64. このパスを出すために、生まれてきた
「アァァァァアアァァッッッッ!! クソがァァァァッッ!!」
響き渡る絶叫。
力任せに芝生を叩いたのは――――俺ではなかった。
「ハルトっっ!!!!」
「おっしゃああああああっっ!!!よくやったハルっっ!!!!」
「廣瀬くんっ、すごいっ!!」
「たっ、助かりました……っ!」
ゴール前に倒れ込む俺を、四人が次々と囲む。
辛うじて右足にぶつかったボールは、その勢いのまま甘栗の前へ飛び込んでいった。だがあまりに近い距離感。彼はトラップに失敗し、そのままラインを割ったのである。
フットサル部のボールで、試合は再開だ。
「馬鹿野郎ッ、点決めたわけちゃうぞッッ!! 散れ散れッッ!!」
「でもっ、凄いわよっ! なんであそこで戻って来られるのアンタってやつはっ!」
背中をバシバシ叩く長瀬は、どこか鼻声でもう笑っているのか泣いているのかも分からない。
それでも、十分だった。
この顔が、見たかったんだよ。
走った甲斐があったわ。なぁ。
「終わってねえぞ菊地ッ! 立てっ!」
林の怒号に身体をビクつかせた奴は、顔をパンパンと叩き、スクッと立ち上がる。帰陣する際には、俺の顔を親の仇でも見るような目で睨み付けた。
いや、凄い奴だ。お前は。馬鹿にして悪かった。FWとしては満点だよ。あの位置取り。シュートへの躊躇いの無さ。
ただ、相手が俺だったのが唯一の問題だな。
「……ていうか、どうするん? いや、終わってないけどさ。延長とかすんの?」
瑞希の疑念はもっともである。彼らもここまで試合が縺れるとは、まさか想定外だろう。こちらの消耗を考えれば、PK戦が有難い……が、楠美にこれ以上の負担を掛けるわけにも。
というか、そもそも。
このまま試合が終わるわけ、ねえだろ。
「……あと何秒残ってる?」
「多分、30秒くらい」
「おしっ……瑞希、パス出すからすぐ俺に戻せ」
「えっ? お、おぉ」
「で、長瀬。お前は…………一番前や。待ってろ」
「……どうするつもり?」
「最高のボールを出してやる。決めてこい」
言っただろう。伏線は張り終えたんだよ。
散々ボールを回して、攻めあぐねている「フリ」までして、我慢重ねたんだ。最後くらい、ド派手にやって貰わなきゃ、こっちが困るわ。
「…………ハルト」
「ヤキモキさせんな。お前の仕事は、ゴールやろ」
「……うんっ」
「信じてっからな。だから、俺を信じろ」
「…………うん、絶対に決めるからっ!」
差し出された右手を掴み、なんとか立ち上がる。
(信じる、ね)
一年前までの俺が聞いて笑う。
誰も信じられなかったから、こんなことになっているのに。今更、俺のなにに期待しろと。誰の、なにを期待しろと。
でも、違う。
コイツなら。コイツらなら。
俺が本当に見たかった景色を、見せてくれる。
共に見ることが出来る。
これで終わりだ、廣瀬陽翔。
そして、これが始まりだ。
「繋いで来るぞっ!」
「前から前からっ!」
「行けますよッ!」
サッカー部からの声援通り、奴らはこちらの陣地までポジションを上げ、カットを狙ってくる。
最前線の長瀬にこそ、林が付いているが……それで足りるわけ、ねーだろ。
「楠美っ!」
「はいっ!」
転がってきたボールを右足でトラップ。
詰め寄られるが、冷静に左サイドの瑞希へ。
仕掛ける振りをして、すぐさまボールは俺の足元へ戻ってくる。
(ああ、イイ距離感)
少し前なら、なんてことない30m弱のスペース。
何本、何十本。何百本のパスを通してきた。
膝が震えている。
疲労によるものか、或いは恐怖か。
そのどちらともかもしれない。
自信は無かった。
