255. わたしには、魔法が掛かっている
コーヒーカップ越しに見据える、澄み切った瞳。
言い訳など何一つ通用しない。そんな確固たる意志さえ。
無論、なにを誤魔化しているつもりも無いし、それはなんだったら比奈の方なのかもしれない。ただ、これほどまでに無垢な存在を見せつけられて、傲慢で居られるかと言えば、また別の話。
「陽翔くんは、ドキドキしてないの?」
「…………し始めた」
「んふふっ……なら、取りあえずオッケーかな」
「……ホンマ変わったよな、比奈」
「そうかな? 元々こういう性格だと思うよ。結構我が儘だし、ズルいし、計算高い女だって、自分でも思う。でも、それでも良いかなって、ちょっと思えて来た…………ううん。そっちの方が、やっぱり丁度いいかなって。うんっ、やっぱりズルいかも」
目を細め、悪戯に指を絡める。
彼女の言うところの「ズルい」がなにを指しているのか、未だに不明瞭ではある。しかし、それでも構わないと。自分が自分であることを認め始めている。
それはきっと、彼女にとっても大きな一歩で、成長なのだろう。けれど、変わってしまったという一端の感想は拭い去れない。
わざわざ理由を尋ねるほど、浅はかでも愚かでも無かったが。この数ヶ月、誰よりも近くで彼女が変わってい行く姿を見て来たのだから。今更指摘したところで、誰も喜びやしないのだ。
「陽翔くんだって、すっごく変わったよ」
「そうか?」
「うんっ。前よりずっと笑顔が柔らかくなった……というか、簡単に笑うようになった気がする。出会った頃の陽翔くん、いっつも仏頂面で。それこそ琴音ちゃんのこと言えないくらいね」
「……笑う理由が無かったからや」
「今は理由があるってこと?」
「……笑わない理由も無いからな」
元々の性格込みではあるが、基本的に俺は笑わない。感情表現が苦手なのは、今も同じだ。
きっと、彼女のおかげだと思う。
馬鹿笑い。照れ笑い。呆れ顔、困った顔。
どんな理由にしても、彼女は笑顔を絶やさない。
こんな風に生きている人間もいるのだなと、初めのうちは遠い世界の話を見聞きしている気分だった。けれど、彼女が見ている世界は、思いのほか俺とよく似ていて。
同じものを見ているのに、どうしてこうも違った顔をするのだろう。それが不思議で、不思議で。そして、どこか羨ましくて。
作り物ではない、本物であることも良く知っている。だからこそ、気付いた。気付いてしまった。
「…………幸せそうな顔しやがってよ」
「だって、幸せなんだもん」
俺が抱えていた問題も。
彼女自身が抱え込み切れない悩みも。
すべては、人生の肥やしにしかならない。どれだけ考えても、行動しても、自分は自分を辞められない。あの日、ノノに向けた言葉がそっくりそのまま返ってくるようだった。
教室の時計に目を配る。
3時半か。あまりゆっくりしている暇も無いな。
「一年生のステージ、そろそろだよね」
「ノノの舞台、観に行かないとな」
「去年わたしも舞台だったって話、したよね。そのとき、ちょっとだけ演技の勉強してて、チャップリンの映画を見たんだけど……陽翔くん、知ってる?」
「……名前くらいは」
「こういう名言があるんだ。人生はクローズアップして見たら悲劇だけど、ロングショットだと喜劇なんだって」
「へぇー……普通に知らんわ」
「もうっ、知らないことを誇らないのっ」
博識なのは比奈も一緒だったな。
琴音の横に居ると霞むけど。
「わたしも、そう思う。でも、ちょっと違うんだよね。だって、悲劇とか、喜劇とか、決めるのは自分自身でしょ? ロミオとジュリエットだって、二人とも最後は死んじゃうけど、モンタギュー家とキャピュレット家は今までの争いを恥じて、お互い一緒に乗り越えて行こうって、希望を見出すの。それって、捉え方によってはハッピーエンドでしょ?」
「わたしの好きじゃないわたしも、自分の考え方次第で悲劇じゃなくて、喜劇に出来るんだって、そんな気がしてる。勿論、全部が全部ってわけじゃないけどねっ?」
そうか。だから、彼女は笑うのだ。
弱くて卑怯な、本当の自分を知っている。俺はそうは思わないけれど、彼女がそう感じているのであれば、真実にすらなり得る。それさえも受け入れて、彼女は前を向き、生きている。俺には無い強さを持っている。
そんな彼女に、俺は今でも憧れている。
俺が彼女を身近に感じる理由の一つだ。彼女が自分自身を肯定しようと足掻くことで、俺のことさえも肯定してくれているような。
ありのままの姿を、曝け出せる。
「こういうの、大人だなって思う?」
「フットサル部のなかに混ざれば、相対的にな」
「あははっ。それはまぁ、そうかもっ……………わたしからすれば、陽翔くんの方がよっぽど大人に見えるけどね」
なんて嘯いて、首を小さく傾げる。
こんな彼女でも、笑えないときがある。
俺にしか見せないであろう、本物の比奈。
