21. 美味しいケーキは私を幸せにする
午後から降り出した小雨により、放課後の初練習は中止となってしまった。
長瀬と金澤は特に悔しがっていたが、初心者二人をいきなりずぶ濡れのなか練習させるのも酷だろう。結局、初日は水曜まで持ち越しとなった。
俺としては、気楽で良いのかどうかも分からない。既に毒されている証拠だ。
さて。月曜の夜は、俺にとってもう一つ大切な用事が入っている。大家の親戚の中学生に勉強を教えるという、家庭教師のような何か。
週二で日給五千円。並の高校生には高すぎる金額だ。加えて仕事と言っていいのかも微妙なところである。相手も相手だし。
「あのっ、廣瀬さん。ここなんですけど……ジェシカの好物はってところです」
「んー。あぁ、これはほら。makeA Bって教えただろ。AをBにするっての。下線部ちゃんと読みな」
「『美味しいケーキは私を幸せにする』ってことですかっ?」
「そーゆーこと」
「あ、じゃあケーキで良いんですねっ!」
勉強机に向かう彼女の隣に座り、分からなかったら雑に解説。これだけ。汚れ掛けた眼鏡をワイシャツで拭い、再び問題集を解き始める彼女を捉えた。
受験対策真っただ中の可憐な少女である。
肩まで掛かる茶髪掛かったミディアムショートは彼女の母親によく似ていた。まだまだ顔は幼さが残るが、もう少しすれば長瀬たちに匹敵する美人になるだろう。
僅か二時間ほどのレクチャーだが、彼女とのやり取りすら俺にとって日常の数少ない会話機会である。で、あった。
「なぁ有希。お前ホンマに山嵜行くんか」
「えっ……今の偏差値じゃ足りないですかっ?」
「逆。もっと上も狙えるやろ。なんでまた山嵜に」
「そっ、それは……えと、施設も充実してるし、制服も可愛いし、いい学校じゃないですかっ!」
慌てて理由を説明してくれた彼女の顔は、林檎のように真赤になっていた。他に明確な志望動機でもあるのだろうか。聞かないけど。
というか、俺が家庭教師として勉強を教え始めた頃は、もっと上の高校を志望していた筈だ。よほど山嵜に惹かれたものがあったんだろうか。まぁ目標があるのは良いことだ。俺と違って。
「あの……すっごくどうでもいいことなんですけど、聞いてもいいですかっ?」
「どした」
「やっぱり一年生と上級生って、関わりは少ない……ですよねっ?」
「知る限りはほとんど無いな。体育祭もクラス対抗だったらしいし」
「らしい、ですかっ?」
「サボった」
「えぇっ!? 駄目ですよ、ちゃんと出ないと!」
こういうしょうもない話に全力で応えてくれる存在、大切にしたい。
いや、でも、どうしようもないのだ。
そもそも体育祭は日曜開催だったらしく。
そのことを知らなかった俺は、普通に寝て過ごしていて。月曜の登校したらその話題で盛り上がっていて、あ、終わったんだなと。しかも聞き耳立ててみたら、昨日の出来事とか。
誰も教えてくれなかったんだぞ。
もはや笑うわ。
「じゃあやっぱり、部活動とかですかっ?」
「せやな」
「でも廣瀬さん、部活やってないんでしたよね」
「……いや、最近始めた。多分」
「たぶんっ?」
「入らされたというか……」
この数日の間に起こった出来事を正確に説明出来るのなら、俺はコミュニケーション能力で悩んだりしない。人生そのものを勉強したい。
「ちなみに、どんな部活ですか?」
「フットサル部、やな。うん。一応」
「へぇーっ! そうですよね廣瀬さん、サッカーやってましたもんね。そっかぁ……!」
俺が関西でサッカーをしていたことを、彼女は既に知っている。大家から聞いたとかなんとか。
ただ、何故こちらに来たのかまでは知らない。話したくもないし。彼女もそんな鬱々とした昔話には興味無いだろう。
有希は下を向いたまま、何やらブツブツと呟き始めた。お喋りが苦手だから、こうやって頭のなかを整理しているんです。とは本人の弁だが。
こうして近くで見ると、結構ヤバい奴感はある。
落ち着きがあるようで無い不思議な子だ。
「……それ、来年もありますか?」
「フットサル部が? まぁ、全員二年やしあるんじゃねえの。知らんけど」
間違いなくあるとは言い切れなかった。そもそもまだ部活動として成立していないとか、ここで言うべきではないだろう。俺が知りたいわ。
「わたし、入っていいですか? フットサルよく分からないですけど、サッカーと似てるんですよね?」
