第130話
「…………」
エスターの身体に傷が増えた。
右の脇腹から左肩まで一直線に伸びる赤色の線からじわりと液体が滲み出る。
致命傷ではない。
薄く切られた程度のものだ。
エスターはまだ倒れない。
だから、ミアの攻撃の手も緩まない。
「フッ!」
速く、勢いの乗った刺突。
ミアの伸びた腕を掴み地面に背負い投げようとするも、軽やかに着地。
彼女は次の攻撃へと転じる。
「ハッ……!」
ミアの足はエスターの頭部に向けて勢いよく伸びる。
「……っ」
避けきれなかった。
「ぐっ、はぁ……ぁ」
フラフラとエスターの瞳に映る世界が揺れる。
このままでは不味い。
首を何度か横に振ってから、彼女へと視線を向け直す。
幾ら痛みに鈍感になろうとも脳への衝撃を誤魔化す事は出来ない。脳の信号により身体は感覚を受け取るとしても、脳への衝撃は確かにあるのだ。
無理をして動かすという話とは全く違う。
「はぁあっ!!」
真っ直ぐな殺意がエスターの胸を抉る。
避けられなかった。
心臓部に向けて異物が入り込んでくる。鋭いソレが内部までを拓く。
「ああああああああああああああああァァアアアアアッッッ!!!!」
叫に応じてエスターの奥の奥まで、ナイフが入り込んでいく。
痛みは薄い。
エスターに死の感覚が近づいている。銃を、トリガーを引けば殺せる。エスターにも分かっている。分かっているが、身体が動かない。
死が充満する。
心臓から脳へ、更には指先まで広がっていく。
「ごふっ……か、っは。あ、がっ、ふ……あっあ、まだ。まだぁ……死ぃぇない、ぉにぃ。おぇは……平和な、せ、ぁい、が」
彼の胸からズルリとナイフが抜ける。
途端に彼を支えるものも無くなったからか、無抵抗に地面に倒れてしまう。
「…………」
彼を憐れむ気持ちなどミアにはなかった。
彼はただの敵で、アスタゴを滅茶苦茶にした元凶の一人で、殺されても仕方がないような存在なのだ。
妹の仇。
「……シャーロットさん」
何よりも、エスターは確実に一人の命を奪った。どんな目的であれど許される事ではない。
「エイ……デン」
平和な世界を願った同志。
共に戦うと決めたというのに、平和に辿り着く筈の世界にエスターはもう立てないのだ。動けない。
動かせない。
指の一つすらも、満足に。
「人の平和を壊しておいて、何が……」
ミアは吐き捨てて、傷だらけのシャーロットの元に歩いていく。『牙』を装着したシャーロットの身体を抱えて、女性は近づいてくる足音に顔を上げた。
「あ、……あ、りがとう、ござい……ます」
泣き腫らした顔でカタリナはミアに礼を告げる。
「呼ばれたから」
「そう、ですか」
「シャーロットさんの、顔見せてもらってもいい……?」
カタリナはコクリと頷いてシャーロットの顔を隠している黒色の仮面を外す。
「……遅くなりました」
息はない。
彼女は既にここに居ない。
傷だらけの身体で、微笑みを残してどこか遠くへと行ってしまった。
「──シャーロットさん、お疲れ様でした」
大きく息を吸ってから、ミアはゆっくりと絞り出すように言った。
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