289. 秘密の関係


「姉さんから聞いているかもしれないですけど。自分は、父親の顔を知りません。ウチが他の家と比べて真っ当な形でないことくらい、小さい頃からずっと分かってます。でも、それを羨ましいとも思えません。父親が隣に居る生活を、自分は知らないんですから。どっちが幸せかなんて、分かりません」


「けど、偶に想像します。この家には、女しか居ませんから。父親にしろ兄にしろ、弟でもいい。男という存在がいたら、ウチはどんな家族になっていたんだろうって……」


「……形だけの家族なら必要無いんです。父親という前例がある以上、自分はきっと、受け入れられないと思います。だから…………自分が欲しいのは、家族じゃないんです。一緒に、家族になってくれる人じゃないとダメなんだって……っ」



 震える口元から、僅かに白い息が漏れ始めていた。少しずつ溢れた言葉たちは、自らの意思を。未来を。一つずつ再確認するように、両者の肩へ重く圧し掛かろうとしている。


 これほどまで赤裸々に彼女が語る理由を、なんとなく知っていた。俺が彼女たち家族を羨ましく思っているように。真琴も同じく、想像し得ない幸せをどうにか手繰り寄せたくて。


 けれど、叶わない。

 どうすれば良いのか、何も分からない。



 もしかしなくても傷の舐め合いだと、とっくに気付いていた。互いに欠けている部分を持ち合わせることで、それがピッタリ上手くハマるほど、世の中はそう簡単には出来ちゃいない。


 それでも、俺たちは縋りたいのだ。

 この寂しさを埋め尽くす方法を、他に知らない。



「……貴方の言った通りだと思います。自分が貴方に何を求めたところで、結局姉さんが自分から離れていくのは逆らえない運命です。そんなこと、分かってます」

「……分からねえよ、未来のことなんて」

「でも、ちょっと気になるんですっ…………自分で言うのもなんですけど、シスコンなんですよ。ホントに。それが、おかしいんです。正直、姉さんのことは……今はどうでもいいかも」


 気付けばすぐ近くにまで歩み寄って来て、ゆっくりと俺の右手の掌を掴み、細い指で絡め取る。あまりの脆さに、握り返すのも勇気がいるほど。


 目の前にすると、ひたすらに可愛いだけの後輩が居て、非常に困った。そう言えば、こんなに近くでお前の顔、見たこと無かったかもしれないな。



 少し切れ気味の目に、真っ白な素肌。

 スラリとした、あまりにも細いシルエット。


 野暮な男に近付いたところで、街灯の明かりは二人を重ね合わせようともしない。けれど、繋いだ右手が宛ら一つのモノを映し出しているみたいで。



 ドキドキしていた。


 なんという勘違いをしていたのだろう。

 コイツ、根っからの女だわ。



「姉さんは厳しいですけど、意見は絶対に汲み取ってくれますから。最終的には、自分が思うようにしてくれます。だから、あんな風に真っ向から否定されたのは、初めてでした。そりゃあ、ムカつきましたケド」

「……悪かったって」

「でも、ちょっと嬉しかったんです。自分のためにあれだけ必死になってくれる人が、姉さんと、母さん以外にも、この世にいたんだなって。それに、期待の裏返しだってことも、ちゃんと気付いてますから……少し時間が掛かりましたケド」


 ほんのりと赤く染まった頬が、僅かに綻ぶ。

 控えめに言って、直視するにも結構な労力で。



「セレクションのときもそうです。どうにかして結果を出したい、期待に応えたいって。勿論、チームのために頑張ったのは本当です。でもそれ以上に、自分を認めてくれた貴方のために頑張らなきゃって、そういう気持ちになりました」

「…………ん。そっか」

「だから、そのっ…………あー、なんだろう、なに言ってるのか分かんなくなってきた…………あ、その、と、とにかくですねっ。自分は全然、大丈夫っていうか。はいっ、その、受け入れ態勢が完了したというか…………えーっと……っ!」


