168. 勝手に部屋上がって冷蔵庫の中身漁って飯作る
承諾しか受け付けないとばかりに豪語する市川さんは、握ったままの手を上下に激しく揺らしながら次の一言を頻りに待ち続ける。
そろそろ腕が痛い。振り続ければ分かったとでも言うと思っとるんか。
マヨネーズ残り僅かとかじゃねえんだぞ。
水気混じりに「ハイ」とか言わねえから。
無性に懐かしさを覚えるこの状況。確か、愛莉と出会ったときもこんな感じだったっけ。ロクに選択肢が無かったのも良く似ているな。
解答だけは唯一、決定的に違うけれど。
いや、そうか。あの時も最初は断ったな。一応。
「陽翔さん」
市川さんの背の向こうから、俺の名を呼ぶ嫌に甘ったるくて涼しげな声が聞こえる。名前とさん付けのセットで俺を指す人間は地上に彼女しか居ないだろう。
「琴音、ヘルプ」
「…………何をされているんですか?」
「いや、ちょっと入り用で……どうかしたのか?」
「先ほどの試合の反省をしたいと、愛莉さんが」
こんなところで何やってんだと、口に出さずとも目が訴えていた。空のペットボトルを持ち歩いている辺り、ついでに捨てて来ようとしたら俺を見つけたとかそんなところか。
こうして並んでみると、琴音より市川さんの方が少しだけ背が高い。比奈と同じか、その中間と言ったところか。改めてちっこいなコイツ。いやまぁそんなことどうでもいいんだけど。
「もしかしなくてもっ、フットサル部さんのゴレイロの方、っていうか、ノノたぶん知ってると思うんですけどっ、二年の楠美センパイですよねっ?」
「……そうですけど」
「うひゃぁ~! もう超ビックリですっ! 二年で成績がトチ狂ってるセンパイがいるって噂には聞いてて、しかもそれがメチャクチャ美人でっ、楠美センパイって名前でっ、っていうのは知ってたんですけどっ! どっかで見たことあるなぁって思ってたんですよっ!」
「は、はぁ……」
トチ狂ってるって。物言いにしても失礼過ぎる。
というか、先輩ってことは一年なのかこの子。
元来コミュニケーション能力に大きな課題を抱えている琴音にとって、市川さんみたいなタイプは天敵と言ってもいい。
露骨にクソ面倒くさそうな顔をしていた。それに関しては若干お前のせいでもあるけどな。原因としてはトントンやけど。
よくよく考えれば、フットサル部にいる琴音しか知らないんだよな。俺。クラスが違うのもあるけれど、部の仲間以外の人間と会話している姿とか見たことないし。
出会った当初のややキツめな態度を思い起こさせるが、これって男子に限ったものじゃないんだな。
もう顔に「興味ない、関わりたくない」って書いてある。ウケる。
「へぇ~……そっかそっか、なるほどなるほど……サッカー部戦も、そのっ、楠美センパイが試合に出てたんですよね? ゴレイロでですか?」
「ええ。まあ、そうですけど」
「フットサルやってたなんて、ノノ全然知りませんでしたっ。いや、ノノが上級生のことなんでも知ってるってわけじゃないんですけどっ! でもっ、意外性が凄いと言いますかっ!」
「……で、いつまで握ってるんですかそれ」
ちょっとばかり不機嫌さを滲ませた一言に、思わずハッとして市川さんに掴まれていた手をやや強引に離す。
何か言われるかと思ったけれど、特になんのリアクションも無く、彼女も素直に応じる。
「なんの話をしていたのかは知りませんが、仮にも次の試合の相手なんですから。あまり仲良くなりすぎるのもどうかと思いますよ。陽翔さん」
「いや、仲良くなったつもりはまったく無……」
「えぇそんなぁぁっ! ノノとはもう大の仲良しですよねぇぇっ! えーーっと、陽翔? センパイっ!!」
声がデカい。煩い。
なんだこの水と油みたいな対話は。
「それに、楠美センパイもちょっと堅いですよっ! 試合前に親睦を深めるくらい、なんてことないじゃないですかっ! それともノノが陽翔センパイと仲良くしてっ、困っちゃうことでもあるんですかっ?」
「いや、別にそういうわけでは……」
「ならっ、問題ないですよねっ!」
すっげえ煽って来るこの子。
なんだろう。顔がなまじ整っているだけにスルーしてしまいそうになるけど、まぁまぁ面倒というか失礼というか、遠慮がなさ過ぎるんだよな。もしかしたら嫌いなタイプの女かも分からん。
