剤で皿を洗おうとしたって俺は驚かん。
そう待ち草臥れることもなく、有希の母がすぐ近くまで到着し彼女は長瀬家を先に出て行った。真琴の慰め役として十分な責務を果たした筈なのだが、この違和感はいったい。
真琴の「また遊びに来てね」に対する「愛莉さんに料理教えて貰いに来るね!」が相当尾を引いている。引き攣った表情があまりに無様で笑うに笑えなかった。
「……で、ハルトは?」
「ん。俺もそろそろ」
「送ってあげよっか」
「必要無いと言いたいところだが、道忘れた」
「夏休みの二の舞はちょっとね」
「まぁな」
なんならこのまま定住したって構わない程度には居心地の良い環境だったが、独り身の俺とは違い、女の子二人の家に泊まるのも流石に気が引けた。
加えて、愛莉の話によればそろそろ母親も帰って来るらしいし。勿論、俺が家へ来ていることなど知らないだろうに、この状況を目撃されるのも困る。双方が。
「あれ、真琴どこ行った」
「寝たんじゃない? 寝るのメチャクチャ早いし」
「スポーツマンの鏡やなホンマ……」
「大人ぶってるけど、夜更かしとか絶対にしないし、ていうか出来ないし。まだまだ子どもよ」
「高校生の俺らが言ってもな」
「二つも違えばそんな風にも思うわよ」
やたらピンキーなスニーカーを拵えドアを開ける愛莉の後を追う。真琴と出掛けたときよりも冷たい風が頬を横切り、思わず身体を震わせた。
本音を言えば、真琴にも着いて来て欲しいところだったけれど。それはもう俺の我が儘でしか無いし、別に今となっちゃ余計なお喋りも不要ではある。
ただ、もう一回「兄さん」が聞きたかった。
柄でもなく浮かれているのはどっちなんだか。
「……またハルトに助けられちゃったな」
「また?」
「あっ……ううん。何でもない、こっちの話……」
道中、愛莉がそんなことを呟く。
聞こえてないフリも出来ない。
あまりにも近い肩の距離。
姉妹揃って、勘違いし過ぎだ。本当に俺は、何もしていないのだから。今回の件は、真琴が自分なりにどうすればいいか考えて、行動して、その結果こうなった。ただそれだけ。
かといって、彼女らの言い分に文句があるわけでもない。俺は俺なりに、やりたいことを彼女の傍でやっただけだ。そんなものにまで感謝されては、もうどうしようも出来ないけど。
「……ありがとね、真琴のこと。セレクションのこともそうだけど……真琴があんなに楽しそうに笑ってるの、久しぶりに見た」
「なら有希に感謝しろよ。俺はなんもしとらん」
「勿論それもそうなんだけど……でも、有希ちゃんのご飯食べてるとき、すっごい仲良さそうにしてたからビックリした。初めて会ったときあんなにギスギスしてたのに」
「色々あったんだよ、色々」
「…………セクハラまでしたくせにっ」
「その件に関してはごめんとしか言えん」
「別にいいけど。あの子が嫌じゃないならねっ」
ちょっとばかし不機嫌さは滲ませつつも、伝えたい感情がそれだけでないことは十分分かっている。照れ隠しが下手くそなのはお互い一緒だ。
セクハラ云々なら、真琴よりもお前やフットサル部の連中によっぽどやってる気がするんだけど、まぁこれも余計な話か。そうやって話を誤魔化そうとするのも、出会った頃からちっとも変わりゃしない。
「……真琴もさ。周りに頼れる人があんまり居なくて、ずっと辛い思いして来たと思うから……ハルトに無理言いたくないけど、ちょっとだけ気に掛けてくれると、私も嬉しいっていうか」
風で靡いた栗色の長髪が鮮やかに揺れる。
憂いを孕んだ瞳が、仄かに下を向く。
なにも出来なかったと感じているのは、むしろ彼女の方なのかもしれない。あくまで家族の問題であった件をこうしてフットサル部に持ち込んでいるのだから、気持ちも分かる。
しかし、もうそんな段階でもない気がする。
アイツにも言ったけど、まぁ復習も兼ねて。
「気に掛けるもなんも、来年にゃアイツも同じユニフォーム着るんだからよ。どうせその辺におるん、余計な気遣いする必要もねえ」
「……うん」
「お前もな。姉だからって、必要以上に干渉すんの辞めてやれ。アイツはアイツで、自分なりにどうすれば良いのかちゃんと分かってる。だから、傍から離れないようにだけしてりゃええわ」
「それって、結果的に干渉しちゃうんじゃない?」
「手を差し伸べるのと見守るのは違うんだよ」
「…………そんなものかしら」
「そんなモンや」
