第116話

 一人の少女が病院に向かって歩く。


「死なないでくださいよっ……」

「わ、るい……」


 日が昇った中を傷だらけで息も絶え絶えな男性と、彼に肩を貸す額に玉の様な汗を浮かばせる女性が通り過ぎていく。ただ、アイリスは直ぐに目を離した。

 興味がなかった。

 関わるつもりもなかった。

 一瞬、目に入っただけだ。


「……アーサーに会いに行かなきゃ」


 彼女にとって、大切で必要なのは一人だけ。

 なら、他はいらない。

 どうでもいい。

 必要と不必要。

 分別を付けて生きているだけだ。

 燃えるか、燃えないか。

 そんなのと変わらないくらいに人間関係を区別してきて、アーサーさえいれば良いと、他はゴミ屑だと捨ててきた。


 だから、彼女に誰かを心配する心はない。

 例えば目の前で死にそうな子供がいても、彼女にとってはどうでも良い。それは必要がないからだ。助ける必要が、理由がない。

 誰でもない誰かに、自分の嫌いな誰かにアイリスというたった一人の、たった一度の人生を邪魔されたくない。

 アーサーに好意を寄せているのは事実。

 真実の愛とでも言っておこう。

 真っ直ぐで捩れのない、愛。

 彼のする行動には賛同する。何の意味が有るのかが理解できなくとも。あの献花に向かった日も、彼女には深く意味を見出せなかった。


 死んだのは他人だ。

 関係のない他人。

 運が悪かったと受け入れてしまえばいい。他の誰かが、赤の他人が嘆く必要はない。

 でも、アーサーが正しいと思っている。

 なら、形だけでもと。

 彼に相応しい自分で在るために。


「…………」


 自分が悪いとか、間違っているとか。彼女は思っていない。理解できないが、間違っているわけではないと考えている。


『間違ってるよ』


 脳裏にこびりつくあの女の声が聞こえた様な気がした。する筈もないと言うのに。


「黙れ……クソ売女ビッチ


 歩く速度を上げる。

 幻聴を振り切るように。過去を省みない為に。自分は前に進むのだと。

 間違っていない。

 心に言い聞かせる。後悔はない。間違いでもない。誰にも責められる言われはない。

 そうやってアイリスは自分を守る。


「ふう……」


 病院の前に着き、アイリスは急足を止めて呼吸を整える。ゆっくりと再び扉の前まで進み、自動で開くのを待つ。

 院内は静かな物だ。

 アイリスの予定は決まっていた。

 病院の受付の前に立って声をかける。


「すみません、アーサーの面会に来ました」

「はい、では此方に名前を」


 カウンターに置かれた紙に名前と関係を書き差し返す。


「お静かにお願いします」


 アイリスは廊下を無言でゆっくりと歩いていく。

 廊下の奥に消えてく彼女の背中を見送ってナースステーションの女性は小さな声で呟いた。


「健気な彼女ね。アーサーくんも幸せ者だ」


 彼女はアイリスを何も知らない。

 もしも、彼女の本質を知る人間が増えたのなら、多くの人は彼女を軽蔑するだろう。大衆、一般には彼女は理解できない性質をしているから。

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