この一連の会話で彼女のことをどうこう言うつもりは無いんだけれど。なんつうのかな。接したこと無いタイプだから分からんだけなのか。
リビングに土足で上がってブレイクダンス踊ってるのが愛莉だとするのならば、勝手に部屋上がって冷蔵庫の中身漁って飯作るのが瑞希。
対して部屋のレイアウトを好き勝手変えてしまうのがこの子。で、比奈と琴音は知らんうちに居住区を作っている。みたいな。
駄目だ、分からん。
なんも上手くねえわ。黙っとこ。
「なるほどなるほどっ……そうですよねぇ~、楠美センパイがスポーツもできるなんて話聞いたこと無いですし、それこそフットサル始める理由なんて一つしか無いですよね~っ!」
勝手に言い出して勝手に納得する市川氏。
二人とも着いて行けてないぞ。察しろ。
「あっ、でもそっか。チームの方が呼んでるんでしたよねっ。お話の続きはまたあとにしましょうっ。いい返事期待しますからっ、陽翔センパイっ!」
「エ…………あ、ハイっ……」
「あっ、ハイって言いましたねっ! 聞きましたっ! ノノ聞きましたからねっ! 楽しみだなぁ~~っ! 最後の試合っ、頑張ってアピっちゃって貰って大丈夫ですからっ! まぁノノのチームが勝つには勝つんですけど、センパイには今後のためにも頑張って貰わないとですからっ! ではっ、後ほどお会いしましょうっ! スィーユーネクスタイムっ!」
……………………
「……行きましたね……」
「行ったな……」
脱兎の如く建物の奥へと走り去っていく市川さんであった。
一向に脳内処理が追い付いていないのは暑さのせいばかりではないし、なんなら外よりもよっぽど涼しいこの施設内では正常に稼働している筈なのだが。
「……どんなお話か伺っても?」
「あー……サッカー部に勧誘されてな」
「あぁ。マネージャーをされているとか」
「らしいな……」
「…………入るんですか? サッカー部に」
「えっ」
唐突に声色が浮かばれなくなったものだから驚いて思わず顔色を窺ってしまう。斜め後方からこちらを見上げる琴音は、何とも言えない不安げな表情をしていて。
そんな顔をされる覚えは、ないことも無いんだけれど。ただ、その相手がよりにもよって琴音だったから尚更ビックリしてしまって。
「……陽翔さんがそうしたいなら、私に止める権利はありませんけど」
「いや、入らねえよ。金積まれたってお断りや」
「っ……! そ、そうでしたか……っ」
今度は露骨に頬を綻ばせる。
その言葉を待っていたとでも言うかのように。
すると彼女は、どことなく決まりの悪そうに視線をあちこちに泳がせると、コホンと一つ咳払いを挟む。体裁を整え、言葉を繋いだ。
「それも、そうですよね。サッカーに未練があるなら、初めからそちらにすれば良かっただけの話ですから。余計な心配でした」
「まぁ、何度もお前らから離れるわけにもな」
「練習でさえ私はほったらかしですから」
「あぁ、いや、それは悪いと思ってんだけど」
「次の試合も、ちゃんと見ててくださいね」
勿論、そのつもりだし今までだってそうだ。
と、言葉を返すにも抵抗があった。
まるで疑いの黒を知らない、真っ直ぐな瞳にこちらがよろけてしまいそうだった。そんな可愛い顔で見つめるなよ。照れるだろ。
「……あの方は、お名前はなんと」
「あぁ……市川さんだってよ」
「そうですか。ちょっと苦手ですね。私は」
「だろうな」
「……目移りしないでくださいね」
「…………はっ?」
続けてそんなことを言って来るもんだから、思わず素っ頓狂な声色で疑念を提示する間もなく一言で返してしまう。しかしそんな俺のことなど気に留めない琴音。
「行きましょう。皆さん待ってますから」
「……お、おー」
「なんですか、そのやる気の無い返事は」
「そういうわけちゃうけど……」
「集中してくださいっ。試合までもう少しなんですから」
妙に早足の琴音は、こちらに振り返りもせずコートへ繋がる通路を進んでいく。そんな彼女の姿を後ろから眺めながら、皆の待つ控えエリアへと戻るのであった。
……目移りって、サッカー部にってことだろうか。それとも、他に意味があるのか。仮に後者だとしたら。お前、ちょっと可愛過ぎるよ。それこそ余計な心配だと、口にする暇も無かったが。
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