157. 今日だけ


 あまりに唐突なカミングアウト。

 声にならない声が、思わず漏れた。


 少し俯き気味の彼女は、そのまま話を続ける。



「……真琴が生まれて一年くらいで、出て行っちゃったんだって。私がまだ3歳とか、それくらいのとき……だから、今どこで何してるのか……どんな人だったのかも、分かんない。写真とかも、残ってない。家族のこととか、あんまり考えてくれない人だったらしいから……養育費っていうか、慰謝料みたいなのは出してくれてるみたいだけど……会いに来てくれたことは一回も無いの」


「けど、それが辛いとか、悲しいとか、そういうわけじゃなくて……みんなにはお父さんが居て、私には居ないこと、ちょっと悔しいなって思ってた時期もあったけど……でも、分かんないよ。だって、最初から居なかったんだから…………寂しいなんて、思ったことない」


 淡々と語られる彼女の境遇。その言葉に裏表も無い。寂しくは無いというその思いは決して嘘ではないのだろう。微かに覗くその表情に移ろいは見られない。


 そうか。彼女の経済的困窮は、それが原因か。

 こんなときに深堀りする気は無かったけれど。



 いや、それだけじゃない。


 もしかしなくても、彼女を彼女たらしめているのは、父親が居ないという事実がどうしたって影響を及ぼしているのだ。


 本当は臆病でビビりな癖に、どこか虚勢のようなものを張ってしまうのは。きっと心のどこかで、自分が父親のような存在になろうと無意識のうちに考えていたからなのだろうか。


 二つ下という姉弟の存在も、拍車を掛けているに違いない。より強く、堂々とした自分でありたいという願望は、実はそれによく似た強迫観念で。


 少なくとも、俺が彼女と出会う前。教室でただボンヤリと眺めていた長瀬愛莉という人間は、そういった「あるべき存在」に捉われたハリボテに過ぎなかったとでも。



「ごめん、こんなの、ハルトに話すことじゃないよね……」

「別に。気にすんなよ。似たようなもんやし」

「……そう、なの?」

「…………まぁ、な。毒親とまでは言わねえけど」



 この街に来て、初めてあの二人のことを考えた。

 

 厳密には、彼女と全く同じ立場ということでもない。事実、俺の両親は健在だし、特別仲が悪いというわけでもない。


 共働きで自宅でほとんど顔を合わせないという事情もあるにはあるが、なんというか、子どものやること為すことにひたすら無関心で。

 サッカーを始めようと相談したときも「好きにしなさい」と一言、肯定も否定もしなかった。ただ、お金を渡すだけ。それだけでもマシと言えば、そうなのかもしれないけれど。


 試合を観に来てくれたことは一度も無い。

 そもそも全く興味が無いのだから。


 世代別のワールドカップメンバーに選出されたことも、母は学校のPTAか何かで初めて知らされたらしく、家に帰って来て初めて「アンタそんなに凄い選手だったんだね」と興味なさげに言われたり。


 親父もほとんど似たようなもので。母親の忙しさに輪を掛けて仕事で家を空けることが多かったから、俺の生活を全く把握していなかった。

 挙句の果てには「お前、サッカーと野球どっちやってるんだっけ?」と惚け顔で聞かれ、呆れさえ通り越した、中学の頃の会話を思い返す。



 俺に原因が無かったと言えば、それも嘘かもしれない。


 無愛想で滅多に感情を表に出さない俺のことを、変な子だと思っていたのだろう。小さい頃は「どうして怒っているの?」なんてよく聞かれていたけれど、その度に「怒っていない」と返して母を困らせた。


 本当のことだった。ただ目つきが悪いだけで、本当にどうとも思っていなかったのだから。

 二人がそれに気づくことは無かった。いくら仕事で顔を合わせる機会が少ないとはいえ、子どもの表情や特徴さえ、ロクに把握していないのだ。



 それ故、全くと言っていいほど家族の時間というものが無かった俺にとって、両親の存在は「偶に帰って来る年上の同居人」程度の認識でしかなかった。


 誰かに褒められたくて。

 自分の存在を認めて欲しくて。


 そんな理由で始めたのに。ついぞ、サッカーをしている自分に全く関心を示さなかったのだから。ついにあの二人は「認めて欲しい存在」ではなくなっていた。



 それでも、まだ良かった。なんなら自分のやりたいことに一切口を挟まない二人との距離感は、高校生になる頃には丁度良いとさえ思っていたし、不自由のない環境でサッカーをやらせてくれることにも感謝していた。


