156. 怖くねえよ


 寝転んでしまえば大して背丈も変わらない。

 180度回転した視線の真正面に、彼女は居る。


 そもそも自分で言い出したことの癖に、いざ向かい合うとなると彼女も穏やかではいられない様子であった。態度としては先ほどから大差無いが。


 視線はおろか腕の置き場所も落ち着かず、僅かに身体を震わせる愛莉。その要因が意図せずやって来る雷鳴によるものだけか、そろそろ判別も付きにくい。



「…………冷房、ちょっと寒いかも」

「……消すか」

「ううん……すぐに暑くなっちゃうだろうし……」


 言葉にするまでもなく、彼女はその身動き一つで最適解を導き出す。もぞもぞとブランケットごと身体を揺らし、ただでさえ近い距離は数センチの間隔さえ覚束ない。


 緊張していないと言えば嘘になる。


 けれど、それは彼女とて似たような心境だろうし、いよいよそれを制止する手立ても必要性もさして感じられなかったのだから、些細な問題で。


 猫のように身体を丸めた愛莉は、両腕を胸元の前に置いてそのままピタリと離れない。胸が俺の身体に当たらないよう、彼女なりに気を遣っているのだろうか。


 窓ガラスに一瞬だけヒビが入り、雷鳴が遅れて飛び込む。大袈裟なくらいに肩を震わせて、もはや存在しえない隙間さえ埋めてしまおうと身体を密着させて来た。



「……怖いか」

「…………うん……っ」

「震えることねえだろ。ほら」

「ひゃっ……っ!」


 他意は無い。いつまでもそうして怯えていたら、ベッドの隅から隅まで微弱な振動に支配されて、一向に眠りにも付けないのだから。


 左腕を背中に回し、少し強引に抱き寄せる。

 自分でも驚くくらい、あまりにも自然なほど。 


 傍から見れば、俺たちの関係はあまりの分かりやすいそれでしか無いのだろう。しかし、外野の意見などここでは何の意味も持たない。

 俺に出来ることが、彼女に何かしらの安心感を与えるのであれば。純粋なるハグでしかないこの行動にも価値は生まれる。



 数分前のほとばしるような焦燥が、まるで嘘のようだった。不思議なことに、下心は一切芽生えない。


 それはそれで問題だと言われても致し方ない状況ではあるが、依然として弱弱しく硬直している彼女を頭の先から眺めていると。

 一人の可愛らしい女の子を抱き締めている冴えない男というよりは、限りない母性のようなものがどうにも優先されてしまう。


 水滴が垂れるように、栗色の髪の毛の間を人差し指が通過して行く。やがてその流れはある種の濁流となり、源泉へと到達した。小さな彼女の頭を、ゆっくりと、優しく撫でる。



「……怖くねえよ、こんなの」


 その言葉を有り体に肯定することは無かったが、否定することも無い。あるべきところから下流へと水が流れていくように、彼女は左手を無言のまま受け入れる。


 震えは段々と収まっているようであった。肩からつま先に掛けての硬直も、少しずつ解けている。


 ようやく気持ち的にも落ち着いて来たのか、彼女はゆっくりと顔ごと視線を上げ、胸元から突き上げるように俺を見上げる。



「……ありがとっ…………」

「別に、気にすんな。これくらい」

「…………ハルト、どうしちゃったの?」

「なにが」

「だって……優しすぎるっていうか……っ」


 頬の紅潮はそのまま変わらない。が、どちらかというとその言葉には気恥ずかしさよりも疑念を多く孕んでいるようにも聞こえる。


 柄でもないのは分かっている。

 頭を撫でるなんて、子どもをあやすにも単純だ。



「……気紛れや。二度目はねえよ」

「……分かってるって」


 無意識に飛び出した一言には、ほんの少しだけ嘘が混ざっている。別に、これくらい、何度だってしてやるよ。ただ、そんな上目遣いで見上げられたら、言動に不一致も生じるだろと。



「……ていうか、気紛れで撫でられても困るし」

「なら辞めるか。つうか、もう寝れんだろ」

「…………やだ。もうちょっと……っ」


 今度は愛莉が右腕を俺の背後に回して、身体をグッと押し付けてくる。もはや言い逃れは出来ない。ただ抱き合って眠る、二人の男女。それだけの空間。


 両腕のガードが外れたことで、ついにその豊満な胸部が胸板へと惜しみなく当てられている。まさか、気付いていない筈も無いだろうに。


 ここまで来てしまうと、震える子犬を抱き寄せるだけの純粋たる優しさだけでは賄い切れない。意図せずとも上昇する心拍数。


 柔らかい。

 そして、あまりにも温かい。



「……おっ、お返し……っ」

「……無理すんなよ」

「無理なんかしてないっ……! してないしっ……だからっ、アンタもその……ちょっとは、返しなさいよ……っ」


 彼女の求めている反応は、口にせずても残酷なまでに伝わる。


 もう、駄目だ。

 頭のなかがグチャグチャで、何も考えられない。


 もはや動物的な本能に従う以外に方法は無かった。余りの右腕を彼女の頭の後ろに回す。それに応えるよう、愛莉も腕を固めて力任せに抱き着いてくる。



 恋人同士のそれには到底及ばない。愛情表現と呼ぶには、あまりに出来の悪いハグだった。不器用と不器用を掛け合わせても、プラスには傾かない。


 それなのに。どうして。

 何故か心臓のBPMは、少しずつ下り始めていて。



「…………変な感じっ……」

「……な」

「すっごくドキドキするのに、さっきより全然落ち着いてる……」

「…………二回目だな、こういうの」

「……あれは、ノーカンだし……っ」

「大差ねえだろ」

「私にとっては、そうじゃないのっ……!」


 不機嫌そうに唇を尖らせる、そんな表情さえ愛らしい。


 サッカー部との試合で決勝点決めたときも、こんな風に無意識で抱き締めたんだっけ。けれど、そのときとはちょっと。いや、かなり違う。


 あのときは、一人のチームメイトだったけど。今は違う。俺が、俺自身の意思で。長瀬愛莉という一人の女の子を、抱き締めている。



 この感情が、言動が。

 愛やら恋やら、短い言葉で表し切れるのか。


 正直、良く分からない。

 でも、一つだけ確かなもの。


 両腕に収まる可愛らしい彼女の存在を、今この瞬間は。何よりも大切にしたいと、心から思っているということ。



「……ママにもして貰ったことないな」

「……覚えとらんだけや。子どもなら誰でも経験あるやろ」

「……そういうの、恥ずかしがってたし」


 なら、彼女もこんな状況は生まれて初めてだとでも言うのか。悪い気はしないが、どうにもむず痒い。お互い、今日だけで色んな初めてを奪い合っていると考えると。どうにも。



「今からでも遅いこたねえよ」

「なんかハルト、どっちかっていうとお父さんみたいだね」

「この歳でそれは褒められた気にならん」



「…………私さ。お父さんの顔、知らないんだ」



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