46. 何一つ、変わっていない
重い身体を競り上げて、枕もとのスマートフォンを握る。
夕方の5時を少し回ったくらいか。強まる雨脚のおかげか、時間の感覚をちっとも掴めない。
昨日、半分だけ食べて残していたコンビニ弁当の残りが、やたら不味そうに見えた。低血圧の成せる業か、単純な嫌悪か。ともかく「よくこんなもの食えたな」と悪態を付ける程度に意識は回復していたけれど。
この三日間、学校にすら行っていなかった。
いよいよただの不登校である。
担任から心配の電話が掛かってくることも無い。放任主義もここまで来れば放置の領域だ。
ぼさぼさの髪の毛を乱暴に掻き毟り、テレビのリモコンに手を伸ばす。ニュース番組なんてこの数年、ほとんど見たことがなかった。そもそもテレビを買うか迷ったくらいなのだから。
それでもこうして天気予報を眺めている辺り、あぁ、本当に変わってしまったんだなと、一人で納得している。それをどうとも思わない自分に、殊更に苛付いているが。
(明日、か)
もう三週間も前になるあの日の記憶が正しければ。サッカー部との試合は明日、土曜日。
午後からは、また雨が降るらしい。もっとも、いつから始まるのかすら把握していなかった。確認する術は、無いわけでもないけど。
スマートフォンの画面が何度も点灯しては、消滅を繰り返す。SNSアプリには100件を超える通知が溜まっていた。その一つでさえ、見ることが出来ていない。
そこに何があるのか、分からないとは言えなかった。彼女たちから送られてくるメッセージは、決して悪意に満ちたものなどではない。
そう分かっているのに、やはり指は動かなくて。かといって、アプリをアンインストールするほどの余裕も無くて。やり方が分からないと言い聞かせないと、いよいよ発狂してしまいそうだった。
テレビを消して、なんとなく。
何が意志があるわけでもなく、ただなんとなく。
パーカーと白Tシャツが大半を占めるクローゼットに足を運んだ。一番目立たないよう、奥の方に押し込んでおいた、二つのそれ。
やたら目立つピンクを基調としたものと、一面真っ青のユニフォーム。そのいずれにも、10番がプリントされている。
見たくないなら、持って来なければよかったのに。さっさと捨ててしまえばいいのに。上京するときに、どういうわけか、最後の最後に引っ張り出して、持って来てしまった。
「同じや、全部」
あの頃から、俺は何か変わったのだろうか。自己中心的で、勝利だけを追い求めて。俺以外の人間をすべて蹴散らして。
これが自分だと、廣瀬陽翔だと。
証明したくて。走り続けるだけの日々。
変わっちゃいない。
何一つ、変わっていない筈なのだ。
俺はいつまでだって変わらない。俺は、俺のまま。ただ、そうである必要が無くなったという、それだけの話で。
そう、一つだけ。
変わったことがあるとすれば。それはきっと。
「っ……電話……?」
その時だった。
SNSアプリの特徴的なそれではない。シンプルに、携帯の着信音が鳴り響いて、酷く驚いてしまう。
俺に普通の番号で掛けてくる奴なんぞ、果たして存在しただろうか。今更このタイミングで担任が電話してくるはずもないし、他に心当たりも無い。
数回のコールを聞き終わって、留守番サービスに切り替わる。そこから聞こえてきたのは、あまりに望外で、或いは聞きたかった。いや、やっぱり、どうしても聞きたくなかった彼女の声だった。
『……えっと、私です。あ、そう言っても分かんないか。長瀬愛莉。担任から教えて貰いました』
『ま、まぁ、別に!? 聞いてくれなくたって良いんだけどっ! 私も、たまたまじゃんけんに負けて、電話してるだけなんだからっ!』
『…………だから、その……明日、昼の1時から、試合だから。その…………そんだけ』
『別にっ、絶対に来いとか、言わないけどっ! むしろ来たところで大きなお世話だけどっ!! 絶対に許さないけどッ!!』
『…………許さないから、来なさいよ。観るだけでも、いいから』
『私たちが、本気だってこと、アンタにも見せたいから。いいっ、分かったっ! 分かったなら連絡の一つくらい寄越しなさっ』
……………………
「……20秒で捲し立てんなよ。聞き取り辛いわ」
どうでもいいツッコミがいの一番に出てきてしまったのは。
きっと、嬉しかったからなのだろう。何せ、三週間。三週間もの間、彼女と話していなかったのだ。それが一方的なものだったとしても。
やはり、逃れられない。彼女が。
彼女たちが俺に与えたものは、あまりに大きすぎて。
俺は、アイツらに何が出来るんだ。
長瀬は言った。自分からボールを取り上げたら、なにも残らないと。それは俺も一緒だ。でも、彼女は受け入れられた。部活仲間ではない、ただの友達として。
俺に、その資格はあるのか?
少なくとも俺は、彼女らの友達を名乗るだけの、何かを持っているのか。或いは、何も持っていなくても。それを許されるだけの人間なのか?
グルグルと脳内をリフレインして、気付けばまた振り出しに戻る。
答えはすぐそこにあった。
それを見ようとしない俺に足りないもの。
「…………ばっかみてえ」
恐れているのだ。
誰の手も借りようとしなかった俺が。
いつだって、一人で生きてきた俺が。
これ以上、嫌われるのが怖いとか、そんなしょうもない意地を張っていることに。
とっくの前から気付いていた。今の俺が、一番やってはいけないことをしていることも。そこに、ただ一つ「勇気」さえあれば、すべてが解決することも。
スマートフォンの充電が、プツリと切れて、画面が暗くなる。真っ暗な画面の先に見えた自分であるはずの顔が、何故か歪んでよく見えなかった。
あぁ。俺、泣いてるんだ。
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