「でもね。陽翔くん。そういう風に考えてるわたしでも、陽翔くんのことになると、自分が自分じゃ無くなっちゃうの。クローズアップし過ぎて、一つのことしか見えなくなっちゃう。だから思うんだ。わたしもきっと、チャップリンの言葉を自分に言い聞かせてるだけだって」
「本当のわたしは、とっても弱い人間だよ。それも分かってる。大きく構えようとして、色んなところに隙間が出来る、ダメダメな人だって。どうしても、そう思っちゃう」
「だけど、今のわたしには、魔法が掛かっているの。フットサル部のみんなが、陽翔くんが掛けてくれた魔法だよ。いつ効果が無くなるか分かんないし、今も怯えてるけど…………でも、そのおかげで、わたしはわたしになれるから。だから、こうやって笑えるんだ」
「…………焦ってるよ、本当は。すっごく焦ってる。さっきも言ったけど、琴音ちゃんのこと羨ましいって思っても、嫉妬したのは初めて。愛莉ちゃんにも、瑞希ちゃんにも、有希ちゃんも、ノノちゃんにだって。陽翔くん、みんなに優しすぎるんだもん。もっとわたしにも、優しくしてくれたって良いのにっ」
「魔法、もう解けちゃいそうだよ。わたし、我が儘なんだもん。こんなに素敵な魔法を掛けてくれたのに、まだまだ魔力が足りない、もっと欲しいって、わたしの中のわたしがそう言ってる。魔法に掛かったままなのは、わたしだけで良いって…………ホントは、思ってる」
快晴の空模様を大きな雲が覆い隠すよう、その瞳さえも深淵へと移ろう。眼鏡では隠し通せていた本心も、薄っぺらいコンタクトレンズでは賄い切れない。
彼女の言う、そのような都合の良い魔法があるのならば。
とっくに俺も掛かっているし、これからも解ける予定は無い。
ただ、もしも。本当に、俺自身がそんな魔法を掛けてしまったのであれば。やはり、いつかは解いてあげなければならないものなのかも。
騙している、と言うにも違う。
なるべくしてなった姿だと、信じて止まない。
けれど、魔法は0時を過ぎた途端、効果を失うと相場は決まっている。永遠に続くものなど一切存在しえないことを、誰から突き付けられるまでもなく、俺たちは知っている。
比奈だけじゃない。愛莉も、瑞希も、琴音も。
有希も。ノノだってそうだ。
シンデレラは物語に二人もいらない。
誰もが主役になれるお遊戯会のままじゃ困る。
無論、白馬の王子も一人しか必要無いわけで。
相応しい人間だとは、到底思わないが。
「こんなこと、比奈だけに言いたかねえけど」
「…………うんっ……」
「俺だって、壊したくねえよ。お前のおかげで、みんなのおかげで、俺の世界も広まった。笑えるようになった。もしかしたら喜劇の途中かもしれないって……思えるようになった」
チャップリンにして曰く、俺たちはクローズアップの最中にいる。それは免れない。いつかそうなると分かっていて、自ら足を踏み込んだのだ。例え、そのつもりが無くても。
「……何もかも理想通りになるわけでもねえ。俺も、お前も、アイツらも。平等な、対等な関係でやり合っとる。たぶん、比奈の我が儘は、全部聞いてやれねえと思う。出来るだけ、そうしてやりたいのも、嘘じゃねえけど」
「…………うん。分かってる」
「でも、悲劇にしたって笑い処はあるだろ。なんにしたって、ああいう劇には道化が必要不可欠や。泣いてばっか、悲しいばっかりの悲劇なんて、誰も見たかねえ」
無理やりひっくり返して、喜劇にする必要も無いと思う。悲劇は悲劇で、恐らく需要はある。ならば、そのなかでやり繰りしていく以外に、道は無い。
少なくとも、比奈。
お前には、それが出来るだけの強さがあるだろ。
「比奈。お前は変わったけど、変わってねえところも、沢山あるよ」
「…………陽翔くん……っ」
「だから、変わらないでいてくれ。いつもみたいに、笑ってろよ。そうすりゃなんとかなる。多分な、たぶん。ホンマ、俺なんかに期待すんなよ。どうせ、こんなことしか言えねえんだから」
ついぞ気恥ずかしさを隠し切れず、そっぽを向く。肝心なところで、やっぱり俺は俺だ。
ところが、不思議なことに。
こんな言葉が、彼女には魔法に見えるらしい。
「…………それだけで、十分だよ。陽翔くん」
「……ん。ならええけど」
「やっぱり、魔法使いだね。それもかぼちゃの馬車じゃなくて、ジェットコースターを用意しちゃう、とっても意地悪で気の利かない魔法使いさんっ。でもそういう陽翔くんだから、わたしも魔法に掛かっちゃったのかな?」
それを言うなら、お互い様だ。
今にも永遠に解けない魔法を掛けようとしているのは、お前の方だろ。まったく、気が抜けない相手だ。これじゃどっちがシンデレラなのか、分かったものじゃない。
「ノノちゃんの舞台、観に行こっか」
「ロングショットの幕間にゃちょうどええな」
束の間の喜劇にも満たぬ時間が、俺たちには必要だ。勿論、それぞれに主役がいる。道化に収まるつもりが微塵も無いアイツの晴れ舞台を、これでも本気で楽しみにしていたのだ。
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