158. 優しさの行方


 雨音が耳のすぐ後ろ辺りを叩いて、彼女は目を覚ました。枕もとの目覚まし時計は3時を指している。


 冷房はしっかり効いている筈なのに、身体は火照ったままで燃えるように熱い。その釈然たる理由を、彼女は目の前に広がる光景を目の当たりすることでハッキリと自覚することとなる。



(……ちっ、近すぎる……ッ!?)


 背中と頭の後ろに回された陽翔の両腕が、なんとしてでも離さないと言わんばかりの強さで抱き締めている。これだけ密着されては、薄着だろうともはや関係ない。


 改めて自身の置かれている現状。そして、数時間前の出来事を顧みて声も上げられず狼狽する愛莉であったが、不意に身体を通う仄かな体温に引き寄せられるように、再び身を投じた。


 どうしようもなく恥ずかしい状況であることはちっとも変っていないが、彼がガッチリと自身の身体を掴み続けていることにはここから抜け出せそうにも無い。


 不思議と彼女も嫌な気持ちにはならなかった。ただ単に、経験が無いからという理由もあったのだろうが。


 男特有の汗臭さは全く感じられない。まるで大きなぬいぐるみを抱き締めているようで。



 多少なりとも彼独特の匂いがあるにしても、それすら心地良く感じてしまう。ご飯を食べている姿が犬のようだと彼女は話したが、眠っているときも限りなくそれに近いような感覚を覚えていた。


 こうして眠りこけている間にも、一切自分のことを肌から離さず抱き締め続けていてくれたという事実に、彼女は溜らなく心を揺さぶられていた。


 少し窮屈過ぎるほどの暖かさに包まれながら、愛莉の頬は色々な意味で紅潮しながらも、彼からもたらされる体温を暫し受け入れ続けていた。



(…………さすがにちょっとあついかも……っ)


 少し汗を搔いてしまったかもしれない。ただでさえ慣れない寝床に緊張していたこともある。


 すると愛莉は、急に自身から発せられている汗の匂いが気になってしまって、どうにも居た堪れなくなる。朝起きて、彼の顔が歪むようなことはどうしても避けたかった。


 唐突に芽生え出した焦燥の根源を突き止めるまでの余裕も無く、彼女は強引に陽翔の腕を引き剥がし、身体を起き上がらせる。


 改めて距離を置き、寝息を立てる彼の姿を眺めていると、自身のしでかした数時間までの言動がいかに常軌を逸しているものか、思わず客観的にならずにいられない。


 一人暮らしの男の部屋に料理を作りに来るだけに飽き足らず。いくら雷が怖いからといって、同じベッドで寝るだけに留まらず、恋人同士のように抱き合って眠るなんて。


 真っ赤に染まった頬を両手で抑えながら、次々と弁明の言葉が浮かんではシャボン玉のように弾けて消えていく。



(わたしのばかばかばかぁっ……! こんなのどう考えても「そうだ」って言ってるようなもんでしょぉぉっ!!)


 近付き過ぎた距離と共に、ひた隠しにしていた気持ちさえ全て悟られてしまいそうで。やり場のない後悔と気恥ずかしさが滝水のように押し寄せる。



 彼は、気付いてしまったのだろうか。


 けれど、冷静ではいられない心中のなかで、ある程度納得できているところもある。彼は周囲からの好意を、素直に受け入れたままでこうして接してくれている節があると。


 愛莉も彼の人となりをそれなりに理解しているつもりではあった。彼は鈍感ではあるが、決して愚鈍ではない。

 そうでもなければ、自分のような存在にああやって優しさを見せてくれることなんて無かったはずだと、実際のところ分かっている。



 多分、本当に分からないのだろうな。

 彼女は思った。


 彼の心には、圧倒的に愛情が足りていないのだ。愛されたことが無いから、そのポッカリと空いた穴をどうにかして埋めようと、自らが無意識のうちに愛情を注いでしまう。


 フットサル部は愛莉の確固たる熱望があって生まれたものだ。しかし今となっては、あの集団に最も強い執着を抱いているのは、他ならぬ陽翔である。


 彼が抱いている愛情は、それこそ友愛でも、家族愛でも、はたまた恋愛感情でもない。その区別さえ彼には分からない。或いは全て一纏めになってしまっている。



 実際のところ、愛莉も自身の抱いているこの感情が、純粋たる恋心なのか。依然として判断に迷っていた。


 ロクに恋愛経験も無く、サッカーに打ち込むばかりの毎日を送って来た彼女にとって、廣瀬陽翔というある種の概念はあまりに異質でイレギュラーな存在で。


 明確な好意を抱いていることにもはや疑いの余地も無いことは鈍感な彼女でも理解に及ぶ領域であったが、それが果たして恋と呼べるものなのか。


 誰に教えて貰うわけでもなく、自分自身で気付かなければならない問題だと分かっていても。彼女は未だに分かり兼ねている。



(……外しちゃお)


