288. 想像できる範囲の幸せ


 大皿のスパゲッティは見る見るうちに底を尽き、もう少し何か作ると愛莉が席を立つと、突然有希が「私もお手伝いします!」と言い出した。


 夏休みの大会で料理下手が露見して以来、有希ママ指導のもと特訓を開始したらしい。残る二分目をちょうど埋めるくらいの絶妙な一品を作り上げると意気込んでいたのだが。



「ちょっ、有希ちゃんその包丁の握り方はヤバいって!? 完全に刺しに行ってるからッ! 悲しみの向こう側に辿り着こうとしてないッ!?」

「えっ? でも、こうしないと食材運べな……」

「手掴みで大丈夫だからっ! わざわざ一口サイズに切ってから先っぽに刺す必要全然無いからっ!」

「そ、そうなんですねっ。えーっと、油あぶら……」

「ストップ、それ木工ボンドッ! どこから持って来たのっ!?」

「はわわっ!? あっ、洗い流さないとっ!」

「待って待って待ってッ!? もう野菜入ってるからっ! 洗剤入れないでッ! 食材ごと洗ってるからそれっ!!」



 酷い有様であった。


 恐らく野菜炒めのようなものを作ろうとしているのだろうが、少し愛莉が目を離した隙に、キッチンが散々なことになっている。砂糖と塩を間違えるとかそんな段階ではない。


 野菜を切るたびに両手で包丁を掴み、全力投球で分断していた段階でだいぶ怪しいとは思っていたのだが、もはやわざとというか、ウケ狙いなのではないかと思うほど信じ難いミスを連発していた。


 普段から割とそそっかしい性格だとは思っているが、ここまで来ると苦手というよりか呪われているレベルとしか言いようがない。むしろ有希ママはこの暴れ馬をどうやって制御しているのか。



「夏に有希と海に行ったんですけど」

「うん」

「重箱いっぱいに麻婆豆腐入れて来て」

「ホンマにそれしか作れないんか……」


 逆に何故それだけ。


 俺と同じ被害に遭っていたことが発覚し謎の共感を覚えたところで、真琴は一つ息を吐いて席を立ち、リビングから離れようとする。



「少し外で風に当たりませんか」

「ん。ええけど、アイツらどうするん」

「時間掛かりそうですし、大丈夫ですよ」

「まずフライパンを完全消毒しねえとな……」


 ギャーギャー叫びながらどんちゃん騒ぎを繰り広げている愛莉と有希を後目に、俺と真琴はこっそり家から出ていく。肌寒さも覚えるが、気にしなければどうということは無い。



 特に目指していたわけでもなかったが、自然と二人の足は例の公園へと向かって行った。その間、これといった会話も無く、ひらすらに沈黙が続いている。


 少し先を歩く真琴の後ろ姿は、過ごしやすい部屋着と簡素なパーカーに身を包んでしまえば、もはや女性であることを疑う必要にすら駆られない。猫背気味の俺よりよっぽど姿勢も良くて。



 有希に聞けば、学校でもサッカー部のジャージを着ていて制服姿をまったく見掛けないらしい。着飾らないと言えばそれらしいが、洒落っ気が無いのもまたなんとも。


 愛莉みたいに私服が気持ちボーイッシュだったり、たまに全力で可愛らしい格好をして来たり、或いはハッキリとした胸元の主張が窺えればまだ釈明の余地もあったのだが。


 改めて眺めていると、見た目は大して似ていないような気がして来た。背丈はともかく、髪色も、身体つきも。同じ性別であることを認識した今でこそ、尚更そう思う。



「ボールでも蹴るか」

「今日はもう良いです。お風呂入った後ですし」

「言うてゆっくりも出来んかったろ」

「それは貴方のせいですケドね」

「あ、はい。すんません、それは本当に」

「謝るくらいなら話題にしないでください……っ」


 平然を装ってはいたようだが、やはり先の話になると耳の先まで真っ赤に染め足早に公園の敷地へと進んで行ってしまう。


 いやホント申し訳ないことした。

 若干忘れ掛けていた俺自身が怖すぎる。



「……あの。ありがとうございました」

「ん。なにが」

「こないだと、今日のこと」

「だから言うたやろ。俺はなんもしてねえよ」

「お礼も無しじゃ、自分の気が収まらないので」


 振り向いてペコリと頭を下げる真琴。


 釈然としない。彼女の言動についてではなく。

 謝るべきは間違いなく俺だ。主にさっきの件で。

 姉も姉だが、妹も中々に図太い神経をしている。



「それと、公園でのことも、気にしないでください。実際、自分もちょっと勘違いしてたというか、調子に乗ってたのは本当のことなんで。あれくらい言ってくれたおかげで、目が覚めました」

「……ならええけどな」

「でも、一つだけ不思議なことがあるんです」


 真っ直ぐ瞳を捉え離さない、円らなグレー。

 あの日、長瀬家で見たものと、よく似ている。



「姉さんが貴方のことを気に掛けている理由も、だいたい分かりました。フットサル部が姉さんにとってどんなものなのか。あのチームがどんな理由で繋がっているのかも。それと、貴方の人となりも。たぶん、姉さんにとっても、こうなることは必然だったんだと思います。ただ」

