第97話

「混乱は起こる。私が手を出さなくともな」


 一つの悪意は、複数の悪意を呼び覚ます。たった一人の行動が複数人もを突き動かす事に繋がるというのは心理的に理解できない話ではない筈だ。

 例えば、これが人種の違う、宗教の違う、遠く離れた遠い国の人間であったとしても。イルメア州セアノを除く州にも被害は及び始めている。


 とは言え、人の密集するセアノに被害規模は及ばない。警察、軍組織が対処に追われ原住民族の血を引くアスタゴの人々は銃を手にする。

 黒人は耐え難い屈辱を雪ぐように奮起して、暴動に至る。

 たった一つ線を描き、たった一つ点を打つ。

 こんなただ一つの行動に、大衆思想は侵されていく。


「『牙』も大変だろう」


 エイデンはクツクツと笑った。

 戦争に駆り出され、おまけに自国の治安維持にも努めねばならない。最も、それは自然とセアノに集中してしまうのだが。

 神経質になるのも仕方がないのだ。既に此処を攻撃された事実がある上、今も活発に狙われている。


「まあ、彼らも人員が少ないからな」


 『牙』の設計上、量産は中々に厳しい。試験的運用も兼ねて、と言った体で提供をしている。

 実際にパワードスーツとして破格のスペックを誇る『牙』を、おいそれと量産化させる事は資金的な面でも難しい。


「さて、と。──エンジェル」


 白い部屋に囚われたままの彼女に悪戯な顔で問いかける。


「デウス・エクス・マキナの調整ももう少しで終了する」

「だから?」


 睨みつけたままの表情のアリエルに歩み寄り、彼女の顎を指の腹で撫でる。


「言う必要はあるかね?」


 拒否をしても構わないが、無辜の民だけでなく、仲間が家族が死んでしまうのだと。


「……確かに私は貴方の言葉に乗った方が、誰かの為になる」


 そうだろう。

 選択肢を与えた様に見せて、実際の所は一つたりとて彼女に余地はない。

 けれど、だ。


「でも、今だけだよ」

「……何が言いたいのかね?」

「永遠の繁栄はあり得ない。この時代に於いては尚更に」


 無敵の艦隊は攻略される。

 神に人々は叛旗を翻した。

 明けぬ夜はなく、沈まぬ太陽もなく。永遠はこの世界に存在しない。


「だから、今を、この世界を生きる者を見捨てると?」

「……私はなんて言われても貴方の思惑には乗らない」


 究極の兵器があったからと言って、人間は争いを辞めないだろう。何せ、歴史が証明しているのだから。


「……はあ。所詮は子供だな」


 やれやれ、呆れた。

 エイデンは肩をすくめて見せた。


「君は我儘に過ぎる。力があると言うのに、運命を拒否すると? 余りにも身勝手だ」


 アリエルの言論はエイデンにとっては子供の幼稚な物言いだ。


「愚か者に育てられたか? 無価値な思想に毒されたか? ならば言っておこう。この世界で君の純心は響かない」


 誰の胸も打たない。


「君が何と言おうと、アスタゴの民は救世主を求める。でなければ神に祈りはしない。誰も彼もが都合よく、助かりたいと平和を求めるだけだ。君の言葉が人を救うことなどない」


 子供の言葉を端から折っていく。

 彼女の正義をどこまでも否定する。


「君の価値観は子供の描く理想でしかない。大人は空想に期待しないものだ」


 だから大人しく神になれ。

 それが正解だ。


「それに」


 エイデンはクイ、とアリエルの顎を持ち上げた。


「未来など、人はどうでも良いのだよ。人は今を良くしたいのだ」


 エイデンの言葉はきっと間違いではないのだ。ただ、アリエルという眩しいほどの純粋には理解し難い感覚であっただけだ。

 少女は近づいた老人の顔に向かって唾を吐きかける。

 べちゃ。

 無事に着弾。


「…………」


 滑稽な姿だ。

 エイデンの左の頬から、吐きかけられた唾がポタリと滴り落ちていく。


「答えは変わらない」


 こんな状況にした彼の言葉に乗るなど、どう考えたところでアリエルには認められなかった。

 どうせ、この男は何度も懲りずにアスタゴの平和のためなどと宣いながらに犠牲を重ねていくだろう。

 彼の人間性を把握していれば、これは簡単に辿り着く答えなのだ。

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