 話の終着点を見失ってしまったのか、急にしどろもどろになって焦り出す真琴。先ほどまでの淡々とした口調も、普段のクールな装いもここでは通用しない。


 素直になり切れない、等身大の中学生がそこにいるだけ。こんな姿さえもアイツによく似ているから、笑わずにはいられなかった。



「な、なんですかっ……!」

「いやっ、悪い。なんか、新鮮やなって」

「茶化さないでください。必死なんですからっ」

「なぁ、真琴。なら一つ、良い提案があるよ」

「……はいっ?」


 掴んでいた右手をそのまま頭へと移し、優しく撫でる。耳を覆い隠す髪の毛をそっと掬い上げると、彼女はこそばゆそうな表情で更に頬を紅潮させた。



「やっ、辞めてくださいよぅ……っ!」

「ええやろ、別に。兄妹のスキンシップや」

「…………へ? きょう、だい……っ?」


 ハッとした様子で顔を上げる真琴。


 丁度良い落とし処だと思う。

 今の俺たちには、この関係性が一番しっくり来る。



「本物の兄妹じゃなくてもよ。そうだな……まぁ、親戚の兄ちゃんとか、そんなところから始めりゃええわ。そういうのも居らへんのやろ」

「……そ、それは、はいっ……」

「今から俺がお前の兄貴や。で、お前が妹。言っとくけど、愛莉は関係ねえからな。俺とお前の間だけで通用する秘密の関係ってとこで、どうだ?」

「…………兄……お兄さん……ですかっ……」

「異性の兄妹がおらん。これはつまり、お互いにとってある意味チャレンジや。分かんねえなら、形から入るしかねえだろ? 遊びのつもりもええ」


 少し動揺しているようにも伺える。

 だが、それほど悪い顔はしていない。


 もっとも、こんな言葉がなんの意味も、効力も持たないことを俺は良く知っている。それは彼女も同様だろう。

 有り体な言葉や、取って付けたような関係性がこの世界で何一つ役に立たないことを、俺たちは分かっている。


 曖昧で、おぼろげで、目に見えない。

 そんなものに囚われている時間こそ本当の無駄だと。



 ところが、この世界はそう単純でもない。

 意味が無いと知って尚、人々は軽薄に口を開く。


 明日も生きていられる保証なんてどこにも無いのに、平気で明日、明後日、来週、来月。終いには来年の予定まで立ててしまう。また会おう。次は何処へ行こう。ここで待ち合わせようと。


 それどころか、自分勝手な想像を頼りに「好きだ」とか「愛してる」だとか、なんの臆面もなく言い放つのだから、救いようがない。



 けれど、そんな言葉が案外、心地良くて。

 ついつい頼ってしまいたくなる。


 だからこれは、俺なりの保険で、予防線みたいなものだ。俺一人が欲しがっていても意味が無いけれれど。同じくらい、見せ掛けの甘い概念を欲している奴が、目の前にいるものだから。


 それに、意外と悪くない気もするんだよ。


 お前みたいな可愛い奴が兄妹なら。

 たぶん、ただただ嬉しいだけなんだ。



「……いつか本物の兄妹になる日が来るかもしれねえし、そうじゃないかもしれない。気付いたら、また他人に元通りってこともあるかもな。取りあえず今は、そういうことにしておこうぜ」

「…………サラッと凄いこと言いましたね」

「可能性としての話や。他意はねえ」

「……じゃあ、条件があります」

「条件?」

「妹扱いは、嫌です。自分、ずっと周りが男ばっかりの環境で生きて来ましたから。姉さんにしてもちょっとガサツなところあるし、ホント、有希だけが特別なんですよ。それに、あの子と一緒に居たら自然とリードする立場になっちゃいますし……」


 もう癖になっているのか、空いた手で頬をポリポリと申し訳なさそうに引っ掻きそっぽを向く真琴。


 だいたい分かって来た。

 この癖が出るのは、本心を喋っているときだ。



「その、男扱いとまでは行かないまでも、弟っぽく思って貰った方が、有難いっていうか……」

「別にええけど……いやでも、限度はあるぞ」

「流石にっ、さっきのみたいなスキンシップは無しですからッ! その辺の境界だけは超えないようにお願いしますっ! いいですかっ!?」

「え、あ、はい。そりゃもう」


 こんな女々しい態度で啖呵を切られては、どっちが本望なのか。いくら当人が望んだこととはいえ、実情が異なるケースなんて幾らでもあるわけで。



「絶対にお兄ちゃんとか、呼びませんから! せいぜい兄さんで我慢しといてください! まだっ、まだ本物じゃ無いですからっ! そこが最低限の線引きです、分かりましたかっ、兄さんっ!」

「…………分かった。じゃ、俺は真琴でええな」

「おっ、お好きにどうぞっ! あ、そう! 兄さんなら、敬語もいらないですよねっ! ていうか、駄目って言っても聞かないので! 兄さんが言い出したことだからねっ!」

「お、おぉ……急にグイグイ来るなお前……っ」


 意図するところ全てまでは分からないが、真琴のなかでも何かしらの合致が起こり現状に適応したと。そういうことにしておこう。


 いちいち問い詰めるのも野暮なモンだ。

 こんな楽しそうな顔しやがって。笑えるわ。



「寒いしそろそろ戻ろっ! ほらっ、行くよっ!」

「おっ、おい、引っ張んなって」

「兄さんが遅いのがいけないんだよっ! ほら!」

「……はいはい。慌てて転ぶなよ」


 童心に帰った、というほどでもないだろう。そういう表情も俺は知っている。初めてお前と会った日、愛莉をそんな顔して引っ張っていたっけな。


 いや、分からねえけどな。何度も言うように、お前が求めているものを俺が全て返せるわけじゃないし、逆もまた然り。こんな歪な関係は、きっとそう長くは続かない。



 けれど、構いやしない。

 例え埋め合わせでしかなくても。


 少なくとも、目の前の彼女が笑顔でいるなら。

 それはそれで、俺も満足だ。よっぽど。



 ちょっとだけ背伸びしてみるからさ。

 目線は合わせなくていい。

 着いて来なくていい。


 ただ、そこに居てくれ。

 この暖かい気持ちが伝う、出来るだけ近いところに。


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