確かに愛莉の存在は、真琴にとって大きなコンプレックスだったかもしれない。けれど、アイツは決めたのだ。愛莉を出し抜いて、値千金のゴールを。
そりゃあ、自分自身の頑張りも必要だけど。誰かに肩を預けることの重要性も気付いている。そうでなければ、俺がエセ兄弟の話を持ち出すにも至らなかっただろう。
こんなものは、ただのきっかけに過ぎない。
人の生き方に口を挟めるほど、出来ちゃいない。
ただ見守ることしか出来ないのだ。
というか、他に何も必要無い。
人間は弱い生き物だ。傍から眺めれば一人で立っているように見えても、実は沢山のモノに支えられている。
そこだけ分かっていれば、苦労はしないだろう。真琴に限らず、だけどな。
「ちゃんと見ててやれ。それがアイツには必要や」
「…………やっぱ、偶に良いこと言うよねハルト」
「アア? 普段はなんだってんだよ」
「性悪の皮肉マシーン」
「ブッ殺すぞ」
「言われたくないなら改善しろっつーの」
意地悪気に微笑み、下まぶたを引っ張る。性悪はどっちだ、妙に魅力的なんだよ。引っ込んでろ。
駅が見えて来た。徒歩5分も掛かっていない。少し先を歩く彼女の髪の毛を、派手な明かりが鬱陶しいほどに照らしている。目くらましには丁度良い。
すると、何を思ったか急に立ち止まる愛莉。
こちらに振り向きもせず、小さな声で呟く。
「真琴も良いんだけどさ…………私のことも、もうちょっと……っ」
「あ? なに? ちゃんと話せ聞こえねえよ」
「……うっ、うるさいっ! 早く帰ればっ!?」
「んだよ急に……」
褒めたり貶したり怒ったり忙しい奴だ。
言われた通りさっさと改札へ向かうのだが。
「…………なんだよ。帰れっつっただろ」
「……あのさっ…………また来ても、いいから」
「……え」
掴まれた右腕へ、燃えるような体温が伝わる。
奥に覗いた表情は、それと酷く比例していて。
「ごっ、ご飯っ! ご飯作るからっ! どうせ普段もロクなもの食べてないんでしょっ!? 仮にも運動部なんだから、栄養偏っても困るしっ……それにほらっ、真琴もたぶんっ、またアンタとも会いたいだろうしっ! そうっ、真琴に! 真琴に会いに来て上げてっ! いいでしょっ!」
赤面しながら次々とそれらしい理由を並べていく姿に、思わず呆気に取られていた。その次には、彼女の伝えたいことがだいたい分かってしまって、つい口元も緩む。
これだけ並べておいて、本当の想いはそっちのけなんだから。笑ってやらない方がおかしいだろ、こんなの。
「……近いうちにな。お前の飯、食べに行くよ」
「や、約束よっ!? 忘れたら、殺すから!」
「分かってるよ。会いに行く、お前にもな」
「あっ……………………うん……待ってる……っ」
どうやら顔は合わせてくれないらしい。
変わってないのはお前も同じか。嫌いじゃない。
「また学校でな」
「……うん。ばいばい」
手を離し改札を通り抜ける。ちょうどやって来た人混みに紛れ、彼女の姿はすぐに見えなくなってしまう。
すると最後に良いものが見れたなと感傷に浸るまでもなく、愛莉の声が構内に響いた。
「あれっ、お母さん?」
「あら愛莉。どうしたのこんなところで?」
「う、うん、ちょっと……」
「もしかして、迎えに来てくれたの?」
「あっ、えーっと……そう、そんな感じっ!」
「珍しいわね、ありがとう」
「べ、別に! ほらっ、帰りましょっ! 外寒いし!」
「もう、引っ張らないで。お母さん疲れてるのっ」
「いいからっ! 見られたら恥ずかしいしっ!」
「はいはいっ」
帰宅ラッシュに合わせ、彼女の母親と合流したらしい。姿は見えないが、強引に手を引いていく母娘の様子が容易に浮かぶようで。やっぱり姉妹だ、行動に出るな、こういうの。
騒がしさを残し駅を後にする母娘の声が雑踏に紛れていくのを感じながら、階段を上りホームへと向かう。草臥れたスーツ姿の男女とすれ違う自分が、酷くその場から浮いているように見える。
皆、家族の待つ家へ帰るのだろうか。
掛け替えのない、愛する人の元へ。
俺は何処へ帰るのだろう。
電気の付いていないあの部屋は、俺のなんなんだろう。
身体の隅々にまで生き渡っていた暖かさが、すっかり冷め切っていることに気付いた。こんなこと、考えたことも無かったのに。こんな感情、とっくに忘れたと思っていたのに。
「家族、か」
たぶん、まだ覚えている。
これは恐らく――――寂しさというヤツだ。
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