「そりゃまぁ構へんけど……いや、他にも色々あるし、もっと考えなって」
「いいんですっ。高校で何か新しいこと始めたいなって、思ってたんですから」
「あ、そう……」
「それとも、ごっ、ご迷惑ですか……っ?」
少し潤んだ目でこちらを見つめてくる。なまじ容姿が整っているから、あまり直視されると目のやり場に困るのだ。
いくら年下の中学生とはいえ、可愛いものは可愛い。長瀬くらい可愛げが無かったら、もうちょっとマシな対応も出来るだろうが。
「い、いやいやいや。そんなことないて。アレや、むしろ有希が入るなら俺もやりやすいし」
「ほっ、本当ですかっ!」
「あ、あん。まぁ期待しないでおけ」
「分かりましたっ! 絶対に合格しますっ、わたし!」
瞳に闘志を宿らせ、再び問題集と向き合う有希。
俺と同じことやって、なにが面白いのだか。
こんなに可愛らしい顔してるんだから、男なんぞすぐに寄って来るだろうに。分からんものだ。中学生の気持ちなんて。
当時の自分のこともよく覚えていない。忘れた方がよっぽど身のためなのは、十分理解している。
午後八時過ぎ。
授業と言う名のお喋りが終了。
早坂家を出ようと靴を履いていると、彼女の母親がキッチンの奥からこちらへ駆け寄ってきた。なんだクレームか。
「待って待って! お給料渡してないんだから。もうっ、アルバイトなんだから忘れちゃ駄目よ」
「……あの、ホンマ大丈夫ですから。こんなんアルバイトのうちに入りませんよ。大したこと出来てませんし」
そのまま帰ろうとしたが見事に失敗した。手には薄手の封筒が握られている。たかが高校生に渡すには高すぎだ。ひと月で四万だぞ、使い切れない。
しかし早坂母は、そんな俺の言葉を否定するよう、ハッキリと首を横に振った。
「ううん、良いの良いの。廣瀬くんが来てくれるようになってから、成績もちゃんとい上がってるし、受験勉強も頑張ってるの。感謝してるのよ?」
「はぁ……まぁ、お母さんが納得されているなら、構わないですけど」
「それにあの子、廣瀬くんのことすっごく気に入ってるから……っていうか、大好きだし?」
「いやいや、んなこと無いですって。中学生は怖いでしょ、男子高校生とか」
「あら、そんなこと無いわよぉ? なんなら今すぐ付き合ってくれてもいいのに〜」
お茶目にウインクする早坂母であった。
本当に若い。女子大生でも通用する愛嬌だ。
しかし、有希が俺のことを……見てりゃ気に入られてるのは分かるけど、流石にそれは。
「有希さんが真剣なら、まぁ一応考えますけど……高校入ったら彼氏ぐらいすぐ出来ますよ。美人やし」
「それが廣瀬くんなら、私的には願ったり叶ったりなんだけどなぁ?」
「ははは……」
愛想笑いでやり過ごす程度の人間だ。勘弁してくれ。
早坂家を後にし、原付でそのまま帰路に着く。雨はほとんど収まっていた。行きは辛かったけど、交通費を考えれば安く付く。良い買い物だった。
(あ、晩飯ねえ)
冷蔵庫の中身が空っぽになっていたのを思い出す。スーパーはさっき通り過ぎてしまったし、他に当ても無いしな。コンビニで良いか。
自宅から早坂家は駅で五つほど離れており、この辺りの土地勘はほとんど無い。というか、自宅近辺以外は全く知らない。倉畑と行った上大塚の用品店もたまたまチラシで知っただけだし。
近くにコンビニがあったので原付を止め店内へ。さてどうしたものか。お金の心配はいらないが、かといって貰ったばかりの給料を使うのもな。
あ、なんや唐揚げ串あるやん。もうこれでええか。大して腹減ってへんし。
後は…………あれだな。
店員があまり関心の無いタイプだと良いが。
「すいません、唐揚げ串一つと、73番を」
「あ、はいっ! からあげと73番! よろこんでっ!」
居酒屋かい。
やたらテンパる女性の店員。顔見てないけど、まだ若そうだったし入って数日ってところか。研修バッチっぽいの付けてるな。
今は人いないけど、割と忙しい時間帯にワンオペとか可哀そうに。カウンターから商品を取り出そうと悪戦苦闘している。がんばれがんばれ。
「73番でしたよねっ!この銘柄で合って―――あれ」
「…………あ」
「えっ、ハルト? なんで?」
いや、こっちの台詞なんですけど。長瀬さん。
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