スラム街の被食者

gomma隠居中

スラム街の被食者

まるで灯油売りか雛祭りか、悲壮感にまみれた短調の電子音に合わせて、うす埃をかぶったような色の地面に降り立った。ついさっきまで乗っていた水色の線が入った銀の大きな箱は、警戒音を鳴らしながら機械的に扉を閉めただろう。のぼり階段に向かって歩みを進めていると、視界の端の銀色がゆっくりと動きだし、やがてスピードを増して流れていった。こうなるといよいよ私は戻れない。

電車に閉じ込められているほうがよほど気分がいい。こんな、世界の行き止まりみたいな街で絶望に震えながら4時間半も閉じ込められるくらいなら。

…ああ、今日も労働がはじまる。

早く死にたい。


下界の地を踏むといつもながら地獄であった。

陽が暮れはじめの空はまだ明るいけれど、明るいというよりは赤だった。本来、夕焼けというものは美しいものとされているはずだ、しかしながら、この街に美しさだとか、感動だとか、そのようなものは無縁のように感じる。道そこらに寝そべるホームレス、異臭を放ちゴミをまとい亡霊のように徘徊する浮浪者たち、たばこの吸い殻や破り捨てた成人誌の切れ端のようなポイ捨てごみの数々。極めつけに、騒音の洪水とともにぬらりと出てきた虚ろな目のサラリーマンが側溝めがけて唾を吐いた。ガラガラ声の咳を霧散するだけでは飽き足らずか、ボリボリと遠くからでも聞こえるほど激しく頭皮を掻きむしり大量のフケまで撒き散らしている。

閻魔大王でも潜んでいるのかと思うほどにけがれた此処は、まるで街全体が心霊スポットか悪霊のアジトのようだ。東京だって、南東のはずれにも来てみればこんなにも生き地獄だ。

でも、今日の地獄はまだまだ始まったばかりだ。

きょうはクソ客に当りませんように、平穏に過ごせますように。

そう念じながら、三途の川を渡った先にある地獄の門、もとい、赤い自動ドアをくぐった。


三角巾に髪をひっつめ、赤いエプロンを後ろ手で装着すると戦闘準備は概ね完了だ。普通の人は。

私は此処でもうひと手間。ロッカーの中から小包装の不織布マスクを取り出すと、透明のビニール包装をやぶり顔に装着した。鼻の針金はこれでもかと折り込み、決して高いとはいえない鼻筋と小鼻の間になるべく隙間無く食い込ませる。そして、鏡に向かって笑顔の練習…と思ったら大間違いだ、咳払いの練習。エホンゴボン…眉根に深く皺を刻ませ、心底苦しそうな表情を作る。よし、これで完璧だ。

ロッカー室の電気を消し、まずはそっと扉を少し開ける。売り場と面しているから、辺りにぶつかりそうな人が居ないのを確認してから、ロッカー室を出て施錠。鍵を返すため、レジ裏の事務所へ歩みを進めていると、店舗入口に近い方のレジから怒鳴り声が聞こえる。出勤早々戦争とか、勘弁してくれ。


「134円だって言ってんのよ!アンタこれ81円しか無いじゃないのよォ払いなさいよっ!」

「るっせーなババア有るっってんだろうが死ね!!」

棚の陰から様子を伺ったところ、普段とても温厚で善人のカタマリといった印象の日勤おばちゃんが、明らかにクソ客といった風情の老男と揉めているようだ。あんなに大きな声を出したおばちゃんは初めて見るし、クソ客はクソ客で金額が足りていないのにもうワンカップ日本酒の蓋を開けようとしている。顔はゆでだこのように赤いし、距離を取って様子をみている私のもとまで漂ってくるほどの腐敗臭だ。

そうこう揉め合っているうちに老人が一瞬下を向いた、次の瞬間、日勤おばちゃんの怒号が狭い店じゅうに響き渡った。

「いま唾吐いたでしょうっ!?!?汚い!拭きなさいよ!汚いから拭けっつってんのよ!」

「るせー吐いてねえよクソが!」

…もう、なにこの職場、最低すぎる。たしかに老男の足下には少し泡っぽい液体が蛍光灯を帯びてきらきらと反射している。うわ、見ているこっちが吐きたい。早く出てけ客、そして頑張れおばちゃん。と、おばちゃんが怒りに震えて顔色をみるみる熱くしている。沸騰するやかん。

「…二度と来ないで!早く出てって。早く出てけっつってんだよクソジジイーーー!!二度と来んなァー!!!」

とうとう、大絶叫とともにクソ客を追い出してしまった。自動ドアが閉まり、老人の姿が見えなくなったのを確認すると、ようやく私は事務所に駆け込むことが出来た。鍵を返すと、たまらずおばちゃんに声をかける。

「小林さん、おはようございます…そしてお疲れさまです!かっこよかったです!!」

おばちゃん改め小林さんは、みるみるうちに鼻を赤く膨らませ、表情を崩した。そして、戦の最中も途切れなかったレジ行列を淡々と裁き、ひと仕事終えた別のパート主婦も駆け寄ってきた。

「コバちゃん〜辛かったねえ!頑張ったねえ!私でもあんなに言えなかったと思う…怖かったね」

「広瀬さんんーー!怖かった!けど、これくらい言わないと、ああいう奴減らないと思って…」

涙声で安堵の表情を見せる小林さんと、普段は気が強くて思ったこと何でも言うタイプにもかかわらず珍しく不安の色を浮かべた広瀬さんが労いあっているうちに、私はバックヤードにダッシュした。


アルコール除菌液と濡らしたモップを引っ掴んで戻ってくると、時刻はもうシフト交代の時間ギリギリになっていた。今日は広瀬さんが時間帯責任者なようで、号令をかけてくれる。が、夕勤が一人足りない。

「蓮沼さーん、引き継ぎしたいんだけど…鍋島くんって、まだ来てないよね?」

「あっ確かに。あれ、遅刻とかなんか電話来てないんですか?私このままワンオペ…?」

もしかしてワンオペ、と口では困ったそぶりをみせているが、実際のところこの状況を喜んでいる自分がいる。確かにワンオペは嫌だし、このまま人員が足りないと日勤のどちらかが残業するはめになるので申し訳なさはある。しかしながら、それ以上に、

「おはようございまーす。すいません、2丁目のヘルプだったんすけどちょっと店長に捕まっちゃって」

会いたくなかった。

「あ、鍋島くーん!よかったぁ、来ないかと思った」

むしろ来なくて良かったのに。何で来るんだよ…。

「えっヘルプなんて聞いてないんだけど〜?あの足クサ店長、ちゃんと連絡してよね〜」

私の気持ちとはうらはらに、小林さんは安堵し、広瀬さんは店長の愚痴をこねつつ鍋島の登場に口角をゆるませている。

この男、鍋島は、この地獄のような街にてんてんばらばらに構える小規模スーパーの中でアイドルのような存在だ。顔はジャニーズみたいに整っているし、身長は少なくとも170は超えている、表面面が良く力仕事などもまめにこなす。

だが、私は知っている。この男の、化けの皮を剥いだ本当の姿を。


この街、蒲田は私にとって地獄のようなところで、でも、本当の地獄は鍋島元カレとともに過ごす、週3日の4時間半であった。

今日も私は、しんどさと気持ち悪さと愛憎をマスクの内側に隠して、レジを打つ。


さあ、本当の生き地獄のはじまりはじまり。

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