「…………ただ?」

「分からないのは、自分のことです。確かに貴方と姉さんの関係は、自分が思っているよりも深いもので。それも分かってるんです。でも、自分とまで仲良くする理由なんて、無いじゃないですか。そういう姉妹が居るんだなって、それだけで十分な筈です。貴方にとっては」


 それから次の一言は、大いに言い淀んでいた。

 けれど、これを通さなければ始まらない。


 燻っていた思いは、これだけでは解決しない。

 真琴もきっと、分かっていた。



「……家族になるって、本気ですか?」

「…………ん。嘘は言ってねえ」

「姉さんとだけじゃなくて、自分もですか?」

「形だけの問題じゃねえよ。俺が愛莉と、最終的にどんな関係なるかなんて、んなん分からん。俺が言ってるのは、もっと概念的なモノなんだよ」

「…………概念、ですか?」


 正確に伝え切るには、言葉が足りなかった。

 それでも、本気で思っていることがある。



「俺には、兄弟がいねえ。親も、居っておらんようなもんや」

「…………離婚されてるんですか?」

「その方がまだマシやった。あの家に帰っても、家族は待ってねえんだよ。ただ血の繋がった中年の男と女が生活してる、それだけの空間や」

「…………そう、ですか」

「他人なんだよ。どこまで行っても。一人でおる方が気楽に思えるくらいには、地獄やった。あの世界は。だからこんなところまで来て、全部忘れようとしとる…………羨ましいんだよ、お前が」



 愛情を知らないわけではない。

 ただ、区別が付いていないだけなんだと思う。


 気の知れた友達が居ない。心の安らぐ異性の相手が居ない。不安な気持ちを受け止めてくれる家族も、俺が求めたときには、そこに居ない。


 何もかも、ごっちゃになっているのだ。

 欲しいものが何なのか、俺にも分からない。


 でもフットサル部で過ごして来た時間は、俺の求めているものが全て詰まっているように思えた。それが友情なのか、愛情なのか、はたまた家族的な信頼なのか。


 ひたすらに、確かめる術が無い。

 永遠に答えの出ない、そんな気さえしている。



 けれど、覚えていないわけでも無いのだ。

 小さい頃、少しだけ味わった、美しい思い出を。


 だからフットサル部にも、疑似的な関係を求めている。盲目であることなど承知の上だった。



「人間っつう生き物はな。自分が想像できる範囲の幸せしか掴めねえんだよ。ブラジルの貧困街で生まれたガキが金持ちになる夢を持てるか? アイツらにとっての幸せは、地元のギャングでなるだけ高い地位になって、格下を顎で使う、そういう生活や。それが精一杯の幸せの形なんだよ」

「…………はい……そうかもしれません……っ」


 当時のチームメイトで、監督に冷遇されていた例の日系人が教えてくれた。サッカーに触れなければ。サッカーでのし上がらなければ、他に夢は無い。それが自分の現実だったと。


 環境こそ違えど、俺とて似たような境遇にあると思う。どれだけ足掻いても、辿り着くところは同じ。



 それがアイツらにとって、足枷になっているのも。本当は分かっていた。俺が求めている幸せと、アイツら一人ひとりが求めている姿は、どうしたって重ならない。


 結局のところ、俺は逃げているだけだ。

 都合の良い言葉に甘えて、現実を見ていない。


 そんなところに現れたのが、真琴。お前で。俺が必死になって手に入れようとしている幸せな姿を、お前は生まれながらにして持っていて。


 勿論、そう単純な話でないことも理解はしている。お前はお前で、悩みも、苦しみも、沢山持っている。

 けれど、お前が意識せずとも持ち合わせているソレが、俺にとってはあまりに羨ましいんだ。



「……お前が口にした家族と、俺の思い描いている家族は、たぶん。いや、確実に違う。だから、信じてもええけど、当てにはするな。俺が言えんのは、そんだけ。俺は俺のやり方で、お前らに何かしら与えてやりてえし、何かが欲しい。それしか、出来ねえ」


 伸び放題の前髪が、夜風でだらしなく揺れ動いた。真琴は口を紡ぎ、埃の舞う地面をジッと見つめている。



「…………一人ぼっち、なんですね。あれだけ楽しそうに過ごしているように見えても、自由に振る舞っているように見えても。心のなかでは、一人でブルブル震えている」

「…………精一杯なんだよ。いくら今が楽しくたって、それが永遠だなんて思っちゃいねえ。いつ、アイツらが俺から離れていくか、怖くて仕方ねえ」

「…………だから、家族なんですね」


 小刻みに頷いた真琴は、ゆっくりと離れていた距離を短い歩幅で縮めて来る。

 決して埋まることの無い、他人という何物にも代えがたい距離ごと、丸めて狭めるように。



「……なら、一緒です。自分だって、怖いんですよ。姉さんはしっかり者だし、一人でもきっと生きていけます。自分は出来ません。一人じゃ生きていません。それくらい、もう分かってます」


「だから、貴方が嫌いでした。姉さんを連れてどこかに行っちゃうんじゃないかって…………一番大事なものを奪っちゃうんじゃないかって……でも、違うんですよね?」


「…………少なくとも、自分は一緒です。目に見えるものじゃない……本物が欲しいんです。貴方だって、そうでしょう。なら、なれるはずです。言葉で縛らなくても…………本当の家族に」


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