114. 時代が時代なら


 上大塚駅から徒歩数分。メインストリート脇に構えるスポーツジムは、これといって会員登録含め個人情報を垂れ流すことなく。利用するエリアやスペースを申告し、その分の料金を払うだけで簡単に入場することが出来る。


 決して自意識過剰などではなく、軽々しく自分の名前を明かす必要が無いのは有難かった。合宿での大久保さんとのやり取りを思い出せば、不要な情報開示が余計な悩みの種を撒き散らしかねないことを重々承知していたのだ。



 水着に着替え50mプールの端に突っ立っている俺のことを、まさかあれは、と興味深そうに見つめる視線は皆無であった。


 まぁこの数か月間、自身の名前や顔の持つ意味をほとんど考えず過ごしてきたわけだから、今更なにを取り繕っても意味の無いことではあるのだが。



(おっせーな)


 だるだるの海パンに、ペラペラのパーカーを引っ掛け立ち尽くす。


 この手の濡れても平気な奴は本来、日焼け予防で使うのが定石だが、水中で着ることで負荷が増え、トレーニングの増しにもなるのだ。



 更衣室の前で別れてから数十分経つが、彼女は一向に現れない。


 一人で勝手に泳ぎ始めても構わなかったが、夏季休暇真っただ中ということもあり思いのほか混雑していた屋内プールで、一際小柄な彼女を見つけ出すのは簡単な作業ではない。


 家族連れや年配者が多いとはいえ、若い男も少なくはないのだから、琴音を一人ほったらかしにしてというのも気が引ける。


 それ以上に「せっかく二人でいるのだから」とトレーニングには全くもって不要な感情が働いていたことも、否定はしないが。



 ところで、例のキーホルダーを紛失していたことに気付き、今日この街で会うまでジムに足を運ぶなんぞ微塵も考えていなかったであろう彼女。


 水着など持ち合わせておらず、購入することになったのだが。琴音の体形に適応した水着など、早々準備があるわけも無い。


 若い女性向けにオシャレな水着をジム内で販売していたのは大いに有難い話であったが、彼女がそれを文句の一つ無しに受け入れたのか、と尋ねられれば、無論そうではない。



「おっ、お待たせしました……っ」

「ういーっす」

「そのっ、変じゃないです、よね……っ?」


 琴音らしからぬ汐らしい態度がずば抜けて「変」だと言えばそれで終わる話だったが、その心情を察すれば無暗に扱うことも憚れる。


 スイカだ。

 スイカが二つ生っている。



(やっべーマジやっべー)



 適合したサイズの水着は無かったのだろう。

 身体をやや窮屈そうに縮こませている。


 これと言って装飾の無い、シンプルな黒いセパレートの水着から今にも溢れ出しそうな二つの果実。単純な作りとデザインが、彼女の本来のポテンシャルをこれでもかというほど強調している。



「どうにも慣れませんねっ……」

「その歳までスク水を貫いた方が驚きやわ」

「は、外れませんよねっ、これっ」

「現代社会の崇高な技術を信頼しろ」

「……やっ、やっぱり私には、似合わないです、こういうのは……っ」


 恥ずかしさか、嫌悪か分からない淀んだ表情はさておき。


 構造的にそう簡単には外れないだろうけど。もし仮に、背中の紐が解けてしまおうものなら。


 ライオットだ。大暴動の震源としてこれほど相応しいアイコンは無い。プールの授業が無くて本当に良かった。時代が時代ならセックスシンボルやホンマ。



「……変じゃないぞ、うん。変ではな」

「じっ、じゃあなんだってんですかっ……」

「いや、普通に可愛いなと」

「だからっ、そういうことを軽々しく……っ!」


 ガラス張りの天井から差し込む陽の光に当てられたそれではない。あとどれだけ赤面を晒せば、彼女は本来の顔を取り戻すのやら。



「おい、絶対に離れんなよ。絶対やぞ」

「……えっ、あ、はいっ」

「何遍も言うけど、自分の外見をもっと自覚せえ。いいな」

「……わっ、分かりました……」


 若い層に限らず、プールサイドから水中まで、大半の人間が彼女の上半身に視線を注いでいる。注ぐというか、見ずにはいられないというか。



 モデル体型の愛莉ともまた違う。二次元からそのまま飛び出して来たようなその体系。


 ポニーテールで纏められた長い黒髪も、あざといほどに映える。性的な面を除いても、見るなと言う方が無理な相談だ。


 スクール水着だった海ではちっとも恥ずかしがっていなかったのに。少し露出の良い格好になった途端、周囲の視線を自覚してしまうというのも、彼女らしいところというか、妙に可哀そうな気がしないでもない。



 渇望、或いは欲求という名の眼差しで積み上げられた雑踏を掻き分けるように、水中へ逃げ込む。水に浸かっている分には顔しか分からんし、まだマシだろ。



「さーってと。泳ぎますかっ」

「……あの、陽翔さん」


 不安そうな出で立ちで、パーカーの袖を摘まんでくる琴音。


 見下ろすその表情は、これといって批評する必要も無くただ純粋に可愛い。無用の高揚感を投げ捨てるように、少しぶっきらぼうに言葉を返す。



「あん、どした」

「そのっ……普通に泳ぐ感じですか?」

「他にどうすんねん」

「いや、それはっ……まぁ、いいですけど」


 なにを言いたいのかいまいち要領を得ないが、こんな真っ直ぐ泳いでくださいという以外のメッセージ性を感じないプールでやることなぞ一つしかないだろう。


 一応、端っこには浮き輪などを使っても良い遊戯スペースがあるのだけれど。

 ただ浮いているだけなら海で十分に楽しんだし、そっちに行く用事も無いし。



(調子狂うなぁ……)



 強引に着いてきたところまではいつもの琴音だったが、やはり慣れないビキニで明らかに挙動がおかしくなっている。


 こういう琴音も嫌いじゃないけど。

 かといって、このままも俺が辛い。


 少し、焚き付けるか。

 水タイプには相性悪いけどな。



「なぁ、琴音って水泳やってたんだろ」

「はい。小学生の頃ですけど」

「競争しようぜ。前は実質、無効試合やしな」

「……まぁ、構いませんけど」


 不思議そうな顔で頷き、隣のレーンに移動する。


 彼女の本質は良く知っているつもりだ。

 プライドが高くて、負けず嫌い。

 それなのに、自己評価は恐ろしく低い。


 どんな態度を取れば、彼女がどう応えてくれるか。この数ヶ月で学んだのは、三次元味の薄いロリ巨乳という、見たままの琴音だけではない。



「クロールですか?」

「ん。なんでもええで」

「じゃあ、よーいどんで」

「よーいどーん」

「あ、ちょっ……卑怯ですよっ! 陽翔さんっ!」



 無数の水滴が飛び散り、光と混じり合うように黒髪が揺れる。



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