286. 柔らかい


 薄手の扉を音も立てずにゆっくりとこじ開け、目的の地へと侵入する。あの日、愛莉に洗面台の汚れを指摘されたことを思い出した。彼女が不満を抱くのも納得の小綺麗な空間である。


 わざわざ替えの服を持って来ておいて良かった。一応には理由として十分機能するはずだ。だからといって、これから起こそうとしている悪戯が正当化されるわけではないが。



 いやもうなんて言うか、出来心である。

 ちょっかい掛けたくなったという、そんだけ。


 前にも似たようなことを考えたけれど、日頃から女子ばかりに囲まれたフットサル部の活動において、性差的な要素が言動にブレーキを掛けてしまうことも少なくない今日日。


 そんななかに、突然現れた年下の男の後輩。前の学校やクラブでも後輩と関わりを持ったことが一度も無かったから、割と浮かれていたというのも本当のことなのだ。


 瑞希だって、ノノが加わってからは露骨に後輩を弄って楽しんでいる姿が増えているし、俺にだってその権利がある筈である。



 まぁ、後は単純に、面子的な問題。


 上下関係とまでは行かないまでも、先輩としての威厳を最低限保ちたい、的な。実際のところ良く分かっていないけれど、理屈で解決できるような話じゃない。


 幾らでも嘲笑うがいい。俺はただ、アイツの困った顔を見てみたいという、それだけである。合宿でアイツらが風呂場でワイワイやってるの、ちょっとだけ羨ましかったんだ。ちょっとだけな。


 服を脱ぎ捨てタオル一枚を羽織り、ドアを蹴散らす。



「おらっ。お邪魔すんで真琴」

「――――へっ?」


 ちょうどシャワーを浴びている最中だった真琴は、思わぬ刺客の登場に呆気に取られた様子でゆっくりとこちらへ振り向く。


 モクモクと沸き上がる湯気の影響か、そのすべてを目視することは叶わないが……本当に、男とは思えないほど華奢な身体つきだ。シルエットにしてもあまりに細過ぎる。


 髪の毛を泡立てていた真琴は、それを流すことさえも忘れて完全に一時停止。そして、ようやく俺の存在をハッキリと認識したのか。見る見るうちに顔を赤らめ。



「なっ…………なにしてるんですかぁッッ!?」

「なにって、風呂やけど」

「いやっ、ちょっ、エェっっ!?」

「俺も汗かいてん、構へんやろ」

「かっ、構いますよッ!? ちょ、うっ、うえぇっ!? なな、なに考えてるんですかッ!?」


 取りあえず、最初の目的は成功。身体を覆うように腕を纏い、狭い浴槽内で可能な限り距離を取ろうとする。見慣れた鉄仮面はいとも簡単に崩れ去ってしまった。


 それにしても、ちょっとオーバー過ぎるくらいのリアクションだ。今まで他の男に肌を見せたことが無いなんてことないだろうに。年がら年中砂ぼこりと汗に塗れたサッカー部員が、たかが風呂くらいで恥ずかしがるものか。


 ……しかし、驚くとこんなに高い声出すんだな。

 普段も普段でハスキーな声色してるけど。ふむ。



「恥ずかしいこた無いやろ。ええやん別に」

「よ、よよよっ、よっ、良くないですよッ! あっ、頭おかしいんじゃないですかッ!? 出るとこ出たら犯罪ですよこれッ!!」

 

 男同士で犯罪もクソもあるか。とはご時世もあり迂闊に断言はできないところだが、過剰な表現だろういくら何でも。


 だが、真琴に限ってソッチ方面の心配も必要なのだろうか。男から見ても可愛い部類だし、トラウマでもあるのか。知らんけど。



「まだ頭だけやろ。身体洗ってやんよ」

「いっ!? いいいいいいですってホントにッ!? 余計な気遣わないでください、っていうか、出てってくださいよぅっ!!」

「あぁ? 男ならこれくらい我慢せえや!」

「えっ!? いやっ、そのっ……自分……っ!」


 これ以上の押し問答も時間の無駄なので、余っていた小さな座椅子を引っ張って座り込む。洗面台の目の前に置いてあるボディーソープに手を伸ばすと、そのすぐ脇で真琴の身体がブルブルと震え上がるのが目に入った。


 どんだけ警戒しとるんコイツ。

 安心しろ。そういう趣味は無いから。


 ただ、もし彼がチームメイトたちをこういう場でも同様に、過剰に避けているのだとしたら。少しだけ気持ちも分かるかもしれない。


 なんというか、こう、悪戯したくなるのはちょっと分かる。こんなリアクション見せられたら変な気起こすのも無理無いわ。うん。



「おら、大人しく座れ」

「ほっ、本当に勘弁してくださいよぉ……ッ!」

「洗う用のタオルってこれでええんか」

「えっ……あ、はい、それを……って、そうじゃなくてぇッ!」


 浴室に響き渡る反響を一切無視して、背中を洗い始める。普通にやったこと無いけど、別に大した技術もいらんだろ。


 背をなぞるようにタオルを宛がうと、身体中の震えはますます強まっていく。が、もう片方の手でガッチリと肩を抑えていることもあり、立ち上がることも出来ない状況。


 ついぞ観念したのか、大人しくその場に収まる真琴である。男のそれとは思えない真っ白な素肌が、リンゴの光沢にも劣らぬ眩い輝きを放っていた。



「押し入ったのは悪いけどな。理由もあんねん」

「…………は? 理由……っ?」

「言うたやろ。家族になってくれるかって」

「あっ…………そ、それはっ……」

「言うて、俺も浮かれとるけどな。あれや。そりゃあ、ちと強引かもしれへんけど、こういうところから始めなアカン思うねん。お前がそう思っとんなら……俺も出来るだけ応えてやりてえから」