 慣れない召し物の居心地悪さを嫌ったのか、或いはサイズの問題か。借り物のワイシャツのボタンを外すと、身に着けていた胸元を包む肌着を脱いで鞄に向けて投げ捨て、再びシャツを身に纏う。


 朝起きてから、彼がどんな反応を示すのか。或いは自身が、どのような状況に陥るのか彼女とて分かっていなかったわけではないが。


 単に寝心地が悪かったのだという言い訳も、脳裏では正常に作用しない。極めて些細な問題だった。ただ、彼のぬくもりをもう少し近くで感じたい。それだけ。



「…………ばか。あほ。へたれ」


 悪口にも及ばない呟きを添えて、彼女はぐっすりと眠りこける陽翔の右頬を人差し指で力無く突く。思いのほか柔らかく滑らかな素肌に吸い寄せられるように、何度も、何度も力を入れる。


 彼女がアリーナからこの夜に掛けて取った一連の行動に、少しの打算も無かったと言えばそれは嘘になる。もしも彼がになってしまったのであれば、自身の身体を持って受け入れるだけの覚悟は出来ていた筈だった。



 それでも、彼女はついぞ言い出すことが出来なかった。家族の代わりなんて、思ってもいないことまで嘯いて。


 言ってしまったからには仕方ない、と無理やり納得するにも憚れた。結局のところ、彼の持つ有り余るほどの愛情に、呑み込まれてしまっただけのことなのだ。



 このチームは、云うならばファミリーのようなもの。夜風とさざ波の漂う砂浜で、彼女はそう言ってのけた。


 きっとそれは、彼に向けて言った言葉ではない。

 自分が、ただそう思い込みたいだけで。


 築き上げてきたものが壊れてしまう。

 一番恐れているのは、他でもない自分なのに。


 もしかしたら。いや、間違いなく。彼も同じようなことを考えているのかもしれない。けれどそれ以上に、家族よりも強固な関係を何処かに求めているのは、やはり自分なのだと。


 盛大な照れ隠しと共に取ったこの数時間の言動が、どうしたって本心なのだと、彼女も気付かないわけにはいかなかった。



「……ばかもへたれも、わたしなのに」



 すべての終着が、たった一つ。少しの勇気で片付くことを、彼女は知っていた。


 つまらない葛藤が、いつまで経っても邪魔をしている。知らず知らずのうちに積み上げてきた余分なプライド。


 自分から壊せないのなら、いっそのこと彼の方から壊してくれればいいなんて。甘えている。甘えすぎている。本当は、望んでもいない癖に。


 なのに、そんな自分のことを。

 彼は言葉も無いまま、寝息一つで肯定してくれているようで。



(悔しいよ。でも、ホッとしたんだもん)


 彼は言った。

 自分には、自分しか求めないと。


 私が私である以上。

 彼は私を求め、肯定してくれる。


 今にも溢れて零れ落ちそうな優しさの行方が、どのような結末を迎えるのか。彼女には分からなかった。彼も、分からないのだろう。



「…………まだ、いいよね。このままで」



 その先に待ち構える未来が、希望に満ちた世界でも。涙を堪えるような絶望でも。


 いま、この瞬間。二人の間に流れる穏やかな時間が、いつまでも、いつまでも守り続けてくれる。それだけは、信じていたい。



「私は、幸せだよ。ハルトは?」



 返答は無かった。

 当たり前だ。

 ぐっすり眠っているのだから。

 答えてくれるはずがないと、分かっていた。



 でも、ここに居る。


 隣に居てくれる。僅かに重なった指先さえ、掴んで離さない。


 それだけで、十分だよ。

 そう言い返すように、強く握り締める。



 永遠に続くかと思われた夜が、少しずつ明けていく。暖かな光が、暗闇を埋めるように差し込んだ。


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