 決定的な溝となったのは、怪我で入院することになったあのとき。流石に両親とも心配して、病院に顔を出すには出してくれたのだけれど。



「もう十分やっただろう。よく頑張ったな」


 病室に現れた父親が、開口一番に発した言葉である。信じられないものを見ている気分だった。


 あんな怪我なんて、リハビリさえすれば十分に回復の見込めるものだったというのに。ただ、大きな怪我をしたという事実だけを鵜呑みにして。


 結局、彼らは分かっていなかった。俺がどれだけサッカーに賭けていたのか。本気でプロを目指していたことさえ、知らなかった。学生の間に打ち込めるものが早めに見つかって良かったなとか、その程度にしか考えていなかったのだろう。



 その瞬間、俺は全てを悟ったのだ。


 彼らは自由を与えてくれていたのではない。自分たちが構ってやれない口実が欲しがっただけ。


 与えられたものが優しさではなく、究極の妥協であることを知った俺は、いよいよ二人と口を利く気も無くなってしまった。地元を離れるという決断も、全て自分で決めて自分で話を進めた。


 適当に理由をでっち上げて「こっちにいると嫌なことを思い出すから、出来るだけ遠くに行きたい」なんて話したけれど。一番の理由は、二人と距離を置きたかったから。


 親元を離れ一人暮らしをするという、それなりに重大な決断さえ「好きにしていい」と言いのけた彼らが、心底恐ろしかった。



 今からでも遅くない、なんて。

 大嘘だ。あまりにも惨い嘘だ。



「…………寂しくないの?」

「……もう、忘れたわ」

「……そっか」


 そんなことを言うお前が誰よりも寂しそうだなんて、到底口にする気にはなれない。それから暫く、二人の間に会話は無かった。 


 本当は、それすらも嘘な気がしている。


 親の愛情をロクに実感できず生きて来た俺にとって、フットサル部が。彼女たちがもたらしてくれたものは、もしかしたら限りなくそれに近い感情なのかもしれない。


 何かを与えたいだなんて、偽善も良いところだ。

 どうせ、自分が欲しいだけの癖に。



「じゃあ、さ。その、変なこと言うけど……」


 絞り出したような声が、耳元まで大袈裟に届く。

 その言葉は、まるで予想もつかなかったけれど。


 けれど、心のどこかで望んでいたもの。



「私が……私が、代わりになるから……っ」

「……愛莉……っ?」

「ハルトが、私のお父さん、ってことで……いっ、今だけ……今だけだから……こんなの、明日になったら忘れなきゃ駄目だし……ほんとに、一回だけだから……それなら、いいでしょっ?」

「……お前は俺のなんなんだよ」

「分かんないけど、その……お母さんでも、姉でも、なんでもいいわよ……だから、さ…………ハルトも、もっと私に甘えていいから……」


 今の今まで雷如きに震えておいて。

 良く言えたものだと思わないことも無いけれど。


 ただ、一つだけ。

 なんで、お前は。


 こんなときにまで、そうやって強がって。

 甘えたいのはどっちなんだよ。



(…………似た者同士っつってもよ)


 二人がまるで同じものを望んでいるのだとしたら、それはそれで、きっと悪くは無い関係なのかもしれないけれど。これじゃまるで共依存だなんて、少し考えたり。


 強がってるのは、俺も一緒か。


 本当はもっとまともな打開策や、現実的な提案が必要な場面だろうに。頭は上手く回らない。彼女の柔らかな体温に包まれていると、何もかもどうでもよいことに思えて来て。



「…………今日だけ、だからな」

「……分かってる……分かってるからさ……っ」


 密着した身体だけでは埋め切れない隙間さえ、どうにか埋めてみたくて。ほんの僅かな空気さえ押し潰してしまいそうなほどに、腕に力を入れる。


 こんなことをしても、根底にあるものは何も解決しない。しない筈なのに。



 不思議な感覚だった。


 思い出したくないことも、これからどうしたって抱えて行かなければならない問題も。二人分纏めて、すべてゴチャゴチャになって。


 突然現れた、ゆっくりと流れる胎動と混ざり合うように蕩けていく。お互いの水流がやがて一体となり、同じ方向へと流れていく、そんな気がした。



「…………おやすみ、ハルト」



 聞いたことも無い、優し過ぎる言葉が耳元を通り抜け。意識は真っ白な暗闇へと遠のいていった。


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