44. 所詮、こんなもん
その言葉の真意に迫る間もなく、彼女はその場を後にした。
声を出し過ぎてどうにもふらつく身体を支え、慌てて峯岸を追い掛ける。追い掛け、ようとした。
外の4人が、練習を終え横の扉からこちらに戻ろうとしていることに気付く。
カーテンで身体一つ分隠れていたから、近くで練習しているところを見られたのだ。まさか、会うために来たわけではない。
会える筈がない。
どの面下げて、なんて言うんだ。
なんとしてでも見つからまいと、急いで死角に隠れる。この際、他の部活動の連中の視線だってどうでもいい。すぐ脇の柔道場からは奇怪な視線がチラチラと飛んできているが、致し方ないことである。
今、俺が感じている罪悪や羞恥に比べれば、比にもならない程度だ。
「やっぱり、廣瀬くんとちゃんと話さないといけないよ」
突然聞こえたのは、間違うわけもない。俺の名前だった。会話が苦手な奴は、自分の名前が出ると過剰に反応するのだ。聞き間違えなどしない。
物陰からソファーを覗く。目が悪いからはっきりとその表情までは伺えないが。景気の良い話ではないことくらい、見えてなくても分かる。
俺の名前を呼んだその人物、倉畑比奈は、やはり眼鏡をしていない方がずっと可憐に映る。
「確かにびっくりしたけど……でも、廣瀬くんも、本気で言ったわけじゃないと思うな」
それは、思い過ごしだ。
このメンバー、この実力で勝てるなんて、これっぽっちも思っちゃいない。なら何故、この場で盗人甚だしく聞き耳など立てているのかと問われたら、その通りだけど。
「そんなの、分からないわよっ」
不機嫌そうに、長瀬が口を開いた。
「別に、もういいし。アイツが戻ってこなくたって試合はするし。ていうか、謝っても許さないからっ。マジで、ヘラヘラして戻ってきたら殺す」
お前が言うとちっとも冗談に聞こえない。
まぁ、本気だろうな。長瀬に限って。
「そうは言ってもな長瀬。初心者チームの域は出てないんよ、あたしら。こういうの、なんて言うんだっけ。マケクサイ?」
「……負け戦ですか?」
「それそれ。さすがくすみん」
「常識です」
彼女たちだって、分かっている。
この試合が揃って5人だったとしても。
勝ち目の薄い戦いだということ。
それでも、サッカー部との勝負に拘った理由。
彼女は明かしてくれた。証明したいのだと。
面白いとも思ったし、馬鹿馬鹿しいとも思った。ただあの長瀬が言うのだから、本気なんだろうなということだけは、分かっているつもりだった。
「……正直に言うと、ね」
目を疑った。
下がり続ける視力のせいではない。
あの、今にも死にそうなほど憔悴した、長瀬によく似た女は、いったい誰だ。
「私も、分かんない。ハルトにも、サッカー部にも、絶対勝てるって言っちゃったけど」
「勝負事に絶対ということも無いでしょう」
「違うの、楠美さん。私、勝たないと……勝たないと、全部ダメになっちゃうって…………まだ思ってるのかも」
聞き覚えのある言葉が、俺から正反対の人間から飛び出したのだから。
息ぐらい、呑む。呑ませろ。
「……長瀬ってさー。結局ナニモンなわけ?」
「えっ……瑞希ちゃん、どういうこと?」
倉畑の素朴な疑念に答えようとしたわけでもないだろうが、それらしい表情を作った彼女は、こう続ける。
「いやほら。あたしはさ、昔から趣味だし、こう、なんとなく分かるじゃん? あーフットサルとかやってそーだなーって。でもほら、長瀬って、なんか違うじゃん」
「……確かに去年、貴方とは同じクラスでしたが、このような趣味があるという話は一度も」
言われてみれば、そうだ。
金澤の主張や楠美の納得も、理解の範疇である。
長瀬愛莉という奴は、日常生活においてフットボールとの関わりをほとんど。いや、全くと言っていいほど周囲に見せない。
俺がそのことを知ったのも、コートでたまたま出会ったのがキッカケに過ぎず。クラブチームでプレーしていた、という話以外に、自身のことを教えてもらったこともさして無い。
「……別に。ただ、ほんのちょっと周りより上手かったってだけっていう、それだけ」
「うえぇっ? ちっ、ちょっとちょっと……なに、どしたの長瀬? めちゃやり辛いんだけど……」
「いいわよ、馬鹿にしたって。ホントの私なんて……所詮、こんなもんよ。馬鹿で、ネガティブで、そのクセ自信過剰で…………ヤになる」
そのまま顔を膝元に埋め、いよいよ覇気もゼロに近い。
本当に、誰なんだアイツは。確かに、俺は言った。出会ったその日に、もう指摘していたことだ。根は陰キャだ、お前は。と。
だが、それが彼女のすべてではない。見え透いた虚勢も、過剰なまでの勝利への執着も。それはそれで、長瀬らしさであった筈なのに。
それらすべて否定するような、瞳を流れる澱み。
「あのさ……
「うん。知ってるよ。東北の学校だよね。中高一貫で、スポーツとか強いとこ」
常盤森学園なら、俺でも知っている。
倉畑が答えたように、スポーツにおいては日本有数のレベルを誇る金満私立だ。特にサッカーと野球は、毎年のように全国大会で優勝争いを繰り広げる強豪校として知られている。
そして、常盤森学園にはその名前が出る前に、ある枕詞が付くことが慣例である。
「常盤森……あ、あそこか。聞いたことある。「なでしこの故郷」てやつでしょ」
「あー、うん。それそれ……あんまり言い触らしたくないけど」
ダサいことこの上ないフレーズだが、なでしこが意味するところを考えれば、実に分かりやすい。
常盤森学園は、女子サッカーにおいては全国に敵無しの、文字通りの最強チームなのである。
OGから現役まで、代表選手の半数は常盤森の選手が占めており、卒業生の8割はプロになる。なんなら高校のトップチームは、全日本大会でプロ相手に勝利することも珍しくないほど。
まさに日本の女子サッカーを牛耳る存在だ。その名前が、長瀬の口から出てきたということは。
彼女は少しだけ顔を赤くしながら。
けれど、ため息の量は変わらず、話を始めた。
「中学まで、そこのサッカー部だったの。わたし」
「だから愛莉ちゃん、あんなに上手いんだねっ」
「どうして辞めてしまったのですか? そこに居続ければ、プロへの道も安泰だったでしょうに」
「…………わたし、落ちこぼれだったから」
多分今日一で驚いている自分がいる。
長瀬が、え、なに?
落ちこぼれ? 勉強じゃなくて?
「チームでも下から数えた方が……っていうか、間違いなく一番下手だった」
「まー長瀬はメチャクチャ上手いってわけじゃないけどさー。ゆうて本職は点取り屋でしょ?」
「そもそも試合に出れなかったし……練習で点取っても、他のことが出来ないからって」
「そんなっ……愛莉ちゃん可哀そう……っ」
「でも、下手くそなのはホントだからさっ……それに理由は他にもあったし」
そして彼女は、当時の出来事。まだ鮮明に覚えているであろう数年前の記憶を、なるべく自傷に当たらぬよう、ゆっくりと。言葉を選びながら、語り始める。
その表情は、ガラス越しに見た数分前の自分と、酷く似通っていて。
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