第55話
十歳迄の記憶がない。
目を覚ました頃の彼女はすでに十歳だった。年若い女性と、年齢をそれなりに重ねただろう男が自分を見つめていた。
男の顔が目に入って彼女は雛鳥の様に口を動かして、この世に生まれ落ちた第一声。
『おと……う、さん』
産声の代わりに言葉を紡いだ。
瞬間、男は顔を顰めた様で眉間に皺が入って少女はこてりと首を傾げた。ただ、仕方がないと言う様に溜息を吐いて彼は諭す。
『俺はお前の親父じゃない』
『おとう……さん?』
精神性の未熟、彼女は男の言葉を無視して呼び慕う。
『良いじゃない、お父さん』
隣に立っていた若い女性が揶揄う様に言って、男はまた更に顔を顰めた。
『他人事だと思ってんじゃねぇ……。それにコイツは──』
文句を最後まで言う事は出来なかった。
『はいはい、分かってるわよ』
『てか、俺にパスポートと金を出すって話どこに行ったんだよ』
どこか無愛想な父と、美人な近所のおばさん。それとアリエルという少女。文句を言いながら父は料理を作って、プレゼントも用意してくれて、幸せな生活を送っていた。
それが八年間の家族の思い出だ。
生まれるまでの十年を知らなくとも、八年の幸せを噛み締めて生きてきた。
恩を返したかった。育ててくれた恩を。
痛い。
ヒリヒリと焼ける様な熱さを口周りに感じて薄らとアリエルは目を開いた。拘束具が嵌められ、身動きをすることが出来ない。
窓は見当たらず、扉が一つ。
歪む視界に滲んで見える。
「ここは……」
見覚えがない。
抜け出そうにも一人では絶対に抜けられる訳もなく。
白一色の世界。
突然に扉が開いて入ってきたのは白髪の男性。見た目は若い。
「目を覚ましたか」
「誰……?」
オスカーではないことにアリエルも不審さを感じて普段とは違った剣呑な雰囲気を醸し出しながら尋ねる。
「俺はエスター。以後、お見知り置きを」
丁寧な挨拶に余計に不安が募る。
「エンジェル」
初対面の人間から向けられる感情としては、アリエルには理解出来ないものだ。この彼女個人に向けられる敬愛の籠った信仰心は。
「そのエンジェルって言うの止めてくれない」
心の奥底がムズムズして仕方がない。自分という人間をどこまでも軽視している様に感じる。異性愛を囁く様な声色でも無いのだから。アリエルを害するつもりがない事くらいは誰にでも分かるはずだ、狂信的なこの感情を見れば。
「……ふむ。エンジェルの気を損ねてしまったか。失礼した。ではアリエルと」
やはり、悪意も敵意もない。
だからこそ、底の知れない気味の悪さが彼女の心を飲み込んだ。
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