 後付け甚だしい詭弁にも聞こえそうだが。

 それほど間違ったことは言っていないつもりだ。



 ここまでくれば、アイツらと差を付けるわけにもいかない。これからフットサル部の一員として、同じものを見据え、同じ場所を目指す仲間となるのだから。


 フットサル部の連中に抱いている感情が、もはや否定も出来ない明確な信頼であるとするのならば。


 真琴にも、それと変わらないものを預けたいし、預けて貰いたい。


 なんせ、愛莉の弟である。俺と愛莉の関係性を一括りにするのはあまりに難しいが……もし、俺が想像しているものを彼女も抱いているとするならば。真琴、お前だって同じなんだよ。



「…………まさか、姉さんとも一緒に……っ!?」

「いや、流石にそこまでは……仮にも男女やし」

「ならッ、なんで自分だけ……っ!?」

「ええやろ別に。隠すモンもねえだろ」

「ありますよッ!! 普通にッ!!」

「アァ? 今更なに言うとんねん」


 これに関しては、完全に自己満足なんだけど。


 ロクに男友達も出来たことの無い、俺みたいな人間には。どうしたってお前みたいな奴が必要で。ある意味では愛莉の弟という特殊な立ち位置であるからこそ、それが理由になっちまうんだよ。


 そりゃあ、クラスにはオミみたいな奴もいるし、必ずしもというわけでもないのだけれど。フットサル部には俺と、お前しかいない。なら、それはそれで築き上げるべき要素がある気がして。


 だから、ちょっとだけ我が儘を受け入れろ。

 気に入った奴にはダル絡みするタイプなんで。



「綺麗な肌しとんな。同じ生物とは思えん」

「いやっ、だからその前提が間違って……ッ!」

「ほら。こっち向け。前も洗ってやっから」

「ううぇぇぇっっ!? いっ、良いですってっ!? 勘弁してくださいっ! 本当に落ち着いてくださいってッ!? 自分がやってること一回思い返して……」

「先輩命令や。大人しく従え」

「ひやあああああぁぁァァっっっっ!!!!」


 お腹の辺りにタオルを持って行くと、男が出したとは思えないあまりにも甲高い叫び声が、シャワーの水滴と共に浴室へ反響する。


 女みたいな反応しやがって。やりにくいな。

 いやでも、本当に柔らかい身体だ……。



「んんぅっ……っ! んぁっ……ぁぅ……っ!」

「おいっ、なんちゅう声出しとんねん」

「だっ、だってぇぇ……っ……!」


 いやいや。お前、それは無いって。

 メチャクチャ喘いでんじゃん。エロ。



「なに? お前の方こそソッチなんか?」

「のっ、ノーマルですっ! あっ、ちょ、そこは!」

「―――――――うん?」



 スルスルとタオルを舐め上げ、ある地点に辿り着いた。その時である。


 急激な違和感が、腕を伝った。




(…………柔らかい……っ?)




 そこにあったのは、男特有の分厚い胸板や、真っ平らの平原などではなく。ハッキリとその存在を主張する、二つの膨らみ。


 あり得ない。まさか、そんな筈は無い。

 脂肪で象られた肥満児の体格ならともかく。

 この身体つきで、凹凸があるわけ。



「んぅうぁぁぁぁっ……!」



「…………え…………?」



 下部から競り上げた謎の膨らみ。頬を紅潮させ、分かりやすく身体を弾ませる真琴。



 ちょっと待って。

 え。いや。待って。



 お前、まさか。

 この期に及んで、そんなことが。



「やっ、やらぁぁぁぁっっ!!」

「ううぉっ!?」



 無理やり腕を引き剥がし立ち上がった真琴は、浴室の壁に身体を押し当て必死に距離を取ろうとする。真っ白な湯気のなかで小刻みに揺れる、あまりに細身で艶めかしいシルエット。


 涙目になりながら両腕で胸元を抑えている。やがて、湯気で曇っていた網膜にその真相がありありと映し出された。


 


『処女は胸元を隠し、非処女は股間を隠す』




 いつ、どこの誰が言ったかも分からない謎の格言が、脳内を延々と支配し続ける。公となったその部位には、本来あるべきものが、まるで見当たらない。


 一切の澱みを許さない、世界の人口の半分にしか与えられぬ、究極の聖域。彼女にも同様に与えられし、唯一の特権。




 浴室のドアが勢いよく開かれる。

 それこそ半壊も厭わぬ豪快な破裂音。


 そこに立っていたのは、般若にも見劣らぬ鬼のような顔つきでこちらを睨み付ける、長瀬愛莉そのものであった。










「…………ウチの妹になにしてんの……?」


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