人見知りのチンアナゴ

きさらぎみやび

人見知りのチンアナゴ 

「チンアナゴが人見知りするようになったんだって」


向かいのソファにだらしなく座った同居人のマリコがスマホを見ながらつぶやいた。私は書きかけの原稿から顔を上げて彼女を見る。


「どういうこと?」

「水族館にお客さんが来ないから、人を怖がるようになったんだって」

「ふーん。でも海の中にはふつう人は来ないよね。

 実は当たり前なんじゃないの。ていうかチンアナゴって変な名前だよね」

「確かに。言えてるかも」


どうでもいいような話をしながら再びパソコン上の原稿に目を落とす。

雇われモデルをやっていて、今のご時世絶賛休業中のマリコの分までこの原稿で稼がなければならない。こっちだって吹けば飛ぶよなフリーのライター稼業だ。もともとの実入りが少ないから数をこなさないといけないのに、取材もまともにできない状況なのだ。なんでもいいから仕事が欲しい。とはいえ直接会って仕事をもらうのはもはや難しいし、ネット経由の仕事だと単価はスズメの涙。

この女、そこんとこ分かってるんだろうか。分かってないだろうなぁ。


誰しもがマスクをつけないと人に会えないようになって実感したのは、「目は口ほどにものを言う」という格言の偉大さだった。これまでとりたてて意識したことはなかったが、こちらを見てくるオヤジどもの目線が否が応でも強調されることになった。いままで見ないようにしてたんだなぁ、と自らの精神防衛本能にほとほと感心する。


そう考えると、マリコなんて仕事でもっと沢山の目線にさらされているはず。図太いのか、無頓着なのか。私にはちょっと無理だな。

いかんいかん、原稿原稿。今日の21時が締め切りなのだ。ラストスパートをかけなくてはならない。


「ねえ見て、りっちゃん、この子かわいくない?」


こっちの焦りを知ってかしらずか、マリコがスマホをこちらに見せてくる。

画面には白いぷよぷよとした生き物が映っていた。思わず反応してしまう。


「なにこれ、ベルーガ?」

「シロイルカだって」

「一緒じゃないの、それ」


画面の中の白い生き物は、プールの端を歩く飼育員を追いかけている。飼育員がかがんで掃除を始めると、かまってもらえると思ったのか、プールのふちに頭を預けてブブブブブブ、とうがいみたいな声を上げている。振り向いた飼育員が手をかざすと、嬉しそうにキャッ、と叫んで大きくのけぞった。


「遊んでるみたい~かわいい~」マリコはへにゃへにゃと笑っている。


白い生き物はなにが面白いのか、飼育員さんを追いかけては何度も何度もその遊びを繰り返している。「もう、それやるの何度め?」飼育員さんも呆れている。5歳児か。


「5歳くらいの子供みたいだよね」


思っていたのとおんなじことをマリコがつぶやく。

なんだか嬉しくなって私は自分のことを棚に上げて彼女に言う。


「なに、マリコ。5歳児のことなんてよく知らないでしょうに」

「そりゃそうだけどさ。まあなんでも子供はかわいいじゃん」


「やっぱりマリコも子供は欲しいって思う?」…とは聞けなかった。

勢いあまって同棲を始めたものの、この状況では先のビジョンはどうにも描けていない。今を生きていくのでいっぱいいっぱいだ。

それでもさっきみたいにふとした瞬間を共有できただけでも、付き合ってよかったと思う。まだまだ私たちのようなカップルは珍しいと思われているのだ。そう、人見知りしないチンアナゴくらいには。





「あ、待って待って、続報。チンアナゴちゃん、水槽の周りにライブ配信の画面並べたら人見知りしなくなったんだって、良かったね~」


意外と図太いなチンアナゴ。かわいい顔してやりやがる。


「そりゃ良かった、どうにかなるもんね」


まあチンアナゴよりは頼りになるでしょ。

マリコの顔を一瞥してから、私は原稿との格闘を再開した。





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