213. 0.5秒の世界


 左足アウトサイドから繰り出されたグラウンダー性のスルーパス。最小限の予備動作に留め、足を出す隙さえ与えてはやらない。


 二人のディフェンスの、ちょうど合間を縫うよう開通したラインの先には……ゴレイロの視野を遮るようゴール前へと走り込む、市川ノノ。


 僅かなスペースとも呼び難い。

 ヒト一人入れるだけの空間。


 だが、彼女なら。市川ノノの持つ技量を持ってすれば、些細な問題提起にすらならない。たったそれだけの空間でも、彼女は`違い`を生み出す。あの試合と同じように、必ず。



「――――バックヒール!?」


 コート外の誰かが、そう叫んだ。


 ゴレイロがボールを処理する一歩手前。

 彼女はゴールに背を向けて、左脚を振り被る。


 しかしそれは、ボールを落ち着かせるためのトラップなどでは決してない。そんな暇さえあれば、この狭いコートにおいてディフェンスとゴレイロの多大な圧力を受けるだけの時間的猶予を、自ら提供するようなものだ。


 そう、彼女は左脚を後ろへ振り上げた。

 ともすれば、ボールが向かう先は一つ。



「センパイっ! やりましたっ!」


 ゴールネット右隅がボールの衝突と共に、軽やかに揺れ動く。それとほぼ同時に、市川ノノは右手でピースサインを浮かべ、屈託の無い満面の笑みを浮かべた。


 向かってきたボールに対し、彼女は踵で合わせてみせたのである。ゴールへ一直線に向かったと思われた俺からのラストパスは、急激にコースを変えゴレイロの右手、僅かに先をすり抜け、ネットを揺らした。



(見えてる、なんてレベルちゃうぞ……ッ!)


 当然、市川ノノはシュートを撃つ瞬間、ゴールとゴレイロに対して背中を向けているわけだ。つまり、どのシュートコースが開いているのか、撃つタイミングでは分からない。


 では、どうすればコースを見つけることが出来るのか。


 明確にどのタイミングであったか、俺でも測り得ないが……恐らく、ゴールに走り込むと同時にボールの進む方向と、ゴレイロの身体、重心がどこに向いているか、瞬時に判断したものと思われる。



 俺がパスを出してから、市川ノノがシュートを放つまで。時間にして0.5秒にも満たなかっただろう。いや、スピードの問題ではない。むしろ、その時間しか市川ノノには与えられなかった。


 にも拘わらず、僅か一人分のスペースを見つけ出し、ゴレイロの動きと視野を制限しつつ、確実にネットを揺らすシュートコースを瞬時に理解し、的確に突く。


 この状況下における唯一の最適解を。

 彼女は、0.5秒の世界で完結させたのだ。



「どうですかっ? ノノっ、センパイのご期待に沿えそうですかっ!?」


 飼い主からの褒美を待つ大型犬のように、落ち着きなく駆け寄り身体を左右にふらふらと振らす、市川ノノ。


 十分だ。これ以上、求められるものなど無い。

 でも、もっと見てみたい。お前のプレー。




 相手のキックオフで試合が再開。


 衝撃的な失点も一度は綺麗サッパリ忘れてしまおうと、自陣でボールを回す相手チーム。だが、そんな猶予は一切許さないと言わんばかりに、市川ノノは全力ダッシュで猛チャージを掛ける。


 大会では見られなかった姿だ。ほとんどの時間、彼女はコートを歩いていて。必要な瞬間だけ、悠然と姿を現し仕事をこなす。それが、彼女のプレースタイルの筈だった。


 ……いや、そうか。


 今の彼女は、ゴールを奪われた後の、少し自棄なったあのときの姿だ。酷く自己中心的で、脆さが見え隠れてしていて……そして何より、信じられないくらいフレキシブルで、アバンギャルドで。


 どこの誰よりも、最高に輝いている!



「センパイっ!」


 相手のトラップミスを誘い、ボールを回収する市川ノノ。すぐさま後方の俺へと戻し、敵陣をグルリと一周するような弧を描く。反対サイドに流れて、そこからまた裏へ抜け出すつもりか。


 ならば、期待には応えてやらねばならない。

 ただし、次に決めるのは、俺だけどな!



「また躱したっ!」

「上手いッ!」

「フリーになったぞ!」


 左足裏でボールを引き戻し、一人目のチェックを交わす。続いて飛び込んで来た二人目も、両足のインサイドを素早く叩き、ダブルダッチで前へ抜け出した。


 気持ちは分かるんだけどな。市川ノノが走り出している以上、再び俺を自由にすれば決定的なパスを出されるのは目に見えているし。早めに潰してカウンターという意図は、おおよそ正解だろう。


 奪えれば、の話だけどな。


 舐めんじゃねえぞ、髪色だけ派手なパンピーが。

 例え市川ノノがどれだけ目立とうが関係ない。

 このコートで一番上手いのは、俺だ。



「市川ッ!!」

「センパイっ!!」


 交錯したのは視線と言葉だけではない。

 きっと彼女も、同じ絵を描いている。


 左サイドからコート中央、ゴール前へと横切るように走り出す市川ノノ。サイドで開いてボールを受けようとしている……なんて予想していたであろう彼女のマーカーは、その動きに着いて行くことが出来ない。


 俺が対峙する相手選手の、左脇の辺りからヌルリと顔を出す。縦の鋭いくさびのパスを送ると同時に、自分も左サイドへ流れた。ちょうど市川ノノが数秒前まで居たエリアだ。


 そして彼女は、右のつま先でボールをちょこんと浮かせて。すぐさま左脚で叩き上げ、相手選手の頭上を遥かに超えるフライボールを送る。


 少しだけ落下点がズレたのは、ご愛嬌ってことにしてやる。この程度のミスで、お前のパスセンスを丸潰れにするような真似、出来る筈ねえだろ。



 左脚を思いっきり振り上げて、力の限りボールを叩く。弾丸の如き一撃が、ゴールネットを派手に揺らした。


 100点満点の完璧なゴール。

 どよめくコート内外。

 


「すっごおおぉぉーーっ!! ヤバくないですかセンパイっ!! なんであんな難しいパス、ジャストミート出来ちゃうんですかっ!? 普通上にふかしますよねっ!?」

「あんっ。決まっとるやろ、俺やぞ」

「うわっ!! その台詞が決まる状況ってこの世に実在するんですねっ!! ちょっといやかなり興奮してきましたっ!」

「うっさいなお前ホンマ」


 そんな二人の間で軽やかに飛び交うハイタッチの方が、よっぽど響いて煩かったのだけれど。そんなことは、もう気にもならなかった。


 堪らないな、コイツは。


 愛莉とも、瑞希とも。勿論、比奈や琴音とも違う。彼女でしか得られない、感じ得ないエモーショナル。

 

 やはり、嘘は付けないものだ。

 市川ノノと、チームメイトになってみたい。


 愛莉へ最高のパスを送りたいように。瑞希の軽やかなドリブルをいつまでも見ていたいように。比奈の溢れ出る献身に応えたいように。琴音の勇気あるセーブに救われたいように。


 これから何度だって、市川ノノのパスから、ゴールを決めてみたい。これだけ俺を興奮させてくれる奴が、マネージャーで収まるものか――――



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