とうの昔に、失くしてしまった。
けど、それでも。
どんなに不細工でも、構いやしない。
このパスが、長瀬。お前に通るのなら。
それだけが、ただ一つの願い。
重なる視線。彼女の瞳に映る俺は、いったいどんな顔をしているだろうか。悪いことも無かった。むしろ、味わったことのない感覚。
あぁ、そうか。
俺。お前にこのパスを出すために、生まれてきたのかも。
「ダメだッッ、潰せッッ!!!!」
林の焦燥に満ちた声がコートに響く。
だが、もう遅い。
最後の最後で、ようやく気付いたようだ。
それだけは、素晴らしい。褒めてやる。
ただ、あと数秒。
あとほんの少し、前に気付いていたのなら。
勝負は分からなかった。
その一言は。
俺たちの勝利を明確にする、遺言。
「――――左利きだッッ!!!!」
さぁ、行ってこい。
準備は整えたぜ。
「決めろっ、長瀬ッッ!!!!」
俺を縛り付けていたのと同じものが、彼女にもあったというのなら。
それはもう外された。
自らの意志で、脱ぎ捨てたのだ。
ならば、あとはどうなったって良い。例え失敗したって。それは、彼女にとってはもう、失敗でも何でもない。
似た者同士、一緒に踏み出そう。
「あっ!」
誰かの素っ頓狂な、ひっくり返った声が近くから飛んで来る。次の瞬間には、自陣にボールの姿は無く。
それは悠々と、サッカー部たちの僅か数十センチ頭上をフライト。反対側のゴールへと、真っ直ぐな軌道で飛んで行った。誰もがボールの行方を見つめている。
ただ一人。
走り続けている奴が、このコートにはいた。
その目はまるで獲物を狩る鷹のような鋭さで。足取りはそれこそ、本当に翼でも生えているかのような軽やかさ。
疲れてんじゃなかったのかよ。
ホントに…………とんだ化け物だ。
ゆっくりと身体の向きを変え、飛んでくるボールを迎えるように走るペースを遅らせる。
あとは、簡単な作業だった。胸を付き出すように差し出すと、ボールは迎えを待っていたかのようにそこに収まり。胸元で小さくバウンドする。
その瞬間。間違いなくこのコートの時間が止まっていた。
たかが胸トラップからのシュートに何故ここまで感動してしまうのか。自分でも分からない。瞬きの時間すら惜しく感じるほどの、うっとりするような高揚感。
ただひたすらに、美しい。
まるで、海を飛び出して宙を舞う一頭のイルカ。或いは、しなやかで弾けるような背筋。それはどことなく、バレリーナに近いかもしれない。
身体は雨空と僅か零点数秒だけ飛び回り、やがて同化していく。
永遠に続いてほしい、そんな気さえする。彫刻品に感慨深さや歴史の移り変わりを想像してしまうほど、俺の感受性はさほど豊かではない。
それでも目の前で起こっている現象に、なにか芸術めいた美しさを覚えていたのは確かで。
初めて芝生の匂いを直に感じたあの日の俺が、帰って来る。ただ広がる景色に見惚れ、憧れ、惹かれていたあの日。
けれど、出来ればそれは二度と、俺の視界や思考回路に現れることすら許し難いもので。決して帰って来ないあの日々と記憶を心臓の裏から呼び戻す、最低で、最悪な感情。
結局、全てはたった一言に起因し。
あるべき場所へ終結してしまうのだ。
(――――すげぇ)
誰もが言葉を失い、目の前で起こった現実に一切のリアリティーを感じられない。
右足から繰り出された華麗なバイシクルシュートがゴールネットへ突き刺さったことに気付くまで。俺たちは数秒の時間を要することとなった。
【後半9分45秒 長瀬愛莉
フットサル部4-